年明け二日目の朝は、澄み切った青空が広がっていた。ほわっと白い息を吐きながら空を見上げていると、ポケットにしまっていたスマホが振動する。
かじかんだ手でスマホを取り出すと、葛西からメッセージが届いていた。
[今駅着いた。これから神社に向かう]
その文面を見ただけで、頬が緩んでいく。もうすぐ葛西に会える。それだけで俺のテンションは急上昇した。
了解、と返信する代わりに、スマホのカメラを真上に向ける。朱色の鳥居と澄んだ青空を画角に収めると、シャッターを切った。
――カシャ。
一枚撮影してから、メッセージを添えて葛西に転送する。
[ここで待ってる]
これで居場所は分かるはず。既読が付いたのを確認すると、またしても頬が緩んでしまった。
今日は、葛西と初詣に行く約束をしている。年末から元旦にかけてはお互い都合がつかなかったから、葛西と直接顔を合わせるのはクリスマスイブ以来だ。
だから今日、久々に会えるのが楽しみで仕方がなかった。楽しみ過ぎて、待ち合わせ時間の20分前には神社の前に到着してしまったほどだ。
かじかんだ手でスマホの画面をスライドさせると、元旦に葛西から送られてきたメッセージが表示される。
[あけましておめでとう。去年は熊谷と出会えて本当に良かった。今年も楽しい思い出をたくさん作ろうね]
0時ちょうどに葛西から送られてきたメッセージだ。絵文字のないシンプルな文面だけど、言葉の端々から好意が滲んでいた。
葛西と過ごした日々を振り返りつつ、これから起こる出来事に思いを馳せていると、ふっと目の前に影が落ちる。
「何ニヤニヤしてんの?」
「うわあっ! 葛西!」
顔を上げると、葛西が笑いを堪えながら、こちらを見下ろしていた。
いつの間に来たんだ? というか、早くないか? 俺の予想では、もう少し時間がかかると思っていたんだけど……。
「あ、あけまして、おめでとう。もしかして走ってきた?」
「うん。熊谷に早く会いたくて、駅からダッシュしてきた」
白い息を吐きながら微笑む葛西を見て、きゅっと胸の奥が狭まる。
急がせてしまったのは申し訳ないけど、早く会いたくてというのは嬉しい。会えるのを楽しみにしていたのは、俺だけではなかったようだ。
それにしても、冬の私服姿の葛西は、一段と格好いい。黒いチェスターコートに白いニットを合わせた私服は、学校にいる時よりもずっと大人っぽく見えた。
隣を通り過ぎていく女子たちも、チラチラと葛西を気にしている。隙を見せたら声を掛けられてしまいそうだ。それはちょっと嫌だ。
「とりあえず、初詣の列に並ぼう」
「だね」
女子からの視線を遮るように葛西の隣に立つと、人の流れに従って鳥居を潜った。
いつもは閑散としている地元の小さな神社も、正月は溢れ返るほどの人で賑わっている。
おみくじや祈願受付のテントだけでなく、食べ物の屋台もずらりと並んでいてお祭りムードに包まれていた。
参拝者の表情も、心なしか晴れやかに見える。新しい年を迎えて、期待に胸を膨らませているのだろう。
初詣の列の最後尾に並びながら賑わう境内を眺めていると、隣にいた葛西にきゅっと指先を掴まれる。
「うわっ!」
前触れもなく手を握られたせいで、つい大きな声を出してしまった。
葛西は周りを気にする素振りも見せずに、俺の指をふにふにと揉んでくる。
「熊谷の手、冷たい。もしかして結構待ってた?」
「えっと、20分くらい? でも楽しみ過ぎて、俺が勝手に早く来ただけだし」
葛西のせいじゃないよと伝えたかったんだけど、俺がいかにこの日を楽しみにしていたかもばっちり伝わってしまった。
葛西は「ふーん」と意味ありげに微笑む。次の瞬間、握られていた手が葛西のポケットの中に連れ込まれてしまった。
「あ、ちょっと……」
あったかい。けど、恥ずかしい。変な汗とか、かきそうだし……。
逃げ出そうとしたが、指先を掴まれて阻まれる。抗議しようを口を開きかけたところで、葛西が耳元に顔を寄せてきた。
「逃げないで。一週間も会えてなくて熊谷不足なんだから」
そんな風にお願いされたら、逃げ出しずらくなる。気が緩んだところで、がっつり指を絡ませて中に引き戻されてしまった。
「あっ……」
「はい、これで逃げられません」
ポケットの中で繰り広げられていた攻防戦は、あっけなく俺が敗北した。
大人しく葛西のポケットの中でぬくぬくしていると、行列が少し進む。この調子だと、あと五分くらいで順番が回って来そうだ。
自分の番になった時にもたつかないように、今のうちに願い事を考えておこう。
願い事はたくさんあるけど、一番強く願うのはやっぱり葛西とのことだ。
――この先も、葛西と一緒にいられますように。
それが切実な願いなんだけど、そんなお願い事をしてもいいのだろうか?
じっと葛西の横顔を見つめていると、「ん?」と首を傾げられる。
「なに? 熊谷」
「あ、えっと……。葛西は何をお願いするのかなって」
咄嗟に話題を振ると、葛西は「そうだなぁ」と真面目な顔で考えこんだ。
「今年も熊谷サンタを見られますように、とか?」
「そんなお願いされても、神さま困るって」
ジトッとした目で突っ込みを入れると、葛西は真顔を崩して、ふっと笑いだす。
「冗談だよ。もっと健全なこと。この神社、学問の神さまを祀っているみたいだから、受験のことでも願っておこうかな」
受験と聞いて、身の引き締まる思いになる。
そうだ。今年から俺たちは、高三になるんだ。受験勉強だって、本格的に始めなければならない。
お気楽な自分が、ちょっと情けなく思えてきた。
葛西と一緒にいたい気持ちは胸の真ん中にあるけど、その願いを神頼みにするのは躊躇いがある。多分、自分の力で叶えなければ意味がない。
この先も葛西と一緒にいるためには、同じ大学を目指すのが望ましいだろうけど、今の俺にはレベルが高すぎる。成績優秀な葛西に追いつくためには、相当努力しないと難しいだろう。
それに、葛西がいるからという理由だけで決めるのも違うような気がする。将来に関わることだから、自分なりの理由を持って決めたかった。
ポケットの中で繋いだ手に、ぎゅっと力を籠める。
この手が離れていかないためにも、今年はしっかりしないと駄目だ。
俺が急に力を強めたものだから、葛西は驚いたように目を見開く。何か言われるかと身構えていたが、葛西はそっと手を握り返すだけだった。
初詣を終えて列の先頭から抜け出すと、先にお参りを済ませていた葛西と合流する。
「随分熱心にお願いしてたみたいだけど、何をお願いしてたの?」
「お願いというよりは宣言だけど……内緒」
「えー、気になるんだけど。人前では言えないこと?」
「そうじゃないけど……あっ、見て。あっちでおみくじ引けるよ。行こう!」
わざとらしく話題を逸らしてから、俺はおみくじのテントへ走った。
巫女さんからおみくじを受け取ってから、せーのっで見せ合う。
俺が引いたのは中吉だ。これは喜ぶべきなのか、落ち込むべきなのか……。
葛西のおみくじを見ると、そっちも中吉だった。
「よし、熊谷と一緒だ」
「そこ、喜ぶところじゃないから」
おみくじを見比べながら嬉しそうに笑う葛西を見て、笑いが込み上げる。
相性占いじゃないんだから、一緒だとラッキーというわけでもないだろう。
「同じ中吉でも書いてあることは違うね。俺のは、地道な努力で運気が高まるって書いてあるよ。葛西は?」
「俺のは……冷静に物事を考えることで道は拓ける、だって」
それなら問題はなさそうだ。葛西は普段から冷静だから、既に道は拓けたも同然だろう。
そう楽観視していたものの、葛西は「なるほど」としきりに頷いていた。
おみくじから視線を上げた葛西に、じっと見つめられる。何だろうと見つめ返していると、ぽんっと頭を撫でられた。
「冷静に、冷静に」
まるで俺に言い聞かせているような物言いをされて、余計に謎が深まった。
◇
帰りに屋台で大判焼きを買ってから、俺たちは境内を出る。駅に向かう流れに逆らうように、俺たちは住宅街へ向かった。
実は今日は、もうひとつの重大なミッションがある。葛西をうちに招くのだ。
葛西をうちに呼ぶのは初めてではないけど、両親と合わせるのは初めてだ。うちの近所にある神社で初詣をしようと決まった時に、葛西の方から『迷惑でなければ挨拶したい』と申し出てくれた。
一体どんな心境で、そんな重大な役目を引き受ける気になったんだろう?
隣を歩く葛西に視線を向けると、心なしか神社にいた時よりも表情が硬くなっていた。目が合うと、力なく笑いかけられる。
「緊張するなぁ。熊谷の両親に挨拶するの」
「そんなに身構えなくても大丈夫だよ? うちの親、気難しいタイプではないし」
なんてフォローしたものの、俺も結構緊張している。大判焼きが喉に詰まりそうだ。
ただの友達を招くのであればここまで緊張しないけど、葛西はそうではない。付き合っていると伝えたら、両親はどんな反応をするのだろうか? 普段から家族の前で葛西の話題を出しているわけでもないから、反応がまったく読めなかった。
マンションに近付くにつれて、お互い口数が少なくなる。エントランスについてからも、無言のままエレベーターに乗り込んだ。
五階に移動して扉の前までやって来ると、ちらりと葛西の顔を見る。葛西が小さく頷いたのを確認してから、俺は玄関の扉を開けた。
「ただいまー……」
おずおずと声をかけると、リビングの扉が開いて母さんが飛んでくる。
「おかえりー、寒かったでしょー?」
いつも調子で声をかけてきた母さんだったが、葛西の姿を見た途端、ぴたっと廊下で固まった。
相当驚いているようだ。当然か。こんなイケメンが家に来たら、誰だって驚く。
葛西は緊張を滲ませながらも、折り目正しくお辞儀をする。
「初めまして、熊谷くんと仲良くさせていただいている葛西颯斗です」
礼儀正しく挨拶をする葛西を見て、母さんの時間も動き出した。
「まあ、まあ、まあっ! ご丁寧にどうも。ささっ、あがって、あがって」
いつもより声のトーンが高いのは、相手がイケメンだからだろうか。
歓迎ムードを感じ取ったのか、葛西の表情も若干和らいだ。
「お邪魔します」
ひとまず第一関門をクリアだ。ほっと胸を下ろしながら、リビングに向かった。
ダイニングテーブルには、おせちが並んでいる。母さんが手作りした料理と市販の料理をミックスしたものだ。
俺としては見慣れた光景だったが、葛西は「すごい……」と目を輝かせていた。
そんなにすごいものではないよ、と言いかけたが、寸でのところで言葉を飲み込む。ろくに手伝いもしていない俺がそんなことを言ったら、後で母さんに小言を言われるだろう。
「葛西くん、座って、座って。ほら、眞白、お皿とお箸出してあげて」
「あ、うん、分かった」
「すみません、お構いなく」
テーブルの前で立ち尽くしている葛西に座るように促してから、俺は皿と箸を取りにキッチンへ走った。
気まずくなったらどうしようと心配していたが、葛西はすんなりうちの家族と打ち解けていた。
「この煮物、すごく美味しいです。前に分けてもらった唐揚げも美味しかったですし、料理上手なんですね」
「そう言ってくれると嬉しい。どんどん食べていってね~」
何を食べても美味しい美味しいと絶賛する葛西に、母さんも上機嫌だ。普段は口数が少ない父さんも、珍しく葛西とは会話をしていた。
恋人の両親ともすぐに打ち解けられる葛西の社交性の高さには、驚かされるばかりだ。俺だったら、こうはいかない。
異様な光景に圧倒されながらも緑茶を飲んでいると、母さんが「ふふっ」思い出したように笑った。
「それにしても、眞白から『紹介したい人がいる』って真面目な顔で言われた時は、彼女でも連れてくるんじゃないかと思った」
急に『彼女』なんて言い出すものだから、飲んでいたお茶が変なところに入ってしまった。ゲホゲホとむせていると、葛西が背中を擦ってくれる。
そういえば年末の俺は、そんな話の切り出し方で葛西を家に連れてくると伝えたんだ。意味深な前振りをされれば、彼女が来ると思われてもおかしくない。
彼女じゃなくて彼氏です。なんてさらっと言えたら良かったんだけど、それをこの場で口にする勇気はない。
せっかく出来上がった和やかな空気にヒビが入ったらと想像すると、怖気づいてしまった。
好きって気持ちを隠したくない。クリスマスイブに葛西にそう伝えたのに、俺自身がはっきり宣言できずにいる。そんな自分が情けなく思えてきた。
不甲斐なさで押しつぶされそうになっていると、葛西にぽんっと背中を叩かれる。顔を上げると、穏やかな眼差しを向けられた。
その表情は、どういう意味だ? 意図が読み取れずに固まっていると、葛西は膝の上で拳を握ってから、真剣な面持ちで両親と向き合った。
「彼女ではありませんが、熊谷くんとは末永くお付き合いしたいと思っています」
両親はにこやかに頷いている。和やかな空気にヒビが入ることもない。何事もなかったかのように時が流れているけど、俺にはちゃんと伝わった。
葛西は真っすぐな想いを伝えてくれたんだ。現時点でははっきり恋人だと宣言したわけではないけど、きちんと向き合おうとしてくれる姿勢を見せてくれただけでも胸が熱くなった。
それにしても、末永くお付き合いしたいって、プロポーズみたいじゃないか。両親の前でそんなことを言えるなんて、葛西の心臓は強すぎないか?
嬉しさと恥ずかしさが入り交じって、じわじわと顔が熱くなる。火照った顔を冷ますように、コップに入った緑茶を一気に飲み干した。
◇
「それじゃあ、葛西くん。私たちは買い物に行ってくるけど、ゆっくりして行ってね」
「はい。今日はありがとうございました。おせちも、すごく美味しかったです」
買いものに出掛ける両親を玄関で見送ると、一気に力が抜けてしまう。家族と引き合わせるという重大なミッションはクリアだ。
社交的な笑みを浮かべていた葛西も、ホッとしたように息をついていた。
「とりあえず、俺の部屋行く?」
「うん」
部屋に移動してからベッドに並んで座ると、葛西は緊張の糸が切れたように肩の力を抜いた。
「あー、緊張したー」
「普通に喋っていたように見えたけど、やっぱり緊張してたんだ」
「そりゃあするでしょ。好きな人の親に挨拶をするんだから。嫌われたらどうしようって気が気じゃなかったし」
そつなく会話をしていた葛西が、内心ではガチガチに緊張していたと考えるとちょっと笑えた。
「ごめんね、色々気を遣わせて」
「ううん。緊張したけど、楽しかった。良い家族だよね。明るいし、仲良さそうだし。思い切って挨拶に来て良かった」
楽しかったと言ってもらえたのは嬉しい。両親も葛西を気に入っていたようだし、これからは気兼ねなく家に招くこともできそうだ。
目を細めながら微笑む葛西を見て安心する一方で、胸の奥では後ろめたさも残っている。
「けど、彼氏だって紹介できなかったのは、ごめん……」
がっかりされることも覚悟していたが、葛西は気にする素振りも見せずに首を振った。
「それは焦らなくても良いと思う。身近な人だからこそ、言い出しづらいっていうのもあると思うし、熊谷のタイミングで全然構わないから。俺なんか多分……」
そこで不自然に言葉を詰まらせる。妙な間が空いた後、葛西は違和感を振り払うように微笑んだ。
「誰に何と言われようが、熊谷を好きって気持ちは変わらないし、手放す気もないから。それだけは覚えておいて」
真っすぐ飛んできた言葉は、胸の内で渦巻いていた後ろめたさまでも綺麗さっぱり吹き飛ばしてしまった。
やっぱり葛西は凄いな。はっきりと想いを口にして伝えられるんだから。
葛西はこんなにも真剣に向き合ってくれているんだ。その想いに俺も応えたい。
暴れまわる心臓を押さえながら、隣に座る葛西をじっと見据える。
「俺も、葛西のこと好きだし、手放す気ないから。だからその……」
この先も一緒に――。
そう言いかけたところで、葛西に肩を掴まれる。大きく目を見開いた瞬間、唇を塞がれてしまった。
「んっ……」
不意打ちのキスで、頭の中が真っ白になる。いきなりだったから、心の準備も全然できていなかった。
葛西とキスをするのは二度目だけど、前回以上にドキドキしている。煩いほどに鳴っている心臓の音が、葛西にも聞こえてしまいそうだ。
混乱しているうちに、葛西はゆっくりと離れていく。じっと向けられた瞳には、明らかに熱がこもっていた。
「今のは反則。一瞬で理性が吹き飛んだ」
反則って……。葛西に言われたことを返しただけなんだけど……。
瞬きを繰り返していると、葛西に腰を抱き寄せられる。
「足りない。もっとしていい?」
ギラついた眼差しでお願いされたら、拒むことなんてできなかった。
それに、さっきはわけも分からずに終わってしまったんだ。追加を希望しているのは、こっちも同じだ。
いいよ、と返事をする代わりに目を閉じる。葛西は意図を汲み取ったかのように、そっと唇を重ねた。
今度は心構えをしてから挑んだせいか、感覚が鋭敏になっている。柔らかな感触も、ぬくもりも、鮮明に伝わってきた。
――ああ、やっぱり好きだ。
触れ合っていると、葛西への想いがとめどなく溢れ返ってくる。
好きな人とキスをするだけで、こんなにも幸せな気分になれるなら、俺の幸福ゲージはあっという間に満タンになってしまいそうだ。
触れるだけのキスなのに、気持ち良すぎて力が抜けてしまう。座っていることすらできなくなって、ふにゃふにゃとベッドに仰向けで倒れこんでしまった。
すると葛西が逃がすまいと、俺の真横に手を置いて覆い被さってくる。熱のこもった眼差しで見下ろされると、ぞくりと肌が粟立った。
もっとされるのかと思っていたけど、葛西はそれ以上距離を詰めてこない。無言のまま、俺の唇をふにふにと指で弄っていた。
これはどういう状況だ? 何か考え事をしているようにも見えるけど……。
ドキドキしながらもされるがままになっていると、葛西は邪念を追い払うように首を振った。
「今日はここでやめておこう。これ以上は、止まらなくなりそう」
そう区切りをつけると、葛西は甘いムードを振り払うようにベッドから立ち上がった。
俺的にはもうちょっと続けても構わなかったけど……葛西がそう言うなら終わりにしよう。
「熊谷、ちょっとだけ窓開けていい? この部屋暑い」
「ああ、うん、いいよ」
ベッドから起き上がりながら許可を出すと、葛西は部屋にこもった熱を追い払うように窓を開けた。
冷たい風が吹き込むと、ぼんやりしていた頭がクリアになっていく。窓辺を見ると、葛西が悩まし気に口元を押さえていた。
「熊谷といると、冷静さを失いそうになるから本当危ない」
冷静さ、と聞いて神社で引いたおみくじのことを思い出す。
「冷静に物事を考えることで道は拓ける、だっけ?」
「そうそれ。今年の俺の戒め」
大真面目に言う葛西を見て、笑いが込み上げる。
それなら俺は、その冷静さを乱してしまおうかな、なんて良くない考えが浮かんでしまった。実行するかは分からないけど。
ひとりで笑いを堪えていると、葛西が「そういえば」と思い出したかのように話を振ってくる。
「熊谷の願い事、はぐらかされたままだった」
「え? それまた聞く?」
その話題はとっくに終わったと思ったのに、また掘り返されてしまった。そんなに気になるなら言ってしまおうかと揺らいだが、寸でのところで思い留まる。
「叶ったら教える」
今はまだ、言わないでおこう。言葉ではなく、行動で証明していきたいから。
「ふーん……じゃあそれまで待ってる」
「うん、待ってて」
残念そうな表情を浮かべながらも引き下がる葛西を見て、ホッと胸を撫でおろした。
俺は拝殿の前で念じた言葉を思い返す。
――今年こそ、葛西とつり合う男になります。
今年も、来年も、その先も、葛西と一緒にいたい。そのためにも、神さまに宣言したんだ。
一番叶えたい願い事は、やっぱり自分の力で叶えたかった。
かじかんだ手でスマホを取り出すと、葛西からメッセージが届いていた。
[今駅着いた。これから神社に向かう]
その文面を見ただけで、頬が緩んでいく。もうすぐ葛西に会える。それだけで俺のテンションは急上昇した。
了解、と返信する代わりに、スマホのカメラを真上に向ける。朱色の鳥居と澄んだ青空を画角に収めると、シャッターを切った。
――カシャ。
一枚撮影してから、メッセージを添えて葛西に転送する。
[ここで待ってる]
これで居場所は分かるはず。既読が付いたのを確認すると、またしても頬が緩んでしまった。
今日は、葛西と初詣に行く約束をしている。年末から元旦にかけてはお互い都合がつかなかったから、葛西と直接顔を合わせるのはクリスマスイブ以来だ。
だから今日、久々に会えるのが楽しみで仕方がなかった。楽しみ過ぎて、待ち合わせ時間の20分前には神社の前に到着してしまったほどだ。
かじかんだ手でスマホの画面をスライドさせると、元旦に葛西から送られてきたメッセージが表示される。
[あけましておめでとう。去年は熊谷と出会えて本当に良かった。今年も楽しい思い出をたくさん作ろうね]
0時ちょうどに葛西から送られてきたメッセージだ。絵文字のないシンプルな文面だけど、言葉の端々から好意が滲んでいた。
葛西と過ごした日々を振り返りつつ、これから起こる出来事に思いを馳せていると、ふっと目の前に影が落ちる。
「何ニヤニヤしてんの?」
「うわあっ! 葛西!」
顔を上げると、葛西が笑いを堪えながら、こちらを見下ろしていた。
いつの間に来たんだ? というか、早くないか? 俺の予想では、もう少し時間がかかると思っていたんだけど……。
「あ、あけまして、おめでとう。もしかして走ってきた?」
「うん。熊谷に早く会いたくて、駅からダッシュしてきた」
白い息を吐きながら微笑む葛西を見て、きゅっと胸の奥が狭まる。
急がせてしまったのは申し訳ないけど、早く会いたくてというのは嬉しい。会えるのを楽しみにしていたのは、俺だけではなかったようだ。
それにしても、冬の私服姿の葛西は、一段と格好いい。黒いチェスターコートに白いニットを合わせた私服は、学校にいる時よりもずっと大人っぽく見えた。
隣を通り過ぎていく女子たちも、チラチラと葛西を気にしている。隙を見せたら声を掛けられてしまいそうだ。それはちょっと嫌だ。
「とりあえず、初詣の列に並ぼう」
「だね」
女子からの視線を遮るように葛西の隣に立つと、人の流れに従って鳥居を潜った。
いつもは閑散としている地元の小さな神社も、正月は溢れ返るほどの人で賑わっている。
おみくじや祈願受付のテントだけでなく、食べ物の屋台もずらりと並んでいてお祭りムードに包まれていた。
参拝者の表情も、心なしか晴れやかに見える。新しい年を迎えて、期待に胸を膨らませているのだろう。
初詣の列の最後尾に並びながら賑わう境内を眺めていると、隣にいた葛西にきゅっと指先を掴まれる。
「うわっ!」
前触れもなく手を握られたせいで、つい大きな声を出してしまった。
葛西は周りを気にする素振りも見せずに、俺の指をふにふにと揉んでくる。
「熊谷の手、冷たい。もしかして結構待ってた?」
「えっと、20分くらい? でも楽しみ過ぎて、俺が勝手に早く来ただけだし」
葛西のせいじゃないよと伝えたかったんだけど、俺がいかにこの日を楽しみにしていたかもばっちり伝わってしまった。
葛西は「ふーん」と意味ありげに微笑む。次の瞬間、握られていた手が葛西のポケットの中に連れ込まれてしまった。
「あ、ちょっと……」
あったかい。けど、恥ずかしい。変な汗とか、かきそうだし……。
逃げ出そうとしたが、指先を掴まれて阻まれる。抗議しようを口を開きかけたところで、葛西が耳元に顔を寄せてきた。
「逃げないで。一週間も会えてなくて熊谷不足なんだから」
そんな風にお願いされたら、逃げ出しずらくなる。気が緩んだところで、がっつり指を絡ませて中に引き戻されてしまった。
「あっ……」
「はい、これで逃げられません」
ポケットの中で繰り広げられていた攻防戦は、あっけなく俺が敗北した。
大人しく葛西のポケットの中でぬくぬくしていると、行列が少し進む。この調子だと、あと五分くらいで順番が回って来そうだ。
自分の番になった時にもたつかないように、今のうちに願い事を考えておこう。
願い事はたくさんあるけど、一番強く願うのはやっぱり葛西とのことだ。
――この先も、葛西と一緒にいられますように。
それが切実な願いなんだけど、そんなお願い事をしてもいいのだろうか?
じっと葛西の横顔を見つめていると、「ん?」と首を傾げられる。
「なに? 熊谷」
「あ、えっと……。葛西は何をお願いするのかなって」
咄嗟に話題を振ると、葛西は「そうだなぁ」と真面目な顔で考えこんだ。
「今年も熊谷サンタを見られますように、とか?」
「そんなお願いされても、神さま困るって」
ジトッとした目で突っ込みを入れると、葛西は真顔を崩して、ふっと笑いだす。
「冗談だよ。もっと健全なこと。この神社、学問の神さまを祀っているみたいだから、受験のことでも願っておこうかな」
受験と聞いて、身の引き締まる思いになる。
そうだ。今年から俺たちは、高三になるんだ。受験勉強だって、本格的に始めなければならない。
お気楽な自分が、ちょっと情けなく思えてきた。
葛西と一緒にいたい気持ちは胸の真ん中にあるけど、その願いを神頼みにするのは躊躇いがある。多分、自分の力で叶えなければ意味がない。
この先も葛西と一緒にいるためには、同じ大学を目指すのが望ましいだろうけど、今の俺にはレベルが高すぎる。成績優秀な葛西に追いつくためには、相当努力しないと難しいだろう。
それに、葛西がいるからという理由だけで決めるのも違うような気がする。将来に関わることだから、自分なりの理由を持って決めたかった。
ポケットの中で繋いだ手に、ぎゅっと力を籠める。
この手が離れていかないためにも、今年はしっかりしないと駄目だ。
俺が急に力を強めたものだから、葛西は驚いたように目を見開く。何か言われるかと身構えていたが、葛西はそっと手を握り返すだけだった。
初詣を終えて列の先頭から抜け出すと、先にお参りを済ませていた葛西と合流する。
「随分熱心にお願いしてたみたいだけど、何をお願いしてたの?」
「お願いというよりは宣言だけど……内緒」
「えー、気になるんだけど。人前では言えないこと?」
「そうじゃないけど……あっ、見て。あっちでおみくじ引けるよ。行こう!」
わざとらしく話題を逸らしてから、俺はおみくじのテントへ走った。
巫女さんからおみくじを受け取ってから、せーのっで見せ合う。
俺が引いたのは中吉だ。これは喜ぶべきなのか、落ち込むべきなのか……。
葛西のおみくじを見ると、そっちも中吉だった。
「よし、熊谷と一緒だ」
「そこ、喜ぶところじゃないから」
おみくじを見比べながら嬉しそうに笑う葛西を見て、笑いが込み上げる。
相性占いじゃないんだから、一緒だとラッキーというわけでもないだろう。
「同じ中吉でも書いてあることは違うね。俺のは、地道な努力で運気が高まるって書いてあるよ。葛西は?」
「俺のは……冷静に物事を考えることで道は拓ける、だって」
それなら問題はなさそうだ。葛西は普段から冷静だから、既に道は拓けたも同然だろう。
そう楽観視していたものの、葛西は「なるほど」としきりに頷いていた。
おみくじから視線を上げた葛西に、じっと見つめられる。何だろうと見つめ返していると、ぽんっと頭を撫でられた。
「冷静に、冷静に」
まるで俺に言い聞かせているような物言いをされて、余計に謎が深まった。
◇
帰りに屋台で大判焼きを買ってから、俺たちは境内を出る。駅に向かう流れに逆らうように、俺たちは住宅街へ向かった。
実は今日は、もうひとつの重大なミッションがある。葛西をうちに招くのだ。
葛西をうちに呼ぶのは初めてではないけど、両親と合わせるのは初めてだ。うちの近所にある神社で初詣をしようと決まった時に、葛西の方から『迷惑でなければ挨拶したい』と申し出てくれた。
一体どんな心境で、そんな重大な役目を引き受ける気になったんだろう?
隣を歩く葛西に視線を向けると、心なしか神社にいた時よりも表情が硬くなっていた。目が合うと、力なく笑いかけられる。
「緊張するなぁ。熊谷の両親に挨拶するの」
「そんなに身構えなくても大丈夫だよ? うちの親、気難しいタイプではないし」
なんてフォローしたものの、俺も結構緊張している。大判焼きが喉に詰まりそうだ。
ただの友達を招くのであればここまで緊張しないけど、葛西はそうではない。付き合っていると伝えたら、両親はどんな反応をするのだろうか? 普段から家族の前で葛西の話題を出しているわけでもないから、反応がまったく読めなかった。
マンションに近付くにつれて、お互い口数が少なくなる。エントランスについてからも、無言のままエレベーターに乗り込んだ。
五階に移動して扉の前までやって来ると、ちらりと葛西の顔を見る。葛西が小さく頷いたのを確認してから、俺は玄関の扉を開けた。
「ただいまー……」
おずおずと声をかけると、リビングの扉が開いて母さんが飛んでくる。
「おかえりー、寒かったでしょー?」
いつも調子で声をかけてきた母さんだったが、葛西の姿を見た途端、ぴたっと廊下で固まった。
相当驚いているようだ。当然か。こんなイケメンが家に来たら、誰だって驚く。
葛西は緊張を滲ませながらも、折り目正しくお辞儀をする。
「初めまして、熊谷くんと仲良くさせていただいている葛西颯斗です」
礼儀正しく挨拶をする葛西を見て、母さんの時間も動き出した。
「まあ、まあ、まあっ! ご丁寧にどうも。ささっ、あがって、あがって」
いつもより声のトーンが高いのは、相手がイケメンだからだろうか。
歓迎ムードを感じ取ったのか、葛西の表情も若干和らいだ。
「お邪魔します」
ひとまず第一関門をクリアだ。ほっと胸を下ろしながら、リビングに向かった。
ダイニングテーブルには、おせちが並んでいる。母さんが手作りした料理と市販の料理をミックスしたものだ。
俺としては見慣れた光景だったが、葛西は「すごい……」と目を輝かせていた。
そんなにすごいものではないよ、と言いかけたが、寸でのところで言葉を飲み込む。ろくに手伝いもしていない俺がそんなことを言ったら、後で母さんに小言を言われるだろう。
「葛西くん、座って、座って。ほら、眞白、お皿とお箸出してあげて」
「あ、うん、分かった」
「すみません、お構いなく」
テーブルの前で立ち尽くしている葛西に座るように促してから、俺は皿と箸を取りにキッチンへ走った。
気まずくなったらどうしようと心配していたが、葛西はすんなりうちの家族と打ち解けていた。
「この煮物、すごく美味しいです。前に分けてもらった唐揚げも美味しかったですし、料理上手なんですね」
「そう言ってくれると嬉しい。どんどん食べていってね~」
何を食べても美味しい美味しいと絶賛する葛西に、母さんも上機嫌だ。普段は口数が少ない父さんも、珍しく葛西とは会話をしていた。
恋人の両親ともすぐに打ち解けられる葛西の社交性の高さには、驚かされるばかりだ。俺だったら、こうはいかない。
異様な光景に圧倒されながらも緑茶を飲んでいると、母さんが「ふふっ」思い出したように笑った。
「それにしても、眞白から『紹介したい人がいる』って真面目な顔で言われた時は、彼女でも連れてくるんじゃないかと思った」
急に『彼女』なんて言い出すものだから、飲んでいたお茶が変なところに入ってしまった。ゲホゲホとむせていると、葛西が背中を擦ってくれる。
そういえば年末の俺は、そんな話の切り出し方で葛西を家に連れてくると伝えたんだ。意味深な前振りをされれば、彼女が来ると思われてもおかしくない。
彼女じゃなくて彼氏です。なんてさらっと言えたら良かったんだけど、それをこの場で口にする勇気はない。
せっかく出来上がった和やかな空気にヒビが入ったらと想像すると、怖気づいてしまった。
好きって気持ちを隠したくない。クリスマスイブに葛西にそう伝えたのに、俺自身がはっきり宣言できずにいる。そんな自分が情けなく思えてきた。
不甲斐なさで押しつぶされそうになっていると、葛西にぽんっと背中を叩かれる。顔を上げると、穏やかな眼差しを向けられた。
その表情は、どういう意味だ? 意図が読み取れずに固まっていると、葛西は膝の上で拳を握ってから、真剣な面持ちで両親と向き合った。
「彼女ではありませんが、熊谷くんとは末永くお付き合いしたいと思っています」
両親はにこやかに頷いている。和やかな空気にヒビが入ることもない。何事もなかったかのように時が流れているけど、俺にはちゃんと伝わった。
葛西は真っすぐな想いを伝えてくれたんだ。現時点でははっきり恋人だと宣言したわけではないけど、きちんと向き合おうとしてくれる姿勢を見せてくれただけでも胸が熱くなった。
それにしても、末永くお付き合いしたいって、プロポーズみたいじゃないか。両親の前でそんなことを言えるなんて、葛西の心臓は強すぎないか?
嬉しさと恥ずかしさが入り交じって、じわじわと顔が熱くなる。火照った顔を冷ますように、コップに入った緑茶を一気に飲み干した。
◇
「それじゃあ、葛西くん。私たちは買い物に行ってくるけど、ゆっくりして行ってね」
「はい。今日はありがとうございました。おせちも、すごく美味しかったです」
買いものに出掛ける両親を玄関で見送ると、一気に力が抜けてしまう。家族と引き合わせるという重大なミッションはクリアだ。
社交的な笑みを浮かべていた葛西も、ホッとしたように息をついていた。
「とりあえず、俺の部屋行く?」
「うん」
部屋に移動してからベッドに並んで座ると、葛西は緊張の糸が切れたように肩の力を抜いた。
「あー、緊張したー」
「普通に喋っていたように見えたけど、やっぱり緊張してたんだ」
「そりゃあするでしょ。好きな人の親に挨拶をするんだから。嫌われたらどうしようって気が気じゃなかったし」
そつなく会話をしていた葛西が、内心ではガチガチに緊張していたと考えるとちょっと笑えた。
「ごめんね、色々気を遣わせて」
「ううん。緊張したけど、楽しかった。良い家族だよね。明るいし、仲良さそうだし。思い切って挨拶に来て良かった」
楽しかったと言ってもらえたのは嬉しい。両親も葛西を気に入っていたようだし、これからは気兼ねなく家に招くこともできそうだ。
目を細めながら微笑む葛西を見て安心する一方で、胸の奥では後ろめたさも残っている。
「けど、彼氏だって紹介できなかったのは、ごめん……」
がっかりされることも覚悟していたが、葛西は気にする素振りも見せずに首を振った。
「それは焦らなくても良いと思う。身近な人だからこそ、言い出しづらいっていうのもあると思うし、熊谷のタイミングで全然構わないから。俺なんか多分……」
そこで不自然に言葉を詰まらせる。妙な間が空いた後、葛西は違和感を振り払うように微笑んだ。
「誰に何と言われようが、熊谷を好きって気持ちは変わらないし、手放す気もないから。それだけは覚えておいて」
真っすぐ飛んできた言葉は、胸の内で渦巻いていた後ろめたさまでも綺麗さっぱり吹き飛ばしてしまった。
やっぱり葛西は凄いな。はっきりと想いを口にして伝えられるんだから。
葛西はこんなにも真剣に向き合ってくれているんだ。その想いに俺も応えたい。
暴れまわる心臓を押さえながら、隣に座る葛西をじっと見据える。
「俺も、葛西のこと好きだし、手放す気ないから。だからその……」
この先も一緒に――。
そう言いかけたところで、葛西に肩を掴まれる。大きく目を見開いた瞬間、唇を塞がれてしまった。
「んっ……」
不意打ちのキスで、頭の中が真っ白になる。いきなりだったから、心の準備も全然できていなかった。
葛西とキスをするのは二度目だけど、前回以上にドキドキしている。煩いほどに鳴っている心臓の音が、葛西にも聞こえてしまいそうだ。
混乱しているうちに、葛西はゆっくりと離れていく。じっと向けられた瞳には、明らかに熱がこもっていた。
「今のは反則。一瞬で理性が吹き飛んだ」
反則って……。葛西に言われたことを返しただけなんだけど……。
瞬きを繰り返していると、葛西に腰を抱き寄せられる。
「足りない。もっとしていい?」
ギラついた眼差しでお願いされたら、拒むことなんてできなかった。
それに、さっきはわけも分からずに終わってしまったんだ。追加を希望しているのは、こっちも同じだ。
いいよ、と返事をする代わりに目を閉じる。葛西は意図を汲み取ったかのように、そっと唇を重ねた。
今度は心構えをしてから挑んだせいか、感覚が鋭敏になっている。柔らかな感触も、ぬくもりも、鮮明に伝わってきた。
――ああ、やっぱり好きだ。
触れ合っていると、葛西への想いがとめどなく溢れ返ってくる。
好きな人とキスをするだけで、こんなにも幸せな気分になれるなら、俺の幸福ゲージはあっという間に満タンになってしまいそうだ。
触れるだけのキスなのに、気持ち良すぎて力が抜けてしまう。座っていることすらできなくなって、ふにゃふにゃとベッドに仰向けで倒れこんでしまった。
すると葛西が逃がすまいと、俺の真横に手を置いて覆い被さってくる。熱のこもった眼差しで見下ろされると、ぞくりと肌が粟立った。
もっとされるのかと思っていたけど、葛西はそれ以上距離を詰めてこない。無言のまま、俺の唇をふにふにと指で弄っていた。
これはどういう状況だ? 何か考え事をしているようにも見えるけど……。
ドキドキしながらもされるがままになっていると、葛西は邪念を追い払うように首を振った。
「今日はここでやめておこう。これ以上は、止まらなくなりそう」
そう区切りをつけると、葛西は甘いムードを振り払うようにベッドから立ち上がった。
俺的にはもうちょっと続けても構わなかったけど……葛西がそう言うなら終わりにしよう。
「熊谷、ちょっとだけ窓開けていい? この部屋暑い」
「ああ、うん、いいよ」
ベッドから起き上がりながら許可を出すと、葛西は部屋にこもった熱を追い払うように窓を開けた。
冷たい風が吹き込むと、ぼんやりしていた頭がクリアになっていく。窓辺を見ると、葛西が悩まし気に口元を押さえていた。
「熊谷といると、冷静さを失いそうになるから本当危ない」
冷静さ、と聞いて神社で引いたおみくじのことを思い出す。
「冷静に物事を考えることで道は拓ける、だっけ?」
「そうそれ。今年の俺の戒め」
大真面目に言う葛西を見て、笑いが込み上げる。
それなら俺は、その冷静さを乱してしまおうかな、なんて良くない考えが浮かんでしまった。実行するかは分からないけど。
ひとりで笑いを堪えていると、葛西が「そういえば」と思い出したかのように話を振ってくる。
「熊谷の願い事、はぐらかされたままだった」
「え? それまた聞く?」
その話題はとっくに終わったと思ったのに、また掘り返されてしまった。そんなに気になるなら言ってしまおうかと揺らいだが、寸でのところで思い留まる。
「叶ったら教える」
今はまだ、言わないでおこう。言葉ではなく、行動で証明していきたいから。
「ふーん……じゃあそれまで待ってる」
「うん、待ってて」
残念そうな表情を浮かべながらも引き下がる葛西を見て、ホッと胸を撫でおろした。
俺は拝殿の前で念じた言葉を思い返す。
――今年こそ、葛西とつり合う男になります。
今年も、来年も、その先も、葛西と一緒にいたい。そのためにも、神さまに宣言したんだ。
一番叶えたい願い事は、やっぱり自分の力で叶えたかった。



