「先輩ロジャーラビットなんでそんなに色っぽいの」
「言い方」
 中田は結陽の頭を軽くはたき、被服室に入っていった。

 ゴールデンウィークの土曜日。
 今日部活に来ているのは5人。高校ストリートダンスの大会は夏にある。まだ先。残りの10人は今頃春のバカンスを楽しんでいるのかもしれない。
 ダンス部に結陽が入って男子が2名。
 必然的に一緒にいる時間も多くなる。
 結陽は開いた被服室の窓枠にもたれて中田の姿を目で追った。他の女子は渡り廊下で去年のダンス大会の動画を観ている。
 俺、中田先輩を独り占めしてんじゃん。

 普段から土曜日の午前中は講堂を使えない。渡り廊下と鏡のある被服室のL字型の空間が練習場所。
 このL字型の角にあたる廊下部分にも大きな鏡があるから、部活ではない時間でもダンス好きの生徒がこの鏡の前で数人で踊っている。ダンスは場所を選ばず、思い立ったらその場で、何も持たず、何人とでも、どこの動きからでもできるのが魅力だ。

 中田は結陽に背を向けて自分の鞄をごそごそ触っていたが、振り向くと口にカロリーメイトをくわえていた。
「さっきのステップ。そんな名前ついてるの?」
 中田先輩、朝ご飯食べずに来たっぽい。
 食べながら喋っていても上品に見えるからすごいと思う。立喰いなのに品があるって、それはもう特技って言ってしまっていいんじゃないか。
「はい。ってあれ?動きだけ教えてもらってる?」
「うん」
 跳ねるビート。シンプルな動きと躍動感。
 ステップの種類やジャンルや生み出された時代背景を頭に入れなくたって、こんなふうに魅せる動きができる男。
「えぇと中田先輩!俺たちもバカンスしよ」
 結陽は自分のリュックを右手で掴み、左手で中田のTシャツの肩のあたりを掴んで引っ張った。被服室の一番奥のグラウンド側の窓まで誘導してガラス窓を全開にする。
 陽だまりの匂い。野球部の練習音。吹奏楽部の管楽器の低い響き。それらが入ってきて被服室を満たした。
「はいジントニック」
 結陽が「どうぞ」と手渡したペットボトルを受け取りながら中田がびっくりした顔をする。
「ただの檸檬水。ジン入れたいけど」
 結陽はそう言って笑ってから自分のトニックウォーターの蓋を開け、窓辺であおった。
「先輩せんぱ〜い中田先輩〜」
 結陽は窓辺で頬杖をつき、五月の薄い青空を見ながら叫ぶ。
 自分の左肩が中田の右肩の熱を感じる。
「先輩はどれくらい好き?彼女のこと」  
 結陽が左にいる中田を見上げるようにして上目遣いで尋ねると「すごい」と中田は感心したように結陽を見た。
「人のプライベートな内容をさらりと聴いてくるね」
 そう言った中田の前髪が風で揺れた。
「先輩が彼女のことを好きな気持ちより俺があなたを好きな気持ちの方が十倍くらい大きかったら」
 結陽はここまで一息に言葉にしてから顔を中田に近付けた。
「俺を彼氏候補にしてくれますか」
 中田の端整な顔が子どもっぽい無垢な驚き顔にゆっくり作り替えられていく。
「…そんな口説き方があるんだなぁ」
 心底驚いたようで口元まで持ってきていたペットボトルがずっと同じ角度で止まったままだった。
 吾に返ったように右手元に視線を落とした中田がゆっくり水を飲む。
 結陽はまた中田の喉元から目が離せなくなる。
「中田先輩のこと考えないようにしようと思ってもムリ。だって名前に月と太陽が含まれてるじゃん。夜に月見てもあなたを考えちゃうし昼間なんて太陽の光でこの世界は充たされてるしさ」
 昨晩の月はちょうど半分に割った檸檬みたいな半月だった。ベランダから見上げた夜空に滲んで見えた。結陽は中田からグラウンドに視線を移し、腕を広げて伸びをした。
「君の名前にも太陽はあるけどね」
 中田はそう言って窓枠に頬杖をついて前屈みになる。遠くを見つめながら思考を巡らせているような顔つき。
 中田がこういう姿勢を取る時、右手か左手の人差し指あたりに自分の唇を当てる。今日は左手の人差し指。それが癖だと気付いているのは俺だけじゃないかと結陽は思う。

 結陽は夢想する。
 左利きの数ぐらいは性指向マイノリティがいるんだったら可能性はゼロじゃない。
 中田先輩の少年時代。かつての結陽のような体験があったかもしれない。好きだなと思う相手は異性が多いけど、ある同性に対して特別の感情を持ったことで心が揺さぶられる。結陽はそこから相手を長く片想いしつづけたけど中田少年は煩悶して揺れ続けた。だから歳を重ねて経験値を増やしてこの感情に対峙したり対処したりできるようになるまではメジャーな性指向であるような素振りをすることに決める。そんなわけで幼馴染で気心のしれた一つ年上のカナちゃんに彼女のフリをしてもらっている。
 うん、こういうこともありえる。
 ところで、カナちゃんって、誰?
「先輩、俺今あっちの世界いっちゃってた」
「そうみたいだね」
「彼女の名前、カナちゃんだったりする?」
「しない」
 そう答えた中田が結陽を見たので目が合った。
「芳野って個性的」
 中田の左手が解放されたので結陽はさりげない仕草で右手を出し、中田の左人差し指に自分の手の甲を素早く当てた。中田がその動きの軌跡を視線で辿る。
 今までも何回もこうやって残留している熱を盗んでいるけれど、中田は全く気付いていなかった。今日みたいには堂々とやっていないから。
 結陽は中田を見たまま、自分の右手の甲を自分の口元に持ってきて唇に当てた。
 結陽にとっては今やこの動きが自分の癖になってしまっている。
 その動きを見ていた中田は身体を反転させて窓にもたれかかって両手で顔を覆った。
 この結陽の行為の意味に気付いたかもしれない。
 困惑なのか驚きなのか不快さなのか。
 結陽はさらに中田に近付いて、その細い指の下の相手の表情を伺おうとした。
 広げられた指の隙間から相手の肌が見える。そこと首元が両方とも少し紅潮しているのを結陽は目の当たりにした。
 結陽は目の前にある中田の両手首を掴んだ。
「ねぇ先輩、顔見せてよ」
「バカっやめろ!」
 初めて聞く乱暴な言葉遣いに結陽は心が満たされていく。16ビートのリズムの似合う一つ年上のこの男は、乱暴な言い方をしても上品なままだ。
 俺が一つの家だとしたら。
 そこには窓だけじゃなくてたくさんドアがあって。
 あなただったらどのドアからでも入れる。
 いつでも入ってきてほしい。
 月と太陽と16ビートのリズムは、生きていくうえで欠かせないんだ。