放課後の怖がり




 あれは、私が中学二年生の冬のときのことです。
 珍しく提出物を忘れてしまった私は、自分の教室でそれに取り組んでいました。

 それを忘れたのは私だけではありませんでした。
 隣のクラスのマドカも、一緒にやりたいと言い、隣の席でやっていました。

 私とマドカは、この日が初対面でした。

 お互い距離感を探って……いえ、探っていたのは、人見知りをする私だけだったのかもしれません。

 教室で居残りをしている私を見つけた第一声が、「私も一緒にやってもいい? 隣座るね!」でしたから。
 私の答えは聞かないの?と困惑しました。

 それでも、広い教室に一人でいるよりはマシだと思い、大人しく受け入れることにしました。

「ねね、知ってる? 木造校舎ってね、出るらしいよ」

 課題に飽きたのか、マドカは身を乗り出し、楽しそうに言ってきました。

「……出るって?」

 今も昔も、怖いものが苦手な私。
 嫌な予感がしつつも、恐る恐る尋ねました。

「お化けだよ、お化け!」

 マドカのその表情は本当に嬉々としていて、私は嫌だと言うタイミングを完全に逃してしまいました。



 夕暮れ時。
 空が赤く染まるそのとき、木造校舎の廊下を歩き進めると、自分ではないだれかの足音がする。


 木造校舎は母が中学生のときからある、古い建物でした。
 そのため、一歩進むたびに軋む音が響くのです。


 立ち止まって、振り返ろうか。
 そうすれば、怖さからは開放される。

 だけど、ふと気付いた。

 少し離れたところで聞こえていたはずの足音が、すぐそこまて迫っている。

 これは、振り向いてもいいのか……?

「ねえ……アソぼ……?」

 その声とともに、肩には真っ黒な、人ではない手が置かれていた……



「……ね!? 超怖くない!?」

 楽しそうにしている割には、内容が薄い怪談でした。

 当時、私は文芸部に所属していて、さまざまな物語に触れていました。
 ……いえ、これは今もですね。
 とにかく、物語の海に浸ることが好きなんです。

 そんな私にとって、マドカの怪談は“つまらない”部類に入るものでした。

「……私、終わったから先に提出してくる」
「え!? 終わったの!?」

 もしかしたら、これはただの序章かもしれない。
 今から、もっと怖い話を聞かされるかもしれない。

 そんな予感がして、私は机の上を片付けると、席を離れました。

 教室を出る前に振り返ると、マドカは手を振っていました。

「また話そうね」

 無視はできなくて、私は小さく手を振り返し、職員室に向かいました。

「木村さん、すぐ部活に顔を出しますか?」

 このまま帰ろう。
 そう思っていたのに、文芸部の顧問の先生に引き止められ、言われました。

 木造校舎にある、図書室。
 そこが、文芸部の部室でした。

 話を聞けば、その日は部長が休んでいたそうです。
 となれば、副部長である私が行くしかありません。

 いくら陳腐なものでも、怪談は怪談。
 あれを聞いたあとに木造校舎に足を踏み入れるのは、少し勇気が必要でした。

 吹奏楽部や野球部、バスケ部。
 たくさんの人たちが部活に勤しんでいる音を聞きながら、たどり着いた木造校舎。

 そこは、賑やかさとはかけ離れていました。

 一歩踏み込めば、床が軋みます。
 日が傾き始めていましたから、夕日が差し込んでいることに気付いたときです。

『後ろから自分以外の足音が聞こえてきて』

 マドカの話が頭によぎり、私は後ろを見ました。

 誰もいません。
 当然です。
 まだ、足音も聞こえていないのですから。

 それでも、警戒しないよりはマシでした。

 自分の足音と、そうではない音。
 それを聞き分けながら、図書室に向かいます。
 ときどき、振り返っては安心して。

 こんなことなら、聞かなきゃよかった。

 そう思いながら、なんとか階段にたどり着きました。

 なぜ、図書室は二階にあるのか。

 文句を言ったところでどうしようもないことはわかっていましたが、なにかに八つ当たりしていなければ、正気を保ってはいられませんでした。

 階段を登り、振り返り、また進む。

 約二年、なにも思わずに通っていた場所が、一気に怖い場所に変わっていました。

愛心(あこ)先輩?」

 急に前の方から声をかけられ、私は自分でも引くほど驚いてしまいました。

 そこにいた後輩ちゃんが、驚きすぎな私を笑っていたことを、今でも覚えています。

 それから部活の時間が終わり、施錠をするときには、また独りになっていました。

 今日は置いていってほしくなかった。
 だって、この校舎は、お化けが。

 マドカの話を心の中で馬鹿にしたくせに、すっかり怯えていました。

 さっさと鍵を閉めて、みんなに追いつこう。

 そう思っているのに、なぜか、こういうときこそ鍵がなかなか閉まらなくて。
 私は変に焦ってしまいました。

 私が鍵をガチャガチャと音を立てる中に、妙な音が聞こえました。

 ――ギシッ……

 これは、廊下が軋む音です。
 北側から聞こえてきました。

 みんなは、南側の階段を使います。
 つまり、みんなが戻ってきたとは考えにくい。

 では、誰の足音?

 私は恐る恐る視線をやりました。
 といっても、全体像を捉えるのは恐ろしかったので、足元しか見ませんでした。

 視界に入ったのは、真っ黒な足。

 ……いえ、あれは足だったのでしょうか。
 とにかく、私には、人のもには見えませんでした。
 だって、影が伸びていませんでしたから。

 マドカが言っていた怪異が、そこにいる。

 そう思った瞬間、私は走り出しました。

 みんながいるところまで、急がないと、アレに、捕まってしまう。
 マドカは、捕まったらどうなるって言ってたっけ。
 いや、なにも言ってない。
 私が聞かずに逃げたから。
 じゃあ、どうなるのか、わかんないってことで、もしかして私、死んじゃう?

 突飛なことを考えてしまうほど、大混乱していました。

 暗くなり出す廊下。
 うるさく軋む床。

 後ろから、私のではない足音が聞こえてくる気がして。
 急がないと。
 アレは簡単に追いつくんだから。

 階段も、急いで駆け下りました。

 あとちょっと。

 みんなの背中が見えたことに対して安心したこともあってか、私は足をもつれさせてしまいました。

 コケる、と思った瞬間に手すりに捕まりました。
 といっても、足は滑らせていますから、大きな音が立ちました。

「ちょ、愛心先輩!? 大丈夫ですか!?」

 後輩ちゃんが慌てた様子で駆け寄ってきて、私は、もう大丈夫だと思いました。
 独りではなかったら、アレも来ないだろう、と。


 それから私は、独りで木造校舎を歩かないようにしていたので、アレに出くわすことはありませんでした。

 同級生も後輩ちゃんも怖がりすぎだと笑いますが、経験していないから言えるのだと思います。

 こうなったのも、全部、マドカのせいだ。

 そんなふうに思うこともありましたが、また新たな怪談をされては困りますから、私は極力マドカのクラスには近寄らないようにしていました。

 ちなみに、木造校舎は私が三年になるときに取り壊されました。
 それだけ老朽化が進んでいたのでしょう。

 私にとって思い出の場所である図書室がなくなってしまうのは、寂しく思いました。
 ですが、もう二度とアレと会わなくて済むと思うと、ほっとしました。


 あ、私のこと、とんでもない怖がりだと思ったままですよね?
 これだけではないんですよ、この話。

 数日前、中学の同窓会があったんです。

 そろそろマドカと話してもいいかな、と思って、私はマドカを探しました。
 ですが、マドカの姿は見当たらなくて。

 当時の隣のクラスだった子に聞いてみました。

「マドカ? そんな子、いたっけ……」
「いなかったんじゃない?」
「あれ、あの子は? いつも本読んでた子!」
「水嶋さん? 下の名前、マドカだったっけ? ユウカとか、ハルカじゃなかった?」

 誰も、マドカのことを覚えていなかったのです。

 みんなの記憶から消えてしまうほど存在感が薄い子だったのか。
 それとも、もともといなかったのか。

 想像力を豊かにしてしまった私は、アレがマドカだったのではないかと思っている始末です。

 ですが、もう確かめる術はありません。
 木造校舎は取り壊され、新たな校舎が建てられていますし、誰もマドカの連絡先を知らないのですから。


 だけど私は、なんとかしてもう一度、マドカに会えないだろうか、と思っています。

 マドカが言ってたことホントだったよ、と、今度はちゃんとマドカと話したいので。

 ここに残してもマドカが見つけてくれるかわかりませんが……
 もし見たら、XのDMでもいいので、連絡してください。

 いっぱい、話しましょう。