教科書から目を離さずに先生は言った。その言い方は、まるで授業中に生徒に問題を投げかける時と同じようだった。
しかし、先生が言った言葉に結菜は耳を疑った。
「な、なにを」
「まぁ、それは後で良いか。それより、ソレ、大丈夫なの?」
世間話をしているかのように三善先生は言った。先生が指で指したのは、先程の着物の女性だった。
ぺた。ぺた。ぺた。
足音だけでわかる。着物姿の女性は、一歩一歩確実に結菜の近くに寄ってきている。音からすると、裸足なのかもしれない。水にぬれたのか、着物は女性の肌にぴったりついている。結菜は今すぐにでも化学準備室の外に逃げたがったが、膝が震えてしまって逃げることができない。
「昨日、僕のこと、見たでしょ?」
のんびりとした三善先生の声につられて、先生の方を見るとまだ教科書に目線を落としたままだった。
この緊急事態の状態なのに、三善先生はいつもと変わらぬ姿で座っている。教科書を捲る手は、先生の形の良い顎にそっと添わせていた。
実はこの人視えていないの?
だったら、わかる。こんな状態でも落ち着いている意味が。でも、さっきの言葉の意味は分からない。結菜が逡巡していると、三善先生の口元が少しだけ緩んだ。
「見られるとは思わなかったんですよ。君みたいな高校生が来るような場所でもないし、どうしてあんなところにいたんですか?」
何を言っているのだろうか、この状況で。
着物姿の女性は、確実に結菜に近づいている。視えてしまった以上、妖がすることは決まっている。視えたものを殺し、自分の血肉とするのだ。自分一人だけが逃げるのならばできるが、先生を置いて逃げることはできない。どうしたら。
「答えてくれないと、僕も君を助けられないかもしれないですよ?」
この期に及んで一体。
そう言おうとしたところで、三善先生が言った言葉を頭の中で繰り返した。言葉の意味を理解したところで、改めて先生を見ると、先生も教科書から顔を上げて結菜を見ていた。いつもと同じような雰囲気でありながらも、先生がまとっている雰囲気は化学の授業の時とは正反対だった。
獲物を捕らえて離さない、強者の雰囲気。
デスクに腰かけているだけなのに、こちらの動きを制限するかのような視線に、結菜は思わず目線を反らした。
「僕の質問に答えてくれませんか?」
三善先生の問いに答えるなら、イエス。しかし、一体この先生は何者なの……。でも、もしかして。
結菜の頭の中にありえない答えが導き出された。
先生を問いただそうとして、ぱっと顔を上げると、結菜の目の前に着物姿の女性がぴたりと立っていた。生きている人間にはできないくらいおかしな方向に首を曲げながら、女性はおずおずと右手を伸ばしてきた。真っ赤な血に染まったその手が、結菜の頭に近づいてくる。
「み、見ましたっ。先生が変なものを踏んづけている姿をっ」
一縷の望みにかけるしかない。叫びに似た感じで結菜が答えると、女性の動きが止まった。ぐりんと反対側に首を、やはりおかしな角度で曲げた。空虚を見つめるような真っ黒な目は相変わらず何も映していない。だが、女性は興味深そうに二度、三度首をあらぬ方向に曲げては結菜から目を外さない。
何とか悲鳴を上げぬように結菜は、両手で口を塞ぐ。これ以上、妖の気を引かぬようにしなければ。
「はい。よくできました」
三善先生は結菜の答えに満足そうに頷き、デスクに座ったまま、左手の人差し指と中指だけ伸ばして、女性を指した。
一体何をするつもりなんだろうか。
固唾をのんで見ていると、三善先生は片頬をあげて見せた。
「滅」
軽い爆発音と共に女性は消え去った。
しかし、先生が言った言葉に結菜は耳を疑った。
「な、なにを」
「まぁ、それは後で良いか。それより、ソレ、大丈夫なの?」
世間話をしているかのように三善先生は言った。先生が指で指したのは、先程の着物の女性だった。
ぺた。ぺた。ぺた。
足音だけでわかる。着物姿の女性は、一歩一歩確実に結菜の近くに寄ってきている。音からすると、裸足なのかもしれない。水にぬれたのか、着物は女性の肌にぴったりついている。結菜は今すぐにでも化学準備室の外に逃げたがったが、膝が震えてしまって逃げることができない。
「昨日、僕のこと、見たでしょ?」
のんびりとした三善先生の声につられて、先生の方を見るとまだ教科書に目線を落としたままだった。
この緊急事態の状態なのに、三善先生はいつもと変わらぬ姿で座っている。教科書を捲る手は、先生の形の良い顎にそっと添わせていた。
実はこの人視えていないの?
だったら、わかる。こんな状態でも落ち着いている意味が。でも、さっきの言葉の意味は分からない。結菜が逡巡していると、三善先生の口元が少しだけ緩んだ。
「見られるとは思わなかったんですよ。君みたいな高校生が来るような場所でもないし、どうしてあんなところにいたんですか?」
何を言っているのだろうか、この状況で。
着物姿の女性は、確実に結菜に近づいている。視えてしまった以上、妖がすることは決まっている。視えたものを殺し、自分の血肉とするのだ。自分一人だけが逃げるのならばできるが、先生を置いて逃げることはできない。どうしたら。
「答えてくれないと、僕も君を助けられないかもしれないですよ?」
この期に及んで一体。
そう言おうとしたところで、三善先生が言った言葉を頭の中で繰り返した。言葉の意味を理解したところで、改めて先生を見ると、先生も教科書から顔を上げて結菜を見ていた。いつもと同じような雰囲気でありながらも、先生がまとっている雰囲気は化学の授業の時とは正反対だった。
獲物を捕らえて離さない、強者の雰囲気。
デスクに腰かけているだけなのに、こちらの動きを制限するかのような視線に、結菜は思わず目線を反らした。
「僕の質問に答えてくれませんか?」
三善先生の問いに答えるなら、イエス。しかし、一体この先生は何者なの……。でも、もしかして。
結菜の頭の中にありえない答えが導き出された。
先生を問いただそうとして、ぱっと顔を上げると、結菜の目の前に着物姿の女性がぴたりと立っていた。生きている人間にはできないくらいおかしな方向に首を曲げながら、女性はおずおずと右手を伸ばしてきた。真っ赤な血に染まったその手が、結菜の頭に近づいてくる。
「み、見ましたっ。先生が変なものを踏んづけている姿をっ」
一縷の望みにかけるしかない。叫びに似た感じで結菜が答えると、女性の動きが止まった。ぐりんと反対側に首を、やはりおかしな角度で曲げた。空虚を見つめるような真っ黒な目は相変わらず何も映していない。だが、女性は興味深そうに二度、三度首をあらぬ方向に曲げては結菜から目を外さない。
何とか悲鳴を上げぬように結菜は、両手で口を塞ぐ。これ以上、妖の気を引かぬようにしなければ。
「はい。よくできました」
三善先生は結菜の答えに満足そうに頷き、デスクに座ったまま、左手の人差し指と中指だけ伸ばして、女性を指した。
一体何をするつもりなんだろうか。
固唾をのんで見ていると、三善先生は片頬をあげて見せた。
「滅」
軽い爆発音と共に女性は消え去った。



