予備校での講義の後に自習をしたせいか、外はすっかり暗くなってしまった。頭上に月と星が瞬いているが、街並みに灯りがたくさんついているせいか、あまり星は数えられるくらいにしか見えない。天気予報では雨の予報が出ていなかったけど、少し雲も出てきている。もしかしたら降り始めが早くなるかもしれない。
 リュックから折り畳み傘を出そうと足を止めたところで、どこからか低い唸り声が聞こえてきた。予備校に来る前に聞こえた声と同じかどうか、くぐもっているせいでわからない。加えて、ぐちゃぐちゃと何度も踏みつけるような音も聞こえてきた。

「ったく、ここらは野良が多いのか」

 そんな乱暴な言葉と共に紫煙が鼻先を掠めてきた。聞き覚えのある声に結菜は思わず足を止めた。まだ続く何かを踏みつける音が聞こえる一方で、うめき声のようなものは聞こえなくなってきた。

「あー、だりぃ。オヤジども、絶対俺を酷使するつもりだな」

 大きな舌打ちが聞こえてきたところで、結菜は自分の耳を疑った。聞いたことがある、この声。だけど、口調がまるで違う。結菜が知っているその人は、こんな粗雑な言い方をしない。
 結菜は恐る恐る声がする方に歩き、ゆっくりと物陰から裏路地の方を見た。
 背丈は高い。真っ黒な服装と月明かりのせいで、はっきりとした体系や顔立ちが分からない。
 ただ、雰囲気だけでわかる。

 この人は、ヤバいと。

 何度も踏みつけているであろうぐにゃぐにゃしているものは、恐らく結菜が予備校前に通り過ぎた時に聞こえてきた声の持ち主であろう妖だ。しかし、妖らしい影も形もない。やけにねばねばしているゼリーくらいの状態になったものを、この人はぐりぐりと踵で地面にこすりつけていた。
 口の端で煙草をくわえ、その仕草をしていると、どう見てもヤがつくお仕事とされている方のようにしか見えない。
 こんな人、知らない。少なくとも結菜の周りに、妖を痛めつけられるほどの実力を持っている人はいない。結菜の祖父母でさえ、陰陽師の端くれ程度の力しか持っていなく、できても家の周りの結界を強化することくらいだ。

「めんどくせぇ仕事を引き受けたもんだな、俺も」

 大きな独り言は、こちらに聞かせるつもりがあるのか、それとも結菜に気づいていないだけなのかわからない。だが粗野な言い方に結菜はビクッと肩を震わせた。
 ちょうど月が雲で隠れ、代わりに街灯がその人の顔を照らした。
 顔がようやくはっきり見えたところで、結菜は固まった。

 その人が、今月いっぱいで退職する予定だと言っていた化学教師、三善先生だった。
 横顔だけだが、見間違うはずもない。自分のクラスを半年も担当している化学教師のことを。