「で、あるから、この場合の化学式は」
四月に着任してきた臨時採用教員の三善先生は、教科書片手に黒板に読みやすい字で化学式を書いていく。
いつ、どの角度で見ても美しい。
すっと通った鼻筋、やや色素の薄い瞳は少しだけ切れ長だが不思議と怖さを感じない。身長も結菜の目算で百八十くらいの高身長。アイロンのかかった白衣はいつも汚れも皺もない。見た目の欠点と言えば、丸眼鏡をかけている点だろうか。せっかくの整った顔も眼鏡で少しばかり遮られてしまっている。そのせいか、着任挨拶時の女子の黄色の声は、今思えば少なかった気がする。
いつも通りに授業が終わる間際、三善先生は少しだけ眉を下げて微笑みながら言った。
「臨時採用教員ということもあり、僕は今月末で退職になります」
こともなげに言うもんだから、クラスの大半は、すぐに三善先生の話を理解できなかった。あまりの反応の薄さに、三善先生すら困った表情を浮かべていた。
「後任の先生は月末に担任の先生から紹介があると思います。皆さんと一緒に授業ができたことは僕の教師人生の一つの糧になると思います。あと数回しか授業は無いかけど、もう少しの間だけよろしくお願いします」
三善先生の話を聞いていくうちに、クラス全員が先生の話を理解したらしく、ざわめきは徐々に大きくなった。しかし、それもチャイムに遮られ、先生はいつも通り一礼してから教室を出て行った。
「先生、辞めちゃうんだねっ」
三善先生ファンクラブ会員でもあるクラスメイトの望月茉優が席に座ったまま振り返ってきた。緩く結んだお団子は茉優の雰囲気ともよく似合っていて、可愛らしさがより一層引き立っていた。
「あー、またイケメンが減っちゃうねぇ」
べったりと机に額をつけた茉優が弱った声で言った。
「別にわかりやすい先生だったら、良くない?」
結菜は化学の授業で使った教科書とノートを机の中にしまった。次の授業は数学だったはず。宿題も完璧に終えてきたから、答えられるはず。額をつけたまま茉優は唸り声を上げた。
「それは違うんだよ。イケメンはやる気を供給してくれるんだよ」
「そういうもん?」
「そう言うもんなのっ。この学校、先生基本的に地味だし。イケメンがいること自体に意味があるのよ。さながら砂漠の中のオアシス的な」
「オアシスって」
例えにもほどがある。机の上に頬杖を突きながら、気持ちが浮上してこない茉優の頭を結菜は優しく撫でてやった。
三善ファンクラブが設立されたのは、三善先生が着任挨拶した直後ぐらいだった。
結菜の通う高校は女子高で、先生の男女比は、学校の特性上だからか圧倒的に女性教員が多い。男性教員はいるものの、年齢的には五十代が多いし、若くても既婚者だけしかいない。
独身で、若い男性教員というのはいない。
その特殊な状況もあり、三善先生の着任というのは瞬く間にファンクラブを生徒内で作り上げるほどだったのだ。
最も結菜は特に興味はない。適度に人と付き合い、勉学に励む。それが結菜のモットーである。
放課後になっても、クラスの中の話題は、三善先生のことでもちきりだった。中には化学準備室に行って、次の仕事場所も聞き出そうとする強者もいた。明日の準備をしている最中に準備室に言ったら迷惑だろうに。結菜は学校指定の黒色リュックに教科書とノートを詰めて、さっさと教室を出た。
十月も終わりになると暗くなるのが早くなってきた。ついこの間まで夏だったはずなのに、急に冬になったかと思うように風が冷たい。首をすくめながら、結菜は予備校を目指して歩く。二年生といっても、受験に向けての準備は早い方が良い。今日は苦手な現文と世界史の講義だったはずだ。眠くならないことを今から祈っておこう。
――ヌゥゥ
四月に着任してきた臨時採用教員の三善先生は、教科書片手に黒板に読みやすい字で化学式を書いていく。
いつ、どの角度で見ても美しい。
すっと通った鼻筋、やや色素の薄い瞳は少しだけ切れ長だが不思議と怖さを感じない。身長も結菜の目算で百八十くらいの高身長。アイロンのかかった白衣はいつも汚れも皺もない。見た目の欠点と言えば、丸眼鏡をかけている点だろうか。せっかくの整った顔も眼鏡で少しばかり遮られてしまっている。そのせいか、着任挨拶時の女子の黄色の声は、今思えば少なかった気がする。
いつも通りに授業が終わる間際、三善先生は少しだけ眉を下げて微笑みながら言った。
「臨時採用教員ということもあり、僕は今月末で退職になります」
こともなげに言うもんだから、クラスの大半は、すぐに三善先生の話を理解できなかった。あまりの反応の薄さに、三善先生すら困った表情を浮かべていた。
「後任の先生は月末に担任の先生から紹介があると思います。皆さんと一緒に授業ができたことは僕の教師人生の一つの糧になると思います。あと数回しか授業は無いかけど、もう少しの間だけよろしくお願いします」
三善先生の話を聞いていくうちに、クラス全員が先生の話を理解したらしく、ざわめきは徐々に大きくなった。しかし、それもチャイムに遮られ、先生はいつも通り一礼してから教室を出て行った。
「先生、辞めちゃうんだねっ」
三善先生ファンクラブ会員でもあるクラスメイトの望月茉優が席に座ったまま振り返ってきた。緩く結んだお団子は茉優の雰囲気ともよく似合っていて、可愛らしさがより一層引き立っていた。
「あー、またイケメンが減っちゃうねぇ」
べったりと机に額をつけた茉優が弱った声で言った。
「別にわかりやすい先生だったら、良くない?」
結菜は化学の授業で使った教科書とノートを机の中にしまった。次の授業は数学だったはず。宿題も完璧に終えてきたから、答えられるはず。額をつけたまま茉優は唸り声を上げた。
「それは違うんだよ。イケメンはやる気を供給してくれるんだよ」
「そういうもん?」
「そう言うもんなのっ。この学校、先生基本的に地味だし。イケメンがいること自体に意味があるのよ。さながら砂漠の中のオアシス的な」
「オアシスって」
例えにもほどがある。机の上に頬杖を突きながら、気持ちが浮上してこない茉優の頭を結菜は優しく撫でてやった。
三善ファンクラブが設立されたのは、三善先生が着任挨拶した直後ぐらいだった。
結菜の通う高校は女子高で、先生の男女比は、学校の特性上だからか圧倒的に女性教員が多い。男性教員はいるものの、年齢的には五十代が多いし、若くても既婚者だけしかいない。
独身で、若い男性教員というのはいない。
その特殊な状況もあり、三善先生の着任というのは瞬く間にファンクラブを生徒内で作り上げるほどだったのだ。
最も結菜は特に興味はない。適度に人と付き合い、勉学に励む。それが結菜のモットーである。
放課後になっても、クラスの中の話題は、三善先生のことでもちきりだった。中には化学準備室に行って、次の仕事場所も聞き出そうとする強者もいた。明日の準備をしている最中に準備室に言ったら迷惑だろうに。結菜は学校指定の黒色リュックに教科書とノートを詰めて、さっさと教室を出た。
十月も終わりになると暗くなるのが早くなってきた。ついこの間まで夏だったはずなのに、急に冬になったかと思うように風が冷たい。首をすくめながら、結菜は予備校を目指して歩く。二年生といっても、受験に向けての準備は早い方が良い。今日は苦手な現文と世界史の講義だったはずだ。眠くならないことを今から祈っておこう。
――ヌゥゥ



