恐怖と混乱で思考がぐちゃぐちゃだ。今すぐ人がいないところで、叫びたい。というか、ああいうのが先生になれるとか、おかしいでしょ。先生ってもっと聖人君子じゃないのっ。
結菜は購買部に駆け込み、売れ残っていた焼きそばパン一つ買って、体育館裏に駆け込んだ。体育館裏といえども、日の当たりは良く、ベンチがいくつか置かれている。いつもの指定席で茉優がスマホを見ていた。
「結菜、遅かったね。先生のお手伝いは終わった?」
結菜が近づいてきたことに気づいた茉優がスマホから顔を上げた。もう片方の手には購買部で人気ナンバーワンのタツタバーガーがあった。ゆっくりと食べている途中だからか、チキンがバーガーから少しだけはみ出している。
息を整えながら、結菜は茉優の隣に座った。茉優とは一年生の時から同じクラスで、帰る方向も一緒だからか、遊ぶ時も自習するときも一緒にすることが多い。自然とお昼ご飯を共にすることも多くなった。
「イケメンのお手伝いは役得だったね。何手伝ったの?」
「だ、大丈夫。ちょっと、化学準備室でお手伝いしただけ」
「いいなぁ、日直は。私も日直が良かったぁ」
タツタバーガーを大きく広げた口で茉優は美味しそうに頬張った。いつもと変わらぬ友人の姿に少しだけ落ち着きを取り戻した結菜は、丁寧に焼きそばパンをくるんでいるラップをゆっくりと剥がす。一口頬張りながら、結菜は考えた。
秘密と言ったが、何が秘密なんだろう。昨晩の三善先生の姿は、見られてはいけない姿だっただろうか。
首を傾げながら、結菜は焼きそばパンを頬張った。こってりとしたソースが麺と具を優しく包み込み、食欲をそそられる。食べ進めていると、茉優が声をかけてきた。
「そう言えば、最近妙な噂聞くよね」
「噂?」
「人が行方不明になる系の」
「行方不明?」
「学校の近くで、うちの生徒が何人かいなくなっているらしいよ。でもね、不思議なことに一日くらいたてば、何事もなかったかのように戻ってくるんだって」
「それただの家出じゃない?」
「それが違うんだって。いなくなっている間の記憶がないみたい」
「え?」
「こわいよねぇ」
怖いと言っている割に、危機感がなさそうなくらい茉優は緩く言った。
結菜たちが通う高校は不審者情報や事故などが近くで発生した時には、翌日のホームルームで担任から共有される。だけど、茉優が話してくれた事件は共有されていない。この学校の生徒が被害に遭っているならば、すぐに警戒するように言われるはずだ。
それが言われない理由は、一体。
結菜が考え込んでいると、予鈴が聞こえてきた。結菜は慌てて残りの焼きそばパンを口に押し込んで、茉優と共に教室に戻った。教室に戻るころには、茉優が話してくれていたことは結菜の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
日直当番のタスクを終わりにさせて、結菜は日誌を片手に職員室に向かった。日は徐々に暮れ始めている。黄昏時に近くなる前にできれば家に辿り着きたい。足早に職員室に向かうと、三善先生がクラス担任と話をしていた。
話を終えるのを待っていると、三善先生が結菜に気づいて手招きした。
「先生をお待ちのようですよ」
「ああ、すまんな、日下部」
軽く頭を下げて、三善先生はクラス担任と別れた。昼間のことを思い出し、結菜は下を向いたまま三善先生とすれ違った。
担任に日誌を渡すと、すぐに結菜は教室に戻った。部活帰りの同級生たちが教室に残っているだけで、教室は閑散としていた。クラスメイトに別れを告げて、リュックを手に取り教室を出た。
下駄箱でスニーカーに履き替えようとしたところで、化学準備室だけがぼんやりと灯りがついているのが見えた。まだ、三善先生はあの部屋で明日の授業の準備をしているかもしれない。
昼休みに見た三善先生は、本当に三善先生だったのか。
それに、真昼間にもかかわらず出てきた、妖。あっという間に祓った三善先生は一体何者だろうか。
着任挨拶で見てから半年。
これまで見てきた三善先生は本当の姿ではないのかもしれない。
スニーカーに履き替えた結菜は、足早に学校を去っていた。
「でも、まさか忘れ物をするなんてぇぇ」
自室の机に突っ伏した結菜は、唸り声にも聞こえてしまうような声で言った。家に帰ってから夜ご飯を終えるまで、化学の教科書とノートを学校に置き忘れてしまっていることに気づかなかった。普段なら諦めがつくが、残念なことに明日提出の課題があったことを結菜は思い出した。明日登校して授業までに間に合う量ではないし、何より化学の授業は一時間目。時間が足りない。朝早く起きて行くのもどちらかと言えば結菜自身は苦手な部類だ。
色々考えあぐねた末に、結菜は諦めて、学校に取りに戻ることにした。
幸い、家から学校までは数駅で、電車に乗るタイミングさえよければ、往復一時間くらいで帰って来られる。学校指定のリュックを背負い、スニーカーを履いていると、後ろから祖母が声をかけてきた。
「こんな時間に行くのは、やめなさい」
「でも明日提出の課題を置いてきちゃったし」
「ここいらは今は安全じゃない。結菜が対処できる相手ではないのよ」
「大丈夫、大丈夫。それにすぐに帰って来るから」
半ば祖母の話を無理やり切り上げて、結菜は家を出た。
今日は月が雲に隠れているせいか、駅まで向かう道が薄暗い。この薄暗さがどこか不気味ともいえる空気をどこか醸し出している気がしないでもない。良くないことが頭に過ろうとしたところで、結菜は頭から追い出すように首を横に振った。結菜は足早に駅に行くと、ちょうどタイミングよく電車がホームに入ってきていた。改札口を通り抜け、電車に乗ろうとしたところで、ふと違和感を覚えた。
結菜が通学に乗る電車の車体は、決まって車体にオレンジ色の線が一本横に引かれているだけで、他は塗装らしい塗装がなく、銀色だった。
それなのに、目の前の電車は濃紺の空と星がちりばめられているかのようなデザインだった。見たことが無い。夜にだけ走るラッピング車両だろうか。ピカピカに磨かれた車体はちょっとした高級ホテルを彷彿させた。
「きれい……」
車両の中は一体どんな感じなんだろう。ふかふかの座席があったりするだろうか。
結菜はふらりと足を前に進めた。
『まもなく出発します。ご乗車のお客様はお乗り遅れが無いようにお願いします』
ホームにアナウンスが流れた。ホームを見て見たが、他の乗客は既に乗り込んだ後のようで誰もいない。乗り遅れちゃダメだ。
電車に向かって駆け出そうとした時、だれかが結菜の左腕を掴んだ。がくんと前につんのめった。振り返るとそこにいたのは三善先生だった。黒色で統一されたスーツは、闇に溶け込みそうだった。胸元には見たことが無いが、陰陽道で使う五芒星のそれによく似ている。電車から漏れ出ている灯りに照らされているせいか、きらっと金色の輝きを見せた。
「お前は、バカか」
出会い頭に生徒にぶつけるべきではない言葉を言い放った三善先生は、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。授業で見る先生とは違い、目つきも態度もだいぶ悪い。組の若頭のように見えなくもない。
「どうして、先生が」
何度かパチパチと瞬きをはっきりした結菜が不思議そうに三善先生を見ると、先生は眉間に深く皺を寄せた。
「視える上に、巻き込まれやすいとか。無防備すぎだろ」
何を言っているんだ、この先生は。それよりも早く、この電車に乗らないと。結菜が電車に向かって歩きだそうとするが、三善先生に腕を掴まれたままのため、前進することができない。振りほどこうにも、相手の力が強くて振りほどけない。
「あの、話してください。私、アレに乗らないと」
「どこに行くつもりだったんだ?」
「どこって」
どこだろう。三善先生に問われて、結菜は自分があの電車に乗ってどこに行こうとしたいのか、わからないことに気づいた。それでも。
「行かないと」
結菜の中で誰かが早く乗るんだと囁いてくる。ほら、早く行かないと。
三善先生の腕を無理ほどくように、強引に進もうとすると先生に抱きかかえられる。
「行く必要ないんだって言ってんだよ。ここは、いつからこんなふうになっちまってんだ?」
よく通る低い声が、耳元に聞こえてきた。もう一度強く抱きしめられてから、三善先生は結菜の肩を掴んで真正面から結菜を見た。三善先生は困ったようにため息を吐いてから、右手でゆっくりと結菜の視界を塞いだ。
「いい子だ、お家に帰りな。忘れ物は家に届けておくから」
優しく、蕩けるような三善先生の言葉に耳を傾けた結菜は、先生の言葉に抗うことなく静かに瞼を閉じた。ふわふわと居心地が良い甘い言葉にしばらく浸っていたが、再び瞼を開けると、結菜は自室の姿見の前にいた。
「え? なに?」
自分の姿を姿見で見ると、私服で学校指定のリュックを背負った格好でいた。
なんで、こんな格好でいるんだっけ。
記憶を戻そうにも、所々曖昧になっていて思い出せない。眉間に皺を寄せながら机の上を見ると、化学の教科書とノートが無造作に置かれていた。それを見て、結菜はようやく思い出した。
学校に忘れた教科書とノートを取りに行こうとしていたことを。
でも、結局忘れていなかったことを。
リュックから出していたことを忘れていたことを訝し気に想いながらも、結菜はリュックを机の横に置いて、椅子に座りなおした。時計を見れば九時を過ぎている。明日は化学の課題提出の日だったっけ。閉じていた教科書とノートを広げて、結菜は化学の課題に取り組むことにした。
「ねぇねぇ、化学の課題、難しくなかった?」
翌日のんびりと一時間目の授業の準備をしていると、茉優が話しかけてきた。茉優も結菜と同じく化学が苦手なようで、化学の課題が出されるたびに、この世の終わりのような顔をする。結菜は茉優ほど化学が苦手ではないが、課題が出された時の茉優の気持ちは思わず共感してしまうこともある。
「しかも、模試の過去問とかも混じってるし、調べないとわからないとか、三善先生って実はスパルタ教師なのかも」
「実際模試も近いから助かるんだけどねぇ」
「それね」
ホームルームの後、クラスはいつもよりも静かだった。一時間目の化学の課題が終わっていない人が多いらしく、おしゃべりしているクラスメイトが少ない。おしゃべりしていたとしても、課題についての話ばかりだ。
チャイムが鳴り、茉優は自席に戻って行った。結菜はペンケースからシャーペンを出そうとした時、三善先生が机の上に置いた紙切れを見つけた。何が書いてあるかも確認するどころか、入れてあったことすら忘れていた。周りに見つからないように、そっと紙を開こうとしたところで、教室の前の扉が開いた。
慌ててペンケースに紙切れを入れ直して、顔を上げると、クラス担任が入ってきていた。三善先生ではないことに、クラスがざわめくが、担任が軽く咳払いすると静かになった。
「三善先生は体調不良ということで本日はお休みになった。よって一時間目は自習とのこと。模試も近いし、しっかり勉強しておけよ」
それだけ言い残すと、担任は教室を出て行った。見張りがいなくなった教室は一気ににぎやかになった。結菜は担任が言った通り模試対策の勉強をすべく、化学の問題集を広げた。
その後の授業は特に自習になることもなく、平穏に一日が過ぎていった。全ての授業が終わり、帰りのホームルームでは担任からは不審者が近辺で出没していることを伝えられた以外に特に話がなかったため、早々に解散となった。
茉優とおしゃべりをしながら昇降口を出ようとしたところで、妙な寒気を感じた。振り返っても、当たりを注意深く見回しても辺りに妖もそれらしいものもいなかった。気のせいだろうか。
「結菜?」
「あ、ごめん」
妖は出る時期も時間も特に決まっているわけじゃない。出ることが増えれば、陰陽師をまとめる術者協会から通達が出るし、人的被害が出れば術者協会から派遣された術者が対応に当たることになっている。
結菜は未成年。それに術者になるつもりもないし、視えるだけで、それ以外の実務的な才能もない。
足を止めている時間が長いからか、茉優が不思議そうに結菜を見る。
そうだ、こういう時、視えない人は。
そう考えたところで、もう一度足を止めた。
もし。もしも、自分が妖の気配に気づいていたのに、術者協会へ通報しなかったらどうなるのか。人的な被害まで広がりやしないだろうか。
「結菜、行くよ?」
「あ、ごめん。ちょっと教室に忘れ物しちゃって」
「おっけー、おっけー。ここで待ってるよ」
「ごめん。遅かったら、帰って良いから」
「不審者出てきているのに、一人で帰るの危ないから待ってるって」
「ありがとっ」
茉優に礼だけ言って、結菜は上履きに履き替えなおした。
ここ数日でこれだけ妖の気配を感じるのは、明らかに頻度が高すぎる。この違和感がどこからかが分かれば、家に連絡すれば良い。何事も無ければ、ただの気のせいで済むんだ。
気配の先を慎重にたどりながら、結菜は校舎内を歩く。
放課後になったせいか、教室の中は空っぽだった。模試が近いからだろうか。それでも奇妙だ。今は試験期間中ではない。不審者情報が出回って、どの部活も帰宅指示が出たのか。いや、少なくとも結菜のクラスのホームルームでは何も連絡がなかった。
だから、部活をやっている人が一人もいないのは普通じゃない。
階段をゆっくりと昇っていくと、どんどん瘴気が濃くなっている気がする。強い妖がいるのだろうか。そうであれば、術者協会からすぐに術者が派遣されているはず。こんなに野放しの状態になるはずがない。
バチン。
急に電気が落ちた。外を見ようにも、窓の向こう側は真っ暗で何も見えない。一体、どうして。
そこまで考えたところで、結菜は慌てて昇降口に戻った。途中誰一人すれ違うことなく、昇降口に戻ると、下駄箱に背を預けてスマホを見ている茉優がいた。
「茉優っ」
呼びかけても、反応が無い。
結菜が茉優に駆け寄ると、茉優の口を黒い液体上の何かが口を塞いでいた。目は虚ろになっていて、何も映していない。
呼びかけながら、肩を揺さぶろうとしたところで、とぷん、という音が聞こえた。振り向いたがそこには何もなかった。気のせいだろうか。と、思ったところで、急に茉優の肩が下がった。慌てて茉優を見ると、床に飲み込まれて行ってしまった。
「茉優っ」
慌てて後を追おうとして、結菜が手を伸ばしたが間に合わなかった。茉優を飲み込んだところで、床は元の床に戻ってしまった。何度か床を両手で叩くが、固く、手だけがジンジンと痛んだ。
「ど、どうしたら」
スマホを取り出し家に助けを求めようとしたが、残念なことに電波がなかった。どうやら電波まで遮断するタイプの妖らしい。こんな妖を相手にしたことが無い。自分の力のなさをまざまざと見せつけられた。
どうしよう。
それだけしか頭に浮かばなかった。膝をついたまま、茉優が消えていった床をじっと見るだけしかできない。人の血肉を喰らって、自分自身を強くするのが妖。一刻も早く茉優を助けないと。わかっているけど、何もできない。悔しさだけが湧いて出て来る。
「そこの女子生徒、早くお家に帰りなさい」
何をこんな時にのんびりなことを言って。
振り返るとそこにいたのは、三善先生だった。いつもの白衣姿ではなく、真っ黒なスーツを着ていた。
「せ、先生。どうして」
「それはコッチのセリフだ。どうして早く帰らなかったんだ」
「だ、だって気配が」
「あのな、それは」
どぷん。
またどこからか波が打ち寄せるような音が聞こえた。次の瞬間に結菜の左足が何かの液体に飲み込まれていき始めていた。抜け出そうと逃げ出そうとすればするほど、深みにはまっていってしまう。どうにかして、抜け出さないと。
「滅」
軽い爆発音と共に、液体が蒸発して消えた。のみこまれていたはずの左足は、元通り床の上にあった。もちろん、結菜の体から切り離されてもいない。
「めんどくせぇな」
舌打ちをした三善先生は腕を下ろした。
「あ、あの茉優が」
「そいつだけじゃねぇ、学校に残っていた全員が喰われた」
「え」
「この状況を早くどうにかしねぇと全員殺される」
淡々と言った三善先生の顔を見ると、そこには何の感情もなかった。化学の授業で見る先生とは全く違うその顔に、結菜はごくりと喉を鳴らした。自分の胸の上をギュッと握って、結菜は先生に言う。
「わ、私にもできることがあれば」
「なんもねぇよ」
「で、でも」
「お前ひとり増えたところで足手まといは変わんねぇよ」
足手まとい。
まさしくその通りだ。今の結菜にできることは何もない。視えるだけしかできない陰陽師の末裔には。
「協会には連絡入れてあるから時期に助けも来る。それまでは俺の傍を離れるな」
「え?」
「このバッジ、見覚えねぇの?」
きらりと光ったのは五芒星らしき文様で作られたバッジだった。だが、結菜の身近な人間でこのバッジを持っている人はいない。一体何のバッジだろうか。首を傾げていると、呆れた顔で三善先生は結菜を見た。
「これは術者協会に属している術者が身に着けるバッジ。これを媒体にすれば外部との連絡も容易に取ることができる」
術者協会の名前は祖父母から聞いたことがある。優秀な術者しか登録ができなく、生存する陰陽師の中でも百名程度しかいないと。
まさか、先生は。
結菜は信じられない思いで三善先生を見た。
「し、知らなかった、です」
「だろうな」
がしがしと乱暴に髪を掻いてから、三善先生は結菜の左腕を取った。
「とりあえず、俺から離れんな」
はい、これ、イケメンしか許されないヤツッ。
結菜は耳まで熱くなるのを感じた。結菜の様子を気にもせずに、三善先生は校内を歩き始めた。引っ張られるままに、結菜も一緒に歩く。
「あ、あのどこに」
「妖ってのは、今の人間生活から生まれている。これだけ暗くする奴ならば、まだ対処しようがある」
「え?」
「まさか、そこまで知らねぇのか」
呆れたような声で言う三善先生に結菜は唇を尖らせた。
「だって、術者になる気もないですし。それに見えるだけですので」
「あのな、これくらい末裔なら常識だってんだ。日下部のじじぃ、孫の可愛さに手を抜いてんな」
盛大な舌打ちを何回か繰り返しながら、三善先生は結菜を連れて階段を上る。いくら階段を上ろうとも灯りの気配はまるでない。所々にある電気のスイッチを先生が押してみても、全くの反応がない。
「電気系統いかれてるってことは、そういうことか」
一人で納得した素振りを見せながら、どんどんと上がっていく。
校舎の構造的には三階までしかない。三階まで来ると、その先には屋上しかない。三善先生は屋上に続く階段をためらいもなく昇り始めた。結菜もつられるように、先生に続こうとしたところで、これまで感じたことが無いほどの瘴気の濃さに目の前が一瞬暗くなった。
「おい、大丈夫か」
膝に手をつき、呼吸を繰り返す結菜に、三善先生は駆け寄ってきた。
「これ以上はお前も危険だから、ここで待っとけ」
「で、でも」
「まぁ、これくらいはしておいてやるから」
迷子の子をあやすように、優しい声で三善先生は言った。しゃがみ、結菜の周りに何やら複雑な術式をチョークで書く。
「これは?」
「これは」
どぷん。
また同じ水の音がした。自分の足元が取られたんじゃないかと思い、結菜は慌てて足元を見たが特に変わっていなかった。
カランと、軽い音を立ててチョークだけが宙から落ちてきた。
恐る恐る音がした方を見ると、さっきまでいたはずの三善先生がいなくなっていた。
「せ、先生?」
術式も中途半端の状態で三善先生が姿をくらましてしまった。
さっきまですぐ近くにいたはずなのに、一体どこに。辺りを見回しても影も姿も見当たらない。どうしよう。自分一人では対処しようがない。術者がここに到着するまで無事なままでいられるか、わからない。
だが、瘴気が先ほどよりも一層濃くなったのは、わかる。寒気だけじゃない。鳥肌もうっすら出ている。なんとかしないといけないが、どうすればよいのか皆目見当がつかない。
ふと、三善先生が言っていたことが頭に過った。
妖は人間の生活が根幹。
停電しているから、もしかして、ここにいる妖は明るいのが苦手なのかもしれない。
ええい、ままよっ。
瘴気の濃さが気になるが、結菜は駆け上がった先の屋上の扉を勢い良く開けた。開けたと同時に光が降り注がれるかと思ったが、光は一筋もなかった。
扉を開けた先に会ったのは、真っ暗な世界だった。
まだ日が高い時間なのに、太陽は無く何か大きな黒い布に覆われたかのように、黒色ペンキで塗りつぶされた景色がそこにあった。
「なんで」
絶望で塗りつぶされた目の前の光景に、結菜は膝をついた。自分でできることを探して、チャレンジしてみたけど、なにも報われなかった。
いったいどのくらいで助けが来るのだろうか。
それまで自分は自分の身を守れるのだろうか。
視えるだけの無力な自分に絶望の追い打ちをかけられながら、結菜は地面を睨みつけた。
その時、自分の影とは別の影が地面に移りこんだ。
ぱっと顔を上げると、そこには、大鎌を構えた妖がいた。目は体中にあり、ギョロギョロとあちこち見ていたが、急にすべての目が結菜を捕らえた。捕食者を見つけたかのような見られ方に結菜は竦んだ。
ああ、もう死ぬのか。
目の前に迫る大鎌がスローモーションのように見える。後ろに下がろうにも、既に背中に壁が当たっている。逃げ場がない。竦んでしまった足は、膝がついてしまった。結菜はそっと両手を握りながら、目を瞑った。
妖が視えない人ばかりの中で、助けられるのは自分だけ。こんなところで、死んでたまるか。
結菜は持っていた懐中電灯の明かりをまっすぐ妖に照らした。妖と言えども、根本は現代の人間生活から生まれている。だから、弱点は必ずある。
暗闇に溶け込み、人を攫う。
暗闇に溶け込んでいるのは、そこが一番活動しやすいからだ。でも、今の結菜に対抗できるものは何も持っていない。背負っているリュックには勉強道具しか入っていないし、頼みの呪符も今日は忘れてしまった。
大鎌が振り下ろされた先から、どうにか走って逃げるしか方法がない。息が上がってきたが、避け続けるしかないのは辛い。連絡を入れたと三善先生は言っていたが、それはどのくらい前に入れた連絡で、あとどのくらいで助けに来てくれるのか。それまでは何としてでも逃げ続けなければ。
結菜は妖が振り回す大鎌を避け続けていたが、疲れたところで足がもつれてしまった。肩で息をしながら振り返ると、そこには結菜を狙っている妖が、大鎌を構えて、結菜に狙いを定めていた。