何を言っているんだ、この先生は。それよりも早く、この電車に乗らないと。結菜が電車に向かって歩きだそうとするが、三善先生に腕を掴まれたままのため、前進することができない。振りほどこうにも、相手の力が強くて振りほどけない。

「あの、話してください。私、アレに乗らないと」
「どこに行くつもりだったんだ?」
「どこって」

 どこだろう。三善先生に問われて、結菜は自分があの電車に乗ってどこに行こうとしたいのか、わからないことに気づいた。それでも。

「行かないと」

 結菜の中で誰かが早く乗るんだと囁いてくる。ほら、早く行かないと。
 三善先生の腕を無理ほどくように、強引に進もうとすると先生に抱きかかえられる。

「行く必要ないんだって言ってんだよ。ここは、いつからこんなふうになっちまってんだ?」

 よく通る低い声が、耳元に聞こえてきた。もう一度強く抱きしめられてから、三善先生は結菜の肩を掴んで真正面から結菜を見た。三善先生は困ったようにため息を吐いてから、右手でゆっくりと結菜の視界を塞いだ。

「いい子だ、お家に帰りな。忘れ物は家に届けておくから」

 優しく、蕩けるような三善先生の言葉に耳を傾けた結菜は、先生の言葉に抗うことなく静かに瞼を閉じた。ふわふわと居心地が良い甘い言葉にしばらく浸っていたが、再び瞼を開けると、結菜は自室の姿見の前にいた。

「え? なに?」

 自分の姿を姿見で見ると、私服で学校指定のリュックを背負った格好でいた。
 なんで、こんな格好でいるんだっけ。
 記憶を戻そうにも、所々曖昧になっていて思い出せない。眉間に皺を寄せながら机の上を見ると、化学の教科書とノートが無造作に置かれていた。それを見て、結菜はようやく思い出した。
 学校に忘れた教科書とノートを取りに行こうとしていたことを。
 でも、結局忘れていなかったことを。
 リュックから出していたことを忘れていたことを訝し気に想いながらも、結菜はリュックを机の横に置いて、椅子に座りなおした。時計を見れば九時を過ぎている。明日は化学の課題提出の日だったっけ。閉じていた教科書とノートを広げて、結菜は化学の課題に取り組むことにした。