目を細めて、人が良さそうな笑顔で結菜を見る三善先生は、化学の授業で見る先生と同じだった。日向ぼっこをする猫のような雰囲気を出しながら、眼鏡をかけなおす。その仕草だけで他の女子たちは胸を射抜かれたかのように倒れるに違いない。いつもと変わらぬ先生の姿に安心感を覚えていると、うっすらと寒気を感じた。
この寒気はもしかして。
「君、コレ視える?」
「はい?」
恐る恐る視線を三善先生に合わせると、先生のすぐ後ろに、着物姿の血みどろの女性が立っていた。肌は陶器のように白い、というよりは青白い。乱れた前髪の向こうから、生気を感じられない真っ黒な瞳が結菜を見ていた。危うく悲鳴を上げそうになったが、慌てて口を両手で塞いだ。
視えた。
視えることを悟らせてしまった。
結菜は自分の不用意な行動に焦りながらも、慎重に今の状況を理解しようと、深呼吸を繰り返した。
陰陽師は、明治時代に陰陽寮が廃止され、民間でも陰陽師を生業にするのが禁止された。それを前後して、人々は文明開化の足音を聞きながら、それまで生活に必要とされてきた陰陽師も必要となくなり、科学の発展と共に、人々は妖が視えなくなっていった。
だが、陰陽師を輩出する一族だけは違っていた。
いつの日か、また陰陽師を必要するときに、きちんと仕事ができるように。それだけを考えて令和のこの時代まで視えるものを輩出し続けていた。
結菜の一族も例外なく、視えるものが一定数いる。明治以前より人数こそ少ないが、人世代に最低一人、多い時には同世代に何人もの視える人が生まれてきた。
一族は視える人を「異能者」と呼び、幼少より妖や霊など人ならざるモノから身を守る振舞い、護身術を鍛えてきた。しかし、祓うこと自体を苦手としている結菜は、祖父母が持たせてくれる呪符で身を守ってきた。慌ててスカートのポケットを探ったが、いつもお守り替わりに入れいている呪符がなかった。
「う、そっ」
昨日あまり眠れなかったのが災いし、寝坊してしまった。その時にいつも入れてあるお守り替わりの呪符を入れ損ねたいに違いない。
これでは、自分の身を守ることができない。それに。
ちらりと三善先生を見ると、先生は視えないタイプだからだろうか、慌てた素振りが一切見えない。優雅に化学の教科書を捲っていた。
「ねえ、視えるタイプでしょ」
教科書から目を離さずに先生は言った。その言い方は、まるで授業中に生徒に問題を投げかける時と同じようだった。
しかし、先生が言った言葉に結菜は耳を疑った。
「な、なにを」
「まぁ、それは後で良いか。それより、ソレ、大丈夫なの?」
世間話をしているかのように三善先生は言った。先生が指で指したのは、先程の着物の女性だった。
ぺた。ぺた。ぺた。
足音だけでわかる。着物姿の女性は、一歩一歩確実に結菜の近くに寄ってきている。音からすると、裸足なのかもしれない。水にぬれたのか、着物は女性の肌にぴったりついている。結菜は今すぐにでも化学準備室の外に逃げたがったが、膝が震えてしまって逃げることができない。
「昨日、僕のこと、見たでしょ?」
のんびりとした三善先生の声につられて、先生の方を見るとまだ教科書に目線を落としたままだった。
この緊急事態の状態なのに、三善先生はいつもと変わらぬ姿で座っている。教科書を捲る手は、先生の形の良い顎にそっと添わせていた。
実はこの人視えていないの?
だったら、わかる。こんな状態でも落ち着いている意味が。でも、さっきの言葉の意味は分からない。結菜が逡巡していると、三善先生の口元が少しだけ緩んだ。
「見られるとは思わなかったんですよ。君みたいな高校生が来るような場所でもないし、どうしてあんなところにいたんですか?」
何を言っているのだろうか、この状況で。
着物姿の女性は、確実に結菜に近づいている。視えてしまった以上、妖がすることは決まっている。視えたものを殺し、自分の血肉とするのだ。自分一人だけが逃げるのならばできるが、先生を置いて逃げることはできない。どうしたら。
「答えてくれないと、僕も君を助けられないかもしれないですよ?」
この期に及んで一体。
そう言おうとしたところで、三善先生が言った言葉を頭の中で繰り返した。言葉の意味を理解したところで、改めて先生を見ると、先生も教科書から顔を上げて結菜を見ていた。いつもと同じような雰囲気でありながらも、先生がまとっている雰囲気は化学の授業の時とは正反対だった。
獲物を捕らえて離さない、強者の雰囲気。
デスクに腰かけているだけなのに、こちらの動きを制限するかのような視線に、結菜は思わず目線を反らした。
「僕の質問に答えてくれませんか?」
三善先生の問いに答えるなら、イエス。しかし、一体この先生は何者なの……。でも、もしかして。
結菜の頭の中にありえない答えが導き出された。
先生を問いただそうとして、ぱっと顔を上げると、結菜の目の前に着物姿の女性がぴたりと立っていた。生きている人間にはできないくらいおかしな方向に首を曲げながら、女性はおずおずと右手を伸ばしてきた。真っ赤な血に染まったその手が、結菜の頭に近づいてくる。
「み、見ましたっ。先生が変なものを踏んづけている姿をっ」
一縷の望みにかけるしかない。叫びに似た感じで結菜が答えると、女性の動きが止まった。ぐりんと反対側に首を、やはりおかしな角度で曲げた。空虚を見つめるような真っ黒な目は相変わらず何も映していない。だが、女性は興味深そうに二度、三度首をあらぬ方向に曲げては結菜から目を外さない。
何とか悲鳴を上げぬように結菜は、両手で口を塞ぐ。これ以上、妖の気を引かぬようにしなければ。
「はい。よくできました」
三善先生は結菜の答えに満足そうに頷き、デスクに座ったまま、左手の人差し指と中指だけ伸ばして、女性を指した。
一体何をするつもりなんだろうか。
固唾をのんで見ていると、三善先生は片頬をあげて見せた。
「滅」
軽い爆発音と共に女性は消え去った。
女性がいたはずの場所を何度かの瞬きを繰り返して見たが、そこに女性はいなくなっていた。いつの間にかうすら寒さも消えていて、妖が祓われたことを後追いで結菜は理解した。慌てて三善先生を見ると、不敵な笑みを浮かべ、先生は前髪を掻き上げていた。額にはうっすらと傷跡が見えた。何か事故に遭ったときの傷跡だろうか。あの傷がある感じも、謎っぽくて良いよねぇと茉優が四月に騒いでいたのを、なぜか今思い出した。
「にしても、こんな狭い地域で陰陽師の一族と会うとは思わなかったな」
舌打ちをしてから、三善先生は言った。その言い方は昨日聞いた粗野な言い方にそっくりだった。ということは、昨日結菜が見た人は、間違いなく、この人なのかもしれない。
「も、もしかして、先生も」
「あ?」
目を眇めた三善先生が結菜の前に立つ。見上げる形になりながら、結菜が数歩後ろに下がると、化学準備室の扉に背が当たった。ふわりとお香のような匂いが鼻先をかすめた。この香りは白檀だろうか。煙草の香りが感じられない。普段から煙草を吸うタイプではないのかもしれない。
「……いいか、日下部結菜」
とん、と右手をドアについて、三善先生が見下ろしてきた。
ひぇっ、顔が良いと言うのはこういう時に最大の武器と化すのかもしれない。
結菜は両手を口に当てたまま、辛うじて悲鳴を口の中に留めた。まさか、これは少女漫画あるあるの、あれですかっ。結菜がいつだか言っていた憧れのシチュエーションと同じかもしれない。ファンクラブ会員に見られたらと思うと、さっきとは違う意味で冷や汗が出そうだ。
この状況であらぬ方向に思考を走らせてしまっていると、睨みつけるような鋭い目つきで三善先生は言う。
「この秘密、ばらすんじゃねぇぞ」
あ、違ったみたいです、茉優。
ドスの効いた声は、およそ少女漫画あるあるの状況にはさせてくれなかった。きゅっと心臓が縮み上がり、結菜は体を固くした。目の前にいる人が煙草を吸って、サングラスをかけていたら、昨晩と同じように、ヤのつくお仕事の人にしか見えない。
三善先生の脅しに結菜が高速で頷くと、先生は満足したように手をドアから離した。ほっと胸を撫でおろしていると、結菜に目線を合わせた三善先生が耳元で囁く。
「バラしたら、どうなるかわかるよな?」
もう一度きゅっと喉が細くなり、急に呼吸ができなくなる感覚に陥った。呼吸が許されるように、結菜はもう一度深く頷いた。
「わかってくれたようで、なにより。では、僕は午後の授業の準備があるから。日下部さんは、準備の手伝いしてくれてありがとう。しっかり、お昼ご飯を食べるんだよ」
にこやかに、さわやかに、人当たりの良い表情を浮かべて三善先生は手を振った。結菜は深く一礼してから、化学準備室を出て、購買に向かって駆け出した。
何、あれ。なに、あれ。何だ、あれはぁっ!
恐怖と混乱で思考がぐちゃぐちゃだ。今すぐ人がいないところで、叫びたい。というか、ああいうのが先生になれるとか、おかしいでしょ。先生ってもっと聖人君子じゃないのっ。
結菜は購買部に駆け込み、売れ残っていた焼きそばパン一つ買って、体育館裏に駆け込んだ。体育館裏といえども、日の当たりは良く、ベンチがいくつか置かれている。いつもの指定席で茉優がスマホを見ていた。
「結菜、遅かったね。先生のお手伝いは終わった?」
結菜が近づいてきたことに気づいた茉優がスマホから顔を上げた。もう片方の手には購買部で人気ナンバーワンのタツタバーガーがあった。ゆっくりと食べている途中だからか、チキンがバーガーから少しだけはみ出している。
息を整えながら、結菜は茉優の隣に座った。茉優とは一年生の時から同じクラスで、帰る方向も一緒だからか、遊ぶ時も自習するときも一緒にすることが多い。自然とお昼ご飯を共にすることも多くなった。
「イケメンのお手伝いは役得だったね。何手伝ったの?」
「だ、大丈夫。ちょっと、化学準備室でお手伝いしただけ」
「いいなぁ、日直は。私も日直が良かったぁ」
タツタバーガーを大きく広げた口で茉優は美味しそうに頬張った。いつもと変わらぬ友人の姿に少しだけ落ち着きを取り戻した結菜は、丁寧に焼きそばパンをくるんでいるラップをゆっくりと剥がす。一口頬張りながら、結菜は考えた。
秘密と言ったが、何が秘密なんだろう。昨晩の三善先生の姿は、見られてはいけない姿だっただろうか。
首を傾げながら、結菜は焼きそばパンを頬張った。こってりとしたソースが麺と具を優しく包み込み、食欲をそそられる。食べ進めていると、茉優が声をかけてきた。
「そう言えば、最近妙な噂聞くよね」
「噂?」
「人が行方不明になる系の」
「行方不明?」
「学校の近くで、うちの生徒が何人かいなくなっているらしいよ。でもね、不思議なことに一日くらいたてば、何事もなかったかのように戻ってくるんだって」
「それただの家出じゃない?」
「それが違うんだって。いなくなっている間の記憶がないみたい」
「え?」
「こわいよねぇ」
怖いと言っている割に、危機感がなさそうなくらい茉優は緩く言った。
結菜たちが通う高校は不審者情報や事故などが近くで発生した時には、翌日のホームルームで担任から共有される。だけど、茉優が話してくれた事件は共有されていない。この学校の生徒が被害に遭っているならば、すぐに警戒するように言われるはずだ。
それが言われない理由は、一体。
結菜が考え込んでいると、予鈴が聞こえてきた。結菜は慌てて残りの焼きそばパンを口に押し込んで、茉優と共に教室に戻った。教室に戻るころには、茉優が話してくれていたことは結菜の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。
日直当番のタスクを終わりにさせて、結菜は日誌を片手に職員室に向かった。日は徐々に暮れ始めている。黄昏時に近くなる前にできれば家に辿り着きたい。足早に職員室に向かうと、三善先生がクラス担任と話をしていた。
話を終えるのを待っていると、三善先生が結菜に気づいて手招きした。
「先生をお待ちのようですよ」
「ああ、すまんな、日下部」
軽く頭を下げて、三善先生はクラス担任と別れた。昼間のことを思い出し、結菜は下を向いたまま三善先生とすれ違った。
担任に日誌を渡すと、すぐに結菜は教室に戻った。部活帰りの同級生たちが教室に残っているだけで、教室は閑散としていた。クラスメイトに別れを告げて、リュックを手に取り教室を出た。
下駄箱でスニーカーに履き替えようとしたところで、化学準備室だけがぼんやりと灯りがついているのが見えた。まだ、三善先生はあの部屋で明日の授業の準備をしているかもしれない。
昼休みに見た三善先生は、本当に三善先生だったのか。
それに、真昼間にもかかわらず出てきた、妖。あっという間に祓った三善先生は一体何者だろうか。
着任挨拶で見てから半年。
これまで見てきた三善先生は本当の姿ではないのかもしれない。
スニーカーに履き替えた結菜は、足早に学校を去っていた。
「でも、まさか忘れ物をするなんてぇぇ」
自室の机に突っ伏した結菜は、唸り声にも聞こえてしまうような声で言った。家に帰ってから夜ご飯を終えるまで、化学の教科書とノートを学校に置き忘れてしまっていることに気づかなかった。普段なら諦めがつくが、残念なことに明日提出の課題があったことを結菜は思い出した。明日登校して授業までに間に合う量ではないし、何より化学の授業は一時間目。時間が足りない。朝早く起きて行くのもどちらかと言えば結菜自身は苦手な部類だ。
色々考えあぐねた末に、結菜は諦めて、学校に取りに戻ることにした。
幸い、家から学校までは数駅で、電車に乗るタイミングさえよければ、往復一時間くらいで帰って来られる。学校指定のリュックを背負い、スニーカーを履いていると、後ろから祖母が声をかけてきた。
「こんな時間に行くのは、やめなさい」
「でも明日提出の課題を置いてきちゃったし」
「ここいらは今は安全じゃない。結菜が対処できる相手ではないのよ」
「大丈夫、大丈夫。それにすぐに帰って来るから」
半ば祖母の話を無理やり切り上げて、結菜は家を出た。
今日は月が雲に隠れているせいか、駅まで向かう道が薄暗い。この薄暗さがどこか不気味ともいえる空気をどこか醸し出している気がしないでもない。良くないことが頭に過ろうとしたところで、結菜は頭から追い出すように首を横に振った。結菜は足早に駅に行くと、ちょうどタイミングよく電車がホームに入ってきていた。改札口を通り抜け、電車に乗ろうとしたところで、ふと違和感を覚えた。
結菜が通学に乗る電車の車体は、決まって車体にオレンジ色の線が一本横に引かれているだけで、他は塗装らしい塗装がなく、銀色だった。
それなのに、目の前の電車は濃紺の空と星がちりばめられているかのようなデザインだった。見たことが無い。夜にだけ走るラッピング車両だろうか。ピカピカに磨かれた車体はちょっとした高級ホテルを彷彿させた。
「きれい……」
車両の中は一体どんな感じなんだろう。ふかふかの座席があったりするだろうか。
結菜はふらりと足を前に進めた。
『まもなく出発します。ご乗車のお客様はお乗り遅れが無いようにお願いします』
ホームにアナウンスが流れた。ホームを見て見たが、他の乗客は既に乗り込んだ後のようで誰もいない。乗り遅れちゃダメだ。
電車に向かって駆け出そうとした時、だれかが結菜の左腕を掴んだ。がくんと前につんのめった。振り返るとそこにいたのは三善先生だった。黒色で統一されたスーツは、闇に溶け込みそうだった。胸元には見たことが無いが、陰陽道で使う五芒星のそれによく似ている。電車から漏れ出ている灯りに照らされているせいか、きらっと金色の輝きを見せた。
「お前は、バカか」
出会い頭に生徒にぶつけるべきではない言葉を言い放った三善先生は、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。授業で見る先生とは違い、目つきも態度もだいぶ悪い。組の若頭のように見えなくもない。
「どうして、先生が」
何度かパチパチと瞬きをはっきりした結菜が不思議そうに三善先生を見ると、先生は眉間に深く皺を寄せた。
「視える上に、巻き込まれやすいとか。無防備すぎだろ」
何を言っているんだ、この先生は。それよりも早く、この電車に乗らないと。結菜が電車に向かって歩きだそうとするが、三善先生に腕を掴まれたままのため、前進することができない。振りほどこうにも、相手の力が強くて振りほどけない。
「あの、話してください。私、アレに乗らないと」
「どこに行くつもりだったんだ?」
「どこって」
どこだろう。三善先生に問われて、結菜は自分があの電車に乗ってどこに行こうとしたいのか、わからないことに気づいた。それでも。
「行かないと」
結菜の中で誰かが早く乗るんだと囁いてくる。ほら、早く行かないと。
三善先生の腕を無理ほどくように、強引に進もうとすると先生に抱きかかえられる。
「行く必要ないんだって言ってんだよ。ここは、いつからこんなふうになっちまってんだ?」
よく通る低い声が、耳元に聞こえてきた。もう一度強く抱きしめられてから、三善先生は結菜の肩を掴んで真正面から結菜を見た。三善先生は困ったようにため息を吐いてから、右手でゆっくりと結菜の視界を塞いだ。
「いい子だ、お家に帰りな。忘れ物は家に届けておくから」
優しく、蕩けるような三善先生の言葉に耳を傾けた結菜は、先生の言葉に抗うことなく静かに瞼を閉じた。ふわふわと居心地が良い甘い言葉にしばらく浸っていたが、再び瞼を開けると、結菜は自室の姿見の前にいた。
「え? なに?」
自分の姿を姿見で見ると、私服で学校指定のリュックを背負った格好でいた。
なんで、こんな格好でいるんだっけ。
記憶を戻そうにも、所々曖昧になっていて思い出せない。眉間に皺を寄せながら机の上を見ると、化学の教科書とノートが無造作に置かれていた。それを見て、結菜はようやく思い出した。
学校に忘れた教科書とノートを取りに行こうとしていたことを。
でも、結局忘れていなかったことを。
リュックから出していたことを忘れていたことを訝し気に想いながらも、結菜はリュックを机の横に置いて、椅子に座りなおした。時計を見れば九時を過ぎている。明日は化学の課題提出の日だったっけ。閉じていた教科書とノートを広げて、結菜は化学の課題に取り組むことにした。
「ねぇねぇ、化学の課題、難しくなかった?」
翌日のんびりと一時間目の授業の準備をしていると、茉優が話しかけてきた。茉優も結菜と同じく化学が苦手なようで、化学の課題が出されるたびに、この世の終わりのような顔をする。結菜は茉優ほど化学が苦手ではないが、課題が出された時の茉優の気持ちは思わず共感してしまうこともある。
「しかも、模試の過去問とかも混じってるし、調べないとわからないとか、三善先生って実はスパルタ教師なのかも」
「実際模試も近いから助かるんだけどねぇ」
「それね」
ホームルームの後、クラスはいつもよりも静かだった。一時間目の化学の課題が終わっていない人が多いらしく、おしゃべりしているクラスメイトが少ない。おしゃべりしていたとしても、課題についての話ばかりだ。
チャイムが鳴り、茉優は自席に戻って行った。結菜はペンケースからシャーペンを出そうとした時、三善先生が机の上に置いた紙切れを見つけた。何が書いてあるかも確認するどころか、入れてあったことすら忘れていた。周りに見つからないように、そっと紙を開こうとしたところで、教室の前の扉が開いた。
慌ててペンケースに紙切れを入れ直して、顔を上げると、クラス担任が入ってきていた。三善先生ではないことに、クラスがざわめくが、担任が軽く咳払いすると静かになった。
「三善先生は体調不良ということで本日はお休みになった。よって一時間目は自習とのこと。模試も近いし、しっかり勉強しておけよ」
それだけ言い残すと、担任は教室を出て行った。見張りがいなくなった教室は一気ににぎやかになった。結菜は担任が言った通り模試対策の勉強をすべく、化学の問題集を広げた。
その後の授業は特に自習になることもなく、平穏に一日が過ぎていった。全ての授業が終わり、帰りのホームルームでは担任からは不審者が近辺で出没していることを伝えられた以外に特に話がなかったため、早々に解散となった。
茉優とおしゃべりをしながら昇降口を出ようとしたところで、妙な寒気を感じた。振り返っても、当たりを注意深く見回しても辺りに妖もそれらしいものもいなかった。気のせいだろうか。
「結菜?」
「あ、ごめん」
妖は出る時期も時間も特に決まっているわけじゃない。出ることが増えれば、陰陽師をまとめる術者協会から通達が出るし、人的被害が出れば術者協会から派遣された術者が対応に当たることになっている。
結菜は未成年。それに術者になるつもりもないし、視えるだけで、それ以外の実務的な才能もない。
足を止めている時間が長いからか、茉優が不思議そうに結菜を見る。
そうだ、こういう時、視えない人は。
そう考えたところで、もう一度足を止めた。
もし。もしも、自分が妖の気配に気づいていたのに、術者協会へ通報しなかったらどうなるのか。人的な被害まで広がりやしないだろうか。
「結菜、行くよ?」
「あ、ごめん。ちょっと教室に忘れ物しちゃって」
「おっけー、おっけー。ここで待ってるよ」
「ごめん。遅かったら、帰って良いから」
「不審者出てきているのに、一人で帰るの危ないから待ってるって」
「ありがとっ」
茉優に礼だけ言って、結菜は上履きに履き替えなおした。
ここ数日でこれだけ妖の気配を感じるのは、明らかに頻度が高すぎる。この違和感がどこからかが分かれば、家に連絡すれば良い。何事も無ければ、ただの気のせいで済むんだ。
気配の先を慎重にたどりながら、結菜は校舎内を歩く。
放課後になったせいか、教室の中は空っぽだった。模試が近いからだろうか。それでも奇妙だ。今は試験期間中ではない。不審者情報が出回って、どの部活も帰宅指示が出たのか。いや、少なくとも結菜のクラスのホームルームでは何も連絡がなかった。
だから、部活をやっている人が一人もいないのは普通じゃない。
階段をゆっくりと昇っていくと、どんどん瘴気が濃くなっている気がする。強い妖がいるのだろうか。そうであれば、術者協会からすぐに術者が派遣されているはず。こんなに野放しの状態になるはずがない。
バチン。
急に電気が落ちた。外を見ようにも、窓の向こう側は真っ暗で何も見えない。一体、どうして。
そこまで考えたところで、結菜は慌てて昇降口に戻った。途中誰一人すれ違うことなく、昇降口に戻ると、下駄箱に背を預けてスマホを見ている茉優がいた。
「茉優っ」
呼びかけても、反応が無い。
結菜が茉優に駆け寄ると、茉優の口を黒い液体上の何かが口を塞いでいた。目は虚ろになっていて、何も映していない。
呼びかけながら、肩を揺さぶろうとしたところで、とぷん、という音が聞こえた。振り向いたがそこには何もなかった。気のせいだろうか。と、思ったところで、急に茉優の肩が下がった。慌てて茉優を見ると、床に飲み込まれて行ってしまった。
「茉優っ」
慌てて後を追おうとして、結菜が手を伸ばしたが間に合わなかった。茉優を飲み込んだところで、床は元の床に戻ってしまった。何度か床を両手で叩くが、固く、手だけがジンジンと痛んだ。