騒ぎの中心には、珀と数人の令嬢たちがいた。隼人が慌てて珀を宥めているように見える。珀の赤い瞳はいつも以上に鋭く細められ、危険な光を発していた。
「珀くん、一旦落ち着いて。琴葉ちゃん連れてきたから。それで、隼人くん?何があったのかな?」
一史が珀の肩に手を置き、声をかける。隼人に状況を聞く声はいつも通りの余裕があり、周囲の人間を安心させる力を持っていた。琴葉という名前に珀はぴくりと反応し、ハッとする。その瞬間、目の光はすぅっと消え失せた。
「珀様……。大丈夫ですか?」
ここから先、珀を落ち着かせるのは自分の役割だと判断して、琴葉は珀の近くに進み出る。すると、近くの令嬢数人から金切り声が発せられた。思わずびくりとしてしまう。
「ちょっと!軽々しく珀様なんて呼ばないでくださる?本当に礼儀がなっていないわ!信じられない!あんた、珀様をたぶらかしたんでしょう?最低極まりないわ。あんたみたいな女がどうして珀様の隣に立てるの?」
「しかもこの女、貴族教育をまともに受けていない無能者なんですって!平民ってことよ平民。だから珀様をたぶらかすなんてことができるのよ、外見も中身も卑しいのね。」
口々に責め立てられる。するとまた珀の瞳が光り始めた。琴葉はまずいと思って、一史がそうしたように珀の肩に手を置く。そうすれば、珀は琴葉しか視界に映さなくなるのだ。
隼人の状況説明が聞こえてくる。どうやら、令嬢たちが珀の婚約発表は琴葉に脅されてやっただけで、本当は婚約なんかしていないはずだ、自分の方が婚約者にふさわしいから撤回して真実を言ってくれと珀に言ったらしい。命知らずにもほどがある。普段、珀は女性に言い寄られても完全スルーしているが、琴葉を悪く言われるのはどうしても許せなかったらしく、今回ばかりは怒りが炸裂してしまったようだ。
能力者は、感情のコントロールを失うと無意識のうちに能力を発動してしまうことが稀にある。今の珀は無理やりそれを抑えている状態なのだ。琴葉がそばにいることでそれを手伝ってあげている、というわけである。
事情を一通り聞いた一史が珀と令嬢たちの間に割って入る。そして、笑顔のまま令嬢たちに問いかけた。
「君たち、この僕がこのパーティーにいるっていうことの意味がわかるかい?」
令嬢たちはよくわかっていない様子。貴族としての知識を勉強した琴葉は自分なりに考えてみる。きっと、琴葉の存在を認めているという証拠なのだろう。つまり、令嬢たちが言うように脅しで婚約発表をしているなんてことは一切なく、珀の意志、そして宝条の意志として婚約発表しているということだ。
「そうか、わからないなら仕方ないね。責任は親が取るべきだ。それぞれ、お父様を呼んできてくれるかな?」
そこまで言われてやっと事の重大さに気づいた令嬢たち。顔を真っ青にしてその場に立ち尽くしてしまう。
「聞こえてるかな?お父様を呼んできてって言っているんだけど。」
ずいっと一史が令嬢たちの顔を覗き込む。終始笑顔で緩い雰囲気を醸し出しているのが余計怖い。流石珀の父親だ、と思ってしまう。
慌てて1人、2人、とその場からいなくなり、しばらくしてそれぞれ父親らしき男性を連れて戻ってきた。父親たちは少し離れた場所にいたようで、状況がわからず困惑している様子。
「君たちのお嬢さん方が、珀くんの婚約発表は琴葉ちゃんが珀くんを脅してやったって言ったらしいんだよね〜。どういうことかな?」
父親たちは色を失ってガタガタ震え始める。感情を表に出さない貴族とはいえ、貴族トップから娘の失態を聞かされて平気でいられるはずがない。
「も、も、申し訳ございません。娘がご迷惑をおかけいたしました。そ、そのような失礼なことを申し上げたとは……。」
次々に謝る父親たち。令嬢たちは自分たちが失態を犯したことはわかったようだが、何が失態なのかわからず、不服だといった顔をしている。
「珀くんもご令嬢を危険に晒したから、今回はそれでお咎めなしだけれど、ちゃんとご令嬢のこと見ておくんだよ。次はないからね。」
「はひぃぃぃ!!」
返事ともつかない声をあげて父親たちは自分の娘を連れて会場の端っこへと去って行った。琴葉は社交界のヒエラルキーというものを初めて間近で見ることになったのだった。
「はい、みんなごめんね〜!トラブルが起こっちゃったけど、仕切り直してまた談笑しましょうや〜。」
一史がパチンと手を叩くと、野次馬のように群がっていた貴族たちが少しずつ散っていき、立食パーティーが再開された。琴葉は先ほどの続きということで、また一史に連れられ、挨拶回りへと向かう。
「琴葉ちゃん、次は月城家にご挨拶に向かうよ。無能者の家系なんだけど、宝条と同じくらい力を持っている家柄で、最初から東京を拠点にしていた経済界の重鎮だ。癖が強いから覚悟しておいてね。」
琴葉はその家名を聞いて、三枝先生に教わったことを思い出していた。最初から東京を拠点にしていた、というのは比較的重要なことで、近年では首都機能のある東京に本家を構えるのが貴族の当たり前だが、以前はそうではなかった。宝条家はもともと京都に本家があり、関西一帯を支配していた。それを地位向上とともに東京に移したという歴史がある。
そして、昔から東京に本家を構え、関東一帯を支配していたのが、月城家である。無能力者の家系だが、月城コーポレーションと言えば小さな子供でも知っているくらいの大企業で、その経営の手腕から常に宝条家と同等の地位を保持しているらしい。
一史に導かれ、月城家のいるテーブルに向かう。
「これはこれは、宝条家のご当主様ではありませんか。ご無沙汰しております。」
月城家当主、月城和樹が立ち上がって挨拶してくる。一史が挨拶を返し、琴葉を紹介する。和樹は観察するように琴葉をじっくりと見てきた。その視線があまり心地のいいものではなくて、琴葉は思わず少し後ずさってしまう。
「おっと、怖がらせてしまったようだね、すまない。社交界は大変だろう、少しは慣れてきたのかな?」
地獄の底まで見えているかのような鋭い瞳に、吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じながら、恐る恐る答える琴葉。
「え、えぇ。まだまだ未熟ではございますが、勉強に励んでおります。これからは実践の機会も増やして、宝条家次期当主の婚約者にふさわしい振る舞いを身につけて参ります。」
必要以上の情報を明かさず、質問にはしっかり答える。これが貴族の会話の鉄則だと三枝先生は言っていた。受け答えに自信があるわけではないが、特に問題もなかったと思う。だが、和樹の笑みが深くなったのを見て、何か間違えたのではないかと思えてきた。
「そうかそうか。ところで、琴葉嬢は15歳だったと記憶しているが、間違いないだろうか。」
なぜ知っているのだろうか。琴葉にさらなる恐怖が植え付けられていく。この人を敵に回してはいけない。そう直感が告げている。ただ、貴族の中で情報を集めるのは大切なことだから、神楽家から何か漏れていてもおかしくはない。琴葉とて小さな頃は貴族として生きていたのだ。心を落ち着かせて、肯定の意を伝える。
「では、茜と同い年だな。茜、自己紹介なさい。」
和樹の隣に座っていた、色白の華奢な女の子が立ち上がり、優雅に礼をする。
「お初にお目にかかります、神楽琴葉様。月城家長女、月城茜と申します。以後、お見知り置きを。」
同い年ということは、琴葉より長く貴族として生きているということだ。15歳の少女だが、その立ち居振る舞いには余裕があり、気品に溢れていた。琴葉は劣等感に塗れながら自己紹介を返した。
「茜をそちらの珀坊っちゃんと婚約させようと考えていたんだがなぁ、なんてね。これから茜に釣り合う別の男を探すのが大変だよ。」
和樹のあからさまな発言にその場が少し凍りつく。
「前々から何度も縁談を申し込まれていますもんねぇ、和樹さん。珀くんが基本女性に興味がなくて、お断りすることになってすみません。」
緩い雰囲気を崩さずに一史がさりげなく反論する。それにしても月城家の縁談を断っていただなんて。これって恨みが自分に向くんじゃ……と思った琴葉。予感は的中する。
「私も珀様のお隣にふさわしい人間になるためにたくさん勉強して参りましたの。お断りされてしまって非常に残念でしたわ。でも、琴葉様という婚約者ができたのなら、今回は仕方ないですわね。」
感情を表に出さず、静かな笑みを浮かべてこう言ってくる茜は、正直その辺にいるすぐに噛みついてくるような令嬢よりも余程怖い。和樹と同様、敵に回してはいけないタイプだ。いや、珀の婚約者という時点であちらはすでに敵認識していそうだが。今回は、と強調するあたり、敵意が垣間見える。
「いやぁ、和樹さん、不可侵条約を忘れていやしませんか。我々は不可侵に則るという意味でも縁談をお断りしているのですよ〜。」
一史がまたキレッキレのスパイクを打ち込んでいく。不可侵とは、政治の中枢を担う宝条家と経済界の重鎮である月城家の間に交わされている、お互いの家のやることに干渉しないという決まりである。二つの家の力があまりにも強いため、争うことは日本の崩壊を意味する。そのため、何世代も前の当主同士がお互いの手腕に口を出すことはできない状態を作ったのだ。
不可侵に則ると、確かに宝条の息子と月城の娘が婚約するのは干渉に値するはずだ。縁談を断る理由としては尤もだろう。
「いやはや冗談が過ぎましたかな。不可侵についても、忘れてはいませんよ。まあ忘れていないだけですがね。この話は別の機会としましょうか。」
今回は和樹がすっと引く形でなんとかその場が収まったが、不可侵を結んでいるとはいえ、誰もが感じる一触即発の空気。珀が当主になる頃には、茜かその夫が当主になっていて、こんな関係性のまま政治を担っていかなくてはならないのか、と琴葉の心にはまた新たな不安が生まれた。
その後も挨拶回りを続け、パーティーはお開きとなった。クタクタに疲れ果てた琴葉を、珀は家に帰ってからしっかりと甘やかしてくれた。結依も主のためにできることを、と湯浴みの時にいつもより念入りにマッサージをしたり、疲れを癒すために温かいはちみつレモンを作って部屋に持ってきたりしてくれる。ほっと息をついてはちみつレモンを飲みながら、今日あったことを振り返るのだった。
「珀くん、一旦落ち着いて。琴葉ちゃん連れてきたから。それで、隼人くん?何があったのかな?」
一史が珀の肩に手を置き、声をかける。隼人に状況を聞く声はいつも通りの余裕があり、周囲の人間を安心させる力を持っていた。琴葉という名前に珀はぴくりと反応し、ハッとする。その瞬間、目の光はすぅっと消え失せた。
「珀様……。大丈夫ですか?」
ここから先、珀を落ち着かせるのは自分の役割だと判断して、琴葉は珀の近くに進み出る。すると、近くの令嬢数人から金切り声が発せられた。思わずびくりとしてしまう。
「ちょっと!軽々しく珀様なんて呼ばないでくださる?本当に礼儀がなっていないわ!信じられない!あんた、珀様をたぶらかしたんでしょう?最低極まりないわ。あんたみたいな女がどうして珀様の隣に立てるの?」
「しかもこの女、貴族教育をまともに受けていない無能者なんですって!平民ってことよ平民。だから珀様をたぶらかすなんてことができるのよ、外見も中身も卑しいのね。」
口々に責め立てられる。するとまた珀の瞳が光り始めた。琴葉はまずいと思って、一史がそうしたように珀の肩に手を置く。そうすれば、珀は琴葉しか視界に映さなくなるのだ。
隼人の状況説明が聞こえてくる。どうやら、令嬢たちが珀の婚約発表は琴葉に脅されてやっただけで、本当は婚約なんかしていないはずだ、自分の方が婚約者にふさわしいから撤回して真実を言ってくれと珀に言ったらしい。命知らずにもほどがある。普段、珀は女性に言い寄られても完全スルーしているが、琴葉を悪く言われるのはどうしても許せなかったらしく、今回ばかりは怒りが炸裂してしまったようだ。
能力者は、感情のコントロールを失うと無意識のうちに能力を発動してしまうことが稀にある。今の珀は無理やりそれを抑えている状態なのだ。琴葉がそばにいることでそれを手伝ってあげている、というわけである。
事情を一通り聞いた一史が珀と令嬢たちの間に割って入る。そして、笑顔のまま令嬢たちに問いかけた。
「君たち、この僕がこのパーティーにいるっていうことの意味がわかるかい?」
令嬢たちはよくわかっていない様子。貴族としての知識を勉強した琴葉は自分なりに考えてみる。きっと、琴葉の存在を認めているという証拠なのだろう。つまり、令嬢たちが言うように脅しで婚約発表をしているなんてことは一切なく、珀の意志、そして宝条の意志として婚約発表しているということだ。
「そうか、わからないなら仕方ないね。責任は親が取るべきだ。それぞれ、お父様を呼んできてくれるかな?」
そこまで言われてやっと事の重大さに気づいた令嬢たち。顔を真っ青にしてその場に立ち尽くしてしまう。
「聞こえてるかな?お父様を呼んできてって言っているんだけど。」
ずいっと一史が令嬢たちの顔を覗き込む。終始笑顔で緩い雰囲気を醸し出しているのが余計怖い。流石珀の父親だ、と思ってしまう。
慌てて1人、2人、とその場からいなくなり、しばらくしてそれぞれ父親らしき男性を連れて戻ってきた。父親たちは少し離れた場所にいたようで、状況がわからず困惑している様子。
「君たちのお嬢さん方が、珀くんの婚約発表は琴葉ちゃんが珀くんを脅してやったって言ったらしいんだよね〜。どういうことかな?」
父親たちは色を失ってガタガタ震え始める。感情を表に出さない貴族とはいえ、貴族トップから娘の失態を聞かされて平気でいられるはずがない。
「も、も、申し訳ございません。娘がご迷惑をおかけいたしました。そ、そのような失礼なことを申し上げたとは……。」
次々に謝る父親たち。令嬢たちは自分たちが失態を犯したことはわかったようだが、何が失態なのかわからず、不服だといった顔をしている。
「珀くんもご令嬢を危険に晒したから、今回はそれでお咎めなしだけれど、ちゃんとご令嬢のこと見ておくんだよ。次はないからね。」
「はひぃぃぃ!!」
返事ともつかない声をあげて父親たちは自分の娘を連れて会場の端っこへと去って行った。琴葉は社交界のヒエラルキーというものを初めて間近で見ることになったのだった。
「はい、みんなごめんね〜!トラブルが起こっちゃったけど、仕切り直してまた談笑しましょうや〜。」
一史がパチンと手を叩くと、野次馬のように群がっていた貴族たちが少しずつ散っていき、立食パーティーが再開された。琴葉は先ほどの続きということで、また一史に連れられ、挨拶回りへと向かう。
「琴葉ちゃん、次は月城家にご挨拶に向かうよ。無能者の家系なんだけど、宝条と同じくらい力を持っている家柄で、最初から東京を拠点にしていた経済界の重鎮だ。癖が強いから覚悟しておいてね。」
琴葉はその家名を聞いて、三枝先生に教わったことを思い出していた。最初から東京を拠点にしていた、というのは比較的重要なことで、近年では首都機能のある東京に本家を構えるのが貴族の当たり前だが、以前はそうではなかった。宝条家はもともと京都に本家があり、関西一帯を支配していた。それを地位向上とともに東京に移したという歴史がある。
そして、昔から東京に本家を構え、関東一帯を支配していたのが、月城家である。無能力者の家系だが、月城コーポレーションと言えば小さな子供でも知っているくらいの大企業で、その経営の手腕から常に宝条家と同等の地位を保持しているらしい。
一史に導かれ、月城家のいるテーブルに向かう。
「これはこれは、宝条家のご当主様ではありませんか。ご無沙汰しております。」
月城家当主、月城和樹が立ち上がって挨拶してくる。一史が挨拶を返し、琴葉を紹介する。和樹は観察するように琴葉をじっくりと見てきた。その視線があまり心地のいいものではなくて、琴葉は思わず少し後ずさってしまう。
「おっと、怖がらせてしまったようだね、すまない。社交界は大変だろう、少しは慣れてきたのかな?」
地獄の底まで見えているかのような鋭い瞳に、吸い込まれてしまいそうな恐怖を感じながら、恐る恐る答える琴葉。
「え、えぇ。まだまだ未熟ではございますが、勉強に励んでおります。これからは実践の機会も増やして、宝条家次期当主の婚約者にふさわしい振る舞いを身につけて参ります。」
必要以上の情報を明かさず、質問にはしっかり答える。これが貴族の会話の鉄則だと三枝先生は言っていた。受け答えに自信があるわけではないが、特に問題もなかったと思う。だが、和樹の笑みが深くなったのを見て、何か間違えたのではないかと思えてきた。
「そうかそうか。ところで、琴葉嬢は15歳だったと記憶しているが、間違いないだろうか。」
なぜ知っているのだろうか。琴葉にさらなる恐怖が植え付けられていく。この人を敵に回してはいけない。そう直感が告げている。ただ、貴族の中で情報を集めるのは大切なことだから、神楽家から何か漏れていてもおかしくはない。琴葉とて小さな頃は貴族として生きていたのだ。心を落ち着かせて、肯定の意を伝える。
「では、茜と同い年だな。茜、自己紹介なさい。」
和樹の隣に座っていた、色白の華奢な女の子が立ち上がり、優雅に礼をする。
「お初にお目にかかります、神楽琴葉様。月城家長女、月城茜と申します。以後、お見知り置きを。」
同い年ということは、琴葉より長く貴族として生きているということだ。15歳の少女だが、その立ち居振る舞いには余裕があり、気品に溢れていた。琴葉は劣等感に塗れながら自己紹介を返した。
「茜をそちらの珀坊っちゃんと婚約させようと考えていたんだがなぁ、なんてね。これから茜に釣り合う別の男を探すのが大変だよ。」
和樹のあからさまな発言にその場が少し凍りつく。
「前々から何度も縁談を申し込まれていますもんねぇ、和樹さん。珀くんが基本女性に興味がなくて、お断りすることになってすみません。」
緩い雰囲気を崩さずに一史がさりげなく反論する。それにしても月城家の縁談を断っていただなんて。これって恨みが自分に向くんじゃ……と思った琴葉。予感は的中する。
「私も珀様のお隣にふさわしい人間になるためにたくさん勉強して参りましたの。お断りされてしまって非常に残念でしたわ。でも、琴葉様という婚約者ができたのなら、今回は仕方ないですわね。」
感情を表に出さず、静かな笑みを浮かべてこう言ってくる茜は、正直その辺にいるすぐに噛みついてくるような令嬢よりも余程怖い。和樹と同様、敵に回してはいけないタイプだ。いや、珀の婚約者という時点であちらはすでに敵認識していそうだが。今回は、と強調するあたり、敵意が垣間見える。
「いやぁ、和樹さん、不可侵条約を忘れていやしませんか。我々は不可侵に則るという意味でも縁談をお断りしているのですよ〜。」
一史がまたキレッキレのスパイクを打ち込んでいく。不可侵とは、政治の中枢を担う宝条家と経済界の重鎮である月城家の間に交わされている、お互いの家のやることに干渉しないという決まりである。二つの家の力があまりにも強いため、争うことは日本の崩壊を意味する。そのため、何世代も前の当主同士がお互いの手腕に口を出すことはできない状態を作ったのだ。
不可侵に則ると、確かに宝条の息子と月城の娘が婚約するのは干渉に値するはずだ。縁談を断る理由としては尤もだろう。
「いやはや冗談が過ぎましたかな。不可侵についても、忘れてはいませんよ。まあ忘れていないだけですがね。この話は別の機会としましょうか。」
今回は和樹がすっと引く形でなんとかその場が収まったが、不可侵を結んでいるとはいえ、誰もが感じる一触即発の空気。珀が当主になる頃には、茜かその夫が当主になっていて、こんな関係性のまま政治を担っていかなくてはならないのか、と琴葉の心にはまた新たな不安が生まれた。
その後も挨拶回りを続け、パーティーはお開きとなった。クタクタに疲れ果てた琴葉を、珀は家に帰ってからしっかりと甘やかしてくれた。結依も主のためにできることを、と湯浴みの時にいつもより念入りにマッサージをしたり、疲れを癒すために温かいはちみつレモンを作って部屋に持ってきたりしてくれる。ほっと息をついてはちみつレモンを飲みながら、今日あったことを振り返るのだった。