まだまだ暑い8月最終週の日曜日、琴葉と珀は両想いと言える関係になってから初めてのデートに来ていた。誘ったのは珀で、一番の目的は婚約発表の社交パーティーのためのドレスを注文することだ。

「10月、社交パーティーを開いて、婚約発表をしたいと考えている。婚約発表だから、琴葉にも参加してほしいのだが、いいか?」

数日前の夕食の時、改まって珀がこう言ってきたのだ。まだ貴族令嬢としての立ち居振る舞いは完璧とは言えないが、ほぼ完成に近いと三枝先生のお墨付きをもらっているため、琴葉は覚悟を決めて頷いたのだった。

もちろん、死ぬほど緊張するし、ましてや婚約発表ということは人前に出るということだ。ただ関係者に挨拶するだけのパーティーよりも難易度が高いのだから、不安も怖さもある。でも、婚約者としてふさわしい女性になると決めたんだ。ここで人前に出る練習をしておかなくちゃ。

そして今、最初のデートの時も来た服屋にまた2人で来ている、というわけだ。前回も接客してくれた年配の女性が出てくる。

「宝条の坊っちゃん、お待ちしておりました。本日は琴葉様の新しいドレスのためにお越しになったのですよね。以前琴葉様の採寸をさせていただいた際に選んだ布に近いものをいくつか用意しております。こちらへどうぞ。」

前に採寸をしてもらった部屋とは別の商談室のような場所へと通される。テーブルの上にはすでに暗めの色の大人びた雰囲気の布がずらりと並んでいた。

こちらの布は……と一枚ずつ色や柄の説明がなされ、情報量の多さに眩暈がし始めた頃、店員の1人がハーブティーを持ってきてくれた。頭がスッキリしたような気がする。

説明が一段落して、どの布がいいか選ぶ段階になった。普段、琴葉は自分の好みがよくわからないことが多い。好きな食べ物や飲み物を聞かれても答えられないし、どれがいいかと問われると困ってしまう。選べないというわけではない。何にも強い興味が引かれないのだ。きっとほしいものを我慢せざるを得なかった家庭環境のせいだろうが。

だが、そんな琴葉にも変化が表れていた。テーブルに並んだ布を一つ一つ丁寧に見ていくと、とても目を惹かれるものがあったのだ。それは、紺色の布で、その上から黒の糸で刺繍された薔薇の花が静かに、でも存在感を主張するように凛と咲き誇っていた。

琴葉がその紺色の布をじぃっと見つめているのに、珀が気づく。

「それがいいのか?」

ハッとした琴葉は、珀の方を見て頷いた。

「ええ、とても美しいです。でも、私に似合うとは思えなくて……。」

琴葉は凛とした芯のある女性とは言い難い。自分でそれをわかっているから、堂々と咲き誇る可憐な薔薇が似合うとは思えないのだ。ドレスに負けてしまう気がする。

「そんなことないだろ。琴葉は大人びた色が本当に似合うからな。これだって琴葉が纏えば美しいだろうなぁ。」

珀はそう言ってくれるが、やはり自信が持てない。すると、年配の店員が口を挟んだ。

「琴葉様。服装には二つの意味がございます。まずは自分を表す、という意味。昔は身分の高い方が良い布をいくつも重ねて纏いました。服装で身分を示していたわけですね。これは今でも大きくは変わっておりません。」

店員は真っ直ぐに琴葉を見つめて話を続ける。

「二つ目は、自分のなりたい姿を纏う、という意味です。今はそうでなくとも、いつかこのようになりたい、そういった目標のようなものを、服で表すことができるのですよ。人とは違う何かがほしいと願って奇抜な服装を好んだり、目立つために派手な服装を着たり。これらは自分のなりたい姿を服で示しているのです。そのどちらの意味においても、服装はとても大切な表現としてのツールなのですよ。」

店員はきっと琴葉の気持ちを見抜いているのだろう。琴葉の欲しかった言葉をかけてくれた。そうだ。なりたい姿を着てもいいんだ。だとしたら。

「珀様、私はこの布のドレスが着たいです。」

珀に向けてはっきりとそう言う。もちろん、指しているのは紺色の布だ。珀はニコリを微笑んで頷いた。

「では、この布で一着仕上げてほしい。1ヶ月ほどで頼みたい。」

琴葉は穂花に憧れている。宝条現当主の妻として、役割を全うしている素敵な女性。雰囲気はふわふわしていて可愛らしいが、いざ話してみると一本芯が通っているような、凛とした女性。こんな風に、芯のある人になりたい。その思いが琴葉の好みに影響を及ぼしているようだ。

その後もどんなレースを使うかなどを決めて、お昼前に店を出る。

「珀様、ありがとうございます。」

車の中で改めて礼を言う。珀は琴葉のドレス姿が楽しみだと答えた。

東京湾を見渡せる景色のいいレストランで食事をした後、2人はその近くのホテルの庭園へと向かった。今回も珀がデートプランを組んでおり、琴葉は連れられる形になっている。

池を中心として竹や松などが植えてある日本庭園のような区画から、色とりどりの花々が並ぶ洋風の区画まで様々な植物があり、見応えあるスポットだ。

珀とデートするときはだいたい植物を見ているな、と琴葉が考えていると、珀がそれを見透かしたかのように言う。

「今、植物ばかり見ていると思っただろう。許してくれ、俺が琴葉には花が似合うと思ってるから、どうしてもデートプランに植物園やら庭園やらを入れたくなってしまうんだ。」

2人でくすくす笑う。

「構いませんよ、花に囲まれている珀様も素敵ですからね。」

「おまっ、なんてこと言うんだ。」

照れて顔を真っ赤にする珀。女性人気の高い珀のことだから、こんなこと言われ慣れていると思ったのだが、全く慣れていないようだ。とはいえ、琴葉もいい慣れているわけではないから、照れてしまう。2人して頬を赤く染める、初々しいカップルである。

庭園は貸切ではないため、カップルや老夫婦などと何度かすれ違う。カップルたちは琴葉と珀の初々しい様子を見てかわいい、尊い、と言っているようだったが、一方で女性数人のグループなどは大抵みんな珀に見惚れてうっとりしつつ、その隣を歩く私を睨みつけているのに気づいた。

珀の隣に立つとはそういうことなのだと最近理解しつつある。嫉妬の視線は決して気持ちのいいものではないが、それもこの立場の役割なのだろう。また、珀もそういった女たちには全く関心を示さず、琴葉にベッタリなので、不安になることもない。

ゆったりと庭園を歩き回り、出口近くのフラワーアーチの近くまで来た。珀にアーチの前に立つように言われ、その通りにする。珀は向かい合って真っ直ぐ琴葉を見つめる。

それなりの身長差があるため、琴葉が珀を見上げる形になっている。すると、緊張した面持ちの珀が見えた。

ポケットから何かを取り出す珀。両手に包むようにそれをもち、琴葉の前に差し出した。

「琴葉。俺と正式に婚約してくれないか。」

目の前でケースが開かれ、美しく輝くペアリングが出てくる。珀の言葉を噛み砕く。婚約。婚約?もう婚約していたのではないのか。

「えぇと、婚約、ですか?すでにしているのでは……。」

すぐに返事をするべき状況なのはわかる。でもわからないのだから聞くしかない。仕方がない。

「あぁ、俺のいい方が悪かったな。確かに琴葉を連れ出してすぐ、俺はお前に婚約を申し込んだ。だが、あの時はお前は俺を好きではなかっただろう?神楽家を抜け出すために婚約した、そうじゃないか?」

失礼かもしれないが、その通りなので頷く。

「だから、これが正式な婚約の申し入れだと思ってくれ。俺はお前が好きだ。今後、戦闘訓練やら貴族教育やらでどんどん大変になっていくだろう。でも、俺はいつでも琴葉の味方だし、絶対に守る。だから、返事を聞かせてくれないか?」

甘い言葉は珀が毎日、いや毎秒言ってくるから言われ慣れている。そのはずなのに、顔に熱が集まって仕方がない。のぼせてしまいそうだ。

「私も、珀様が好きです。喜んで、お受けいたします。」

恥ずかしい気持ちを我慢して、珀の赤い瞳を真っ直ぐ見て答えた。すると、珀がほっとした顔をして、リングを左手の薬指につけてくれる。いつ測ったのか、サイズはピッタリで、琴葉の細い指で綺麗に輝く。

つけてくれるか、という珀の声に、恐る恐るもう一つのリングをケースから取り出して、ゆっくりと珀の薬指にはめた。

何かをお揃いにするのは初めてで、好きな人と両想いである喜びと、お揃いの嬉しさが心を踊らせる。間違いなく、これまでで一番幸せな日だと琴葉は実感したのだった。