暗くて冷たい水の中で、もがいてももがいても沈んでいく。寒い。苦しい。体が思うように動かない。

とにかく水から出ないと。薄れていく意識の中でそれだけ考えてもがいていると、隣に先ほど夢で見た、スミレという女の人が自然に現れた。

「届いたよ。」

優しい声が頭に流れ込んでくる。スミレの方を見ると美しく微笑んで上を指差しているのが見えた。見上げると、一条の光が。

「……は、こと……琴葉!!」

水面から顔を出すと、目の前に見慣れた綺麗な赤い瞳があった。

「は……く、さま……。」

「琴葉!すまない!」

焦った顔をしている珀に、どうしても伝えないとと思った。体が限界を迎えているらしく、気力を振り絞って声を出す。

「はく、さまに……会いたい、一緒に……いたいと、願ったら……叶いました……。」

精一杯口角を上げて、また意識を失う琴葉。その場にいた誰もが慌ただしく動き回り、琴葉の応急処置に回った。

「初めて能力を使ったから、消耗しているだけだろうが、病院に向かう。」

珀の声に、隼人と浅桜の使用人たちが頷いた。

※ ※ ※

目を覚ますと、見慣れない天井が見えて少し混乱した。琴葉は、鈍痛をかき分けて頭を働かせ、記憶を辿ると、自分が鈴葉と浅桜家の令嬢に拉致されて暴行され、監禁されていたことを思い出した。すると、今いるのは病院だろうか。

「琴葉!気が付いたか!」

珀が顔を覗き込んでくる。ナースコールが押され、看護師がパタパタと部屋に入ってくる。珀は一旦外に出るよう言われていた。なんだか色々な数値を確かめられ、何か体調に変化があったら呼んでくださいと言いながら、慌ただしく部屋を出ていく看護師。起きたばかりで、終始ぼーっとしてしまっていた。

しかし、突然記憶が蘇ってきて、相良と呼ばれていた男たちに襲われそうになったシーンを思い出す。自分は綺麗な体ではなくなってしまったのか、という事実と恐怖で呼吸が浅くなる。息苦しくて、どうしたらいいかわからない。

その時、珀がもう一度部屋に入ってくる。

「琴葉!?大丈夫か!」

駆け寄ってくる珀が琴葉の背中をさすろうとするが、琴葉は今の体を触れてほしくはなく、振り払ってしまった。ショックを受けたように立ち尽くす珀。

琴葉は無理やり呼吸を整え、虚ろな瞳で珀を見上げた。

「珀様……。申し訳ございません。私は……男の人に……。」

その先の言葉を紡げないでいると、珀は合点が行ったように頷いた。

「ああ、そのことか。心配ない。お前は犯されてなどいない。1人がバカなことにカメラを回していたんだが、そこに写っていた映像では男らは犯す直前に諦めた。だから、大丈夫だ。すまないな……。」

本当なのだろうか。でも、珀が嘘を言っているようには見えない。では、琴葉は意味なく珀を振り払って傷つけたということになる。慌てて謝罪する。

「も、申し訳ありません。手を振り払ってしまって……。その、汚い体かと思って……。」

珀は困ったように笑う。

「謝らないでくれ。琴葉は何も悪くないだろう。」

珀が琴葉の華奢な体を優しく包み込むように抱きしめる。

「琴葉、守ってやれなくて本当にすまない。」

苦しいくらいの抱擁に、迷惑をかけてしまったと思った琴葉は、また謝り返した。

「そんな……。私は一史様に外出は控えるよう言われていたのです。それを守らなかったのですから、悪いのは私です。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。」

珀は困った顔をする。

「本当にお前はすぐ謝る……。いや、俺がもっと強くならないといけないな。」

ふぅと息を吐いた珀は、しばらく会えなかった分を補給するように琴葉をもう一度しっかりと抱きしめた。ベッドに顔を埋めるような体勢になっている。

「助かって本当に良かった。愛してる、琴葉。」

その声は少し震えていて、心配をかけたことを改めて自覚する。そして、心の底から実感したことをはっきりと伝えた。

「私も愛しています、珀様。」

琴葉の口から好きだとか愛しているだとか、そういう言葉が出たのは、これが初めてだ。珀は数秒間フリーズしてしまう。

「い、今……。」

「私、珀様に会いたいと思ったんです。もうだめかと思った時、珀様が好きなんだって実感しました。だから、伝えなくちゃって……。」

珀は顔を赤らめて、恥ずかしそうに俯いた。初めて見る珀の表情に、琴葉は自分の言ったことの恥ずかしさに気付き、耳まで真っ赤になってしまう。

気づけば、3度目の抱擁をくらっていた。

「絶対に守る。俺のそばを離れないでくれ。」

そして、流れるように唇にキスを落とされる。少し長めのキスだった。

唇も体も離れた時、タイミングを見計らっていたかのように部屋に隼人が入ってきた。珀が舌打ちをする。

「珀様、すぐに舌打ちをするのはお辞めになった方が良いかと。その方が部下の生産性が上がると思いますよ。」

琴葉はいつものやり取りに思わず口元が緩んでしまう。思えば、出張続きで最近は全然このやり取りを見ていなかった。

「琴葉様、今回の件に関して、伝えておかなくてはならないことがございます。また、琴葉様から説明していただきたいこともいくつか……。」

貴族としての知識・教養は身につけつつあるが、こうして改まった報告を求められると緊張してしまう。うまく答えられるだろうか。

「まず、お気づきかもしれませんが……。琴葉様は無能力者ではございません。そして、今回の事件で初めて能力を発現されました。」

琴葉自身、なんとなく気づいてはいたが、起きてからあえて触れないようにしていたことだ。女性の声が歌えば届くと言ったように、琴葉が願いを込めて歌うと淡い光が漂って、珀が助けに来てくれた。神楽は音楽の能力を引き継ぐ家系だ。これが神楽の能力であることは容易に察することができる。

「その時の状況をご説明いただけますか?わかる範囲で大丈夫ですので。」

少し考えてから話し出す。

「えぇと、鈴葉と、あと浅桜家のご令嬢に殴られたり、蹴られたりして、意識を失っていたのですが、目が覚めると真っ暗な部屋に閉じ込められていることに気付きました。周りには誰もいない上、体を縛られていて身動きが取れなかったので、助けが来るのを待つしかないと思ったのですが、その時、女性の声がして。歌えば願いが届くと、そう言われたのです。」

珀が険しい顔をしている。一方で隼人は無表情のまま、淡々と琴葉の話をメモしている。

「閉じ込められていて、酸素が薄い中、歌えばもっと薄くなってしまうと思ったのですが、なぜか歌わなければいけないと思って。勝手にメロディーが口から滑り出していくような感じで。珀様に会いたい、助けて欲しいと思ってそれを音に乗せて歌っているうちに、力尽きてしまったんですが、次に気が付いた時には珀様が助けてに来てくれていました。」

「珀様、琴葉さんに当時の状況のご説明を。」

琴葉の話が一段落して、今度は珀が説明を促される。

「俺は琴葉が神楽に攫われたと聞いて、すぐに隼人と神楽の本家に乗り込んだんだ。神楽の当主が情報を持っているだろうと思ってな。だが、知らないの一点張りだったから、神楽当主を取り押さえて無理やり吐かせようとしていた時、突然頭にお前視点の映像と音声が流れ込んできたんだ。」

琴葉は少し驚いた。確かに助けに来てはくれたから、願いが届いたのはわかっていたが、どんな形で届いたのかは知らなかったため、改めて聞くとびっくりしてしまう。

「一瞬で長い映画を見ているような感じだった。俺は情報量に驚いて処理落ちのような状態になったが、すぐに立て直して、琴葉を助けるための情報がその中に落ちていないか考えた。神楽の娘が首謀者だろうということと、浅桜の孫と手を組んでいることがわかったからな、浅桜家と連絡を取って琴葉が監禁されているであろう場所を割り出してもらったんだ。」

話し終えて珀が一息吐く。

「能力者の家系、すなわち貴族ということになりますが、それらは始まりとなる能力がそれぞれあります。そこから代々様々な能力に派生して今に至るのですが、神楽家の始まりの能力は、神に神楽(かぐら)を届けて願いを叶えてもらうというものだそうです。」

琴葉はさらに驚く。新しい情報だらけで理解が追いつかない。

「神楽家は知らないようですが、初代神楽家のその人は女性で、初代宝条家の男と結婚しています。その子どもが2人いて、それぞれ音楽の能力と光の能力を受け継いだらしく、神楽家、宝条家として子孫を繁栄させていくことになったそうです。宝条家の伝承にはこのことが書かれています。」

隼人は淡々と説明を続ける。

「今まで、初代神楽家以降、神に願いを届ける能力を持った能力者が神楽家には度々生まれていたそうですが、皆、能力の発現が遅かったようです。そして、琴葉様がその能力を持って生まれました。今まで能力が発現していなかったのは、この能力だったからこそと言えるでしょう。」

「幸い、我々宝条家には、初代神楽家の伝承が伝わっています。能力についてもある程度詳細がわかるので、説明しますね。伝承と最近の能力者研究を照らし合わせると、神楽の能力は回復系に分類することができます。より詳しく言えば、『浄化』ですね。魔形は空気の淀みから生まれますが、それを浄化し、魔形を一掃できる力です。そして、広く捉えれば、生物の傷や病気も淀みが原因なので、それらを回復させ、元の健康な状態に戻すことも可能です。」

「また、今回は男たち数人に襲われそうになったところで、能力が発動したようで、男たちはみな精神的におかしくなってしまい、結局琴葉様の貞操は守られたようです。これに関してはあまり詳しくは分かりませんが、持ち主を守るというのも能力の一部なのでしょう。防御としての力もあるのかもしれません。」

突然入ってきた恥ずかしい話題に、珀が目を泳がす。琴葉も赤くなってしまったが、助かったから良かったのだと思い、冷静でいようと努める。

ちなみに、能力は攻撃系、防御系、回復系に分類することができる。その中でもさらに細かく分かれているが、大きく分けるとこの3つというわけだ。

少しずつ情報を整理しながら聞いている琴葉だったが、新しい情報に感情も理性も振り回されて頭がおかしくなりそうだった。自分はかなり強力な能力を持っているらしい。しかもそれが発現が遅めのものだと。今まで発現しなかったことに理由があるとはいえ、どうしても考えてしまう。もっと早くに発現していれば。鈴葉と玄から酷い仕打ちを受けずに済んだのではないか。令嬢たちにいじめられずに、貴族として生きてこれたのではないか。夢にまで望んだ能力の発現だが、実際に起こってしまうと絶望するものだ。

そして、隼人はさらに追い討ちをかけるような爆弾を落としてくる。

「これは衝撃的な情報かもしれませんが、落ち着いて聞いてくださいね。琴葉様の能力自体の強さは、珀様レベルです。お勉強なさっているのでご存知かと思いますが、珀様は1000年に1人の逸材と言われている強力な能力の持ち主で、それに匹敵する能力だということです。」

落ち着いていられるわけがない。珀が強いことは知っている。実際に戦闘を見たことがあるわけではないが、有名だからだ。それと同じ?

「そして、琴葉様が能力を発現した時、周辺一帯の魔形が一掃されたようでした。部下からの報告がすでに上がってきていますが、監禁されていた小屋のあたりは最近魔形が多く出現していたようで、宝条家も何度か討伐に関わっていました。しかし、衛星からの映像で、小屋を中心に半径5キロの範囲にいた魔形が忽然と姿を消したそうです。」

力が半径5キロに及ぶのはどれくらいすごいことなのかはピンと来ないが、自分の能力が魔形討伐界隈に影響を与えていることに面食らってしまう。

「琴葉様。報告は以上になりますが、これは宝条として、引いては一能力者としてのお願いです。どうか、能力を高める訓練をして、魔形討伐に加わってはいただけないでしょうか。」

頭を下げる隼人に、琴葉は慌ててしまう。さらに、珀までもが立ち上がって頭を下げ始めた。

「琴葉、本当は戦いなんてさせたくない。琴葉の能力は貴重で、それが表沙汰になると琴葉が狙われる危険性もある。だが、今の魔形討伐界隈は本当に多忙で、人手が惜しい。俺が全力で守るから、討伐隊に入ってほしい。」

あわあわして、琴葉は言葉を探す。突然の能力の発現に感情はぐちゃぐちゃだが、根底にある想いは変わらない。それを伝えるべく、言葉を選びながら話す。

「あ、頭を上げてください。私は、宝条家次期当主の婚約者として、できることを探してまいりました。ですが、やはり無能力者ができることは少なく、私に務まるか不安で仕方がありませんでした。それは今も変わりません。ただ、今は能力が発現して、お役に立てるかもしれないとわかった。それだけで十分です。私は珀様の隣に立てる女性になりたいのです。だから、私も戦わせてください。」

隼人が顔を上げ、安堵の表情を見せる。珀は心配と決意と愛情が混ざったような複雑な表情で頷いた。

「ありがとう、必ず守る。」

怒涛の新情報にドッと疲れが襲ってきて、優しい顔の珀に見守られ、琴葉はまた眠りについた。