「鈴葉。29小節目からもう一回。」

鈴葉の手が鍵盤に乗り、すっと音が鳴り始める。かなり集中しているのが横からでもわかる。

ピアノを挟んで反対側には玄が難しい顔をして腕を組んでいる。演奏がダメなサインだ。

「ダメだ。そこはもっと軽やかに、作曲家の意図を汲みなさい。」

ふぅと息をついてもう一度鈴葉が弾き始める。

「そんなんでは浅桜の一人娘に勝てないぞ。あの家にはどうしても勝たなくてはならん。」

「琴葉、鈴葉に代わって同じところを弾きなさい。」

慌ててピアノの前に座る。鈴葉の罵声が飛んでこないことから、まだ能力が発現する前の夢だとわかった。

夢の中では思うように手が動かせないが、記憶を辿っているだけなのか、勝手に自分の指が曲を奏でる。

「よくできているじゃないか、琴葉。鈴葉、わかったか。こういう感じで軽やかなタッチを続けるんだ。」

「お姉様、すごいです。私もそんな風に弾きたい!」

今では絶対にありえない。玄が素直に琴葉を褒めることも、鈴葉がすごいと言ってくることも。

セピア色の世界が霞んで、場面が変わる。

「出来損ないが生まれてしまったんだから、鈴葉が浅桜美麗に勝つしかないんだ。わかるだろう?これくらい簡単に吹けないとあの娘には追いつけない。絵の能力はやはり強いからな。」

「お父様、すぐに吹けるようになってみせますわ!」

「そう、その意気だ。」

レッスン室の澱んだ空気を伝って、玄の声と鈴葉の奏でる笛の音が聞こえる。出来損ないという言葉が聞こえて、心臓がぐっと重くなるのを感じた。

また場面が転換する。今度はレッスン室ではなく、神楽家の食堂だ。

「魔形討伐はやはり人手が足りていなくてだな、学徒動員が決定した。高等部1年生以上で実力のある能力者は討伐に参加していいことになったそうだ。」

「中等部にまでお話が聞こえてきましたわ。となると、やはり浅桜さんも参加なさるのでしょうか……?」

鈴葉が遠慮がちに玄に聞く。玄の顔が歪んだ。

「ああ、そうだと聞いた。一つ上の学年で浅桜美麗はトップの成績だそうだからな。真っ先に声がかかるだろう。」

鈴葉が悔しそうな顔をする。

「鈴葉、感情を顔に出してはダメよ。」

冴が注意するが、鈴葉は悔しさをうまく隠せずにいた。

「悔しければ練習に励むのだな。鈴葉も実技の成績はいいのだから、来年から討伐隊に加われるだろう。」

琴葉はその会話を給仕の途中で耳にしたのだった。段々と視界にもやがかかっていく。遠くから耳にキンキン響く甲高い声が聞こえてきた。

「もう、なんで起きないのかしら?そんなに強く嗅がせたわけじゃないのよね?一時的な効果があるものをって言ったじゃない!これじゃあ人形を殴ってるみたいで面白くないわ。」

「鈴葉さん、多分そこまで細かくコントロールできるわけじゃないのよ。しばらく起きないのは仕方ないわ。」

目を開けると、薄ぼんやりと部屋の様子が見えた。どうやら、琴葉は車で連れ去られて、どこかの室内に入れられたらしい。神楽家ではないことはわかるが、それ以上は何も情報が入ってこない。照明が明るすぎて見えないのだ。鈴葉ともう1人の令嬢の声が聞こえる。他にも何人かの男の影が見えた。

まだ睡眠薬が効いているのか、頭が回らない上、瞼が落ちそうになる。

「あら、起きたみたいよ。」

鈴葉ではない方の声が言う。

「出来損ないさんのお目覚めね。さ〜て、何からお話しようかしら?」

鈴葉が近づいてくるのがわかる。昔からの癖で、体が強張ってしまう。でも、逃げようにも体が全く動かない。

「あ〜、この何も見ていないような目が昔っから大っ嫌いなのよね〜。まともに話す気が失せる。単刀直入に行こうかしら。ねえ、お姉様。婚約破棄してくださらない?」

転がされている琴葉の顔を覗き込むようにして、不敵に笑う鈴葉。反対側からもう1人、覗き込んできた。

「あら、ご紹介が遅れたわね。こちら、浅桜家の浅桜美麗さんよ。」

合点がいった。さっき車内で絵を描いていたのはこの人だ。そして、少し前まで見ていた夢の内容を思い出す。神楽家とずっとライバルである浅桜家の一人娘。浅桜の中で最強の力を受け継いだと言われている、天才画家だ。能力についてはあまり知らない。

「初めまして、浅桜美麗です。私からもお願いしますわ。宝条珀様との婚約を破棄してちょうだい。」

いきなり情報が増えたからか、まだ酔いが醒めていないのか、処理落ちしてしまい、なんて返せばいいのかわからない。婚約破棄を迫られている?のはわかる。でも、家柄を考えてもこちらから婚約破棄ができるわけがないし、鈴葉と美麗の権力でできることとも思えない。

「ちょっと!何ぼさっとしてんのよ!なんとか言いなさいよ!」

「鈴葉さん、この方は頭がよろしくなさそうね。理解していないのよ、きっと。私がもっと丁寧に解説して差し上げますわ。」

美麗が馬鹿にしたように笑う。

「あなたは無能力者。しかも貴族教育を受けてこなかった、つまり一般市民と同等のレベルなのよ。そんな人間が貴族のトップにあらせられる宝条家の次期当主様の婚約者になるなんて、あってはならないことなの。それをわかっていらっしゃらないようだから、理解してもらおうとお呼び出ししたのですわ。あなたには婚約者は荷が重すぎるでしょう?だから、私たちが解放して差し上げます。そして、あなたが神楽に戻った暁には、私と鈴葉さんは恋敵となって珀様を巡って争うのでございます。どう?ご理解いただけて?」

理解も何もありやしない。結局自分たちが珀の女になりたいだけじゃないか。欲が丸見えだ。

でも、否定しようにも声が出ない。相手はずっと琴葉を貶めてきた人間とその仲間。怯えて声が出ないのも当たり前である。

「まだ何も言わないわ、この人形。相良、ちょっと何度か殴ってわからせて。」

その言葉にびくりとする琴葉。

神楽家の護衛兼使用人が4人近づいてきて、拳を振り下ろされる。痛いと声を出すこともできない。ドゴッボコッという人間から出たらまずい音が次々と鳴る。鈴葉の高笑いが遠く感じられる。

相良と呼ばれる男に顔をめちゃくちゃに殴られたので、どこかの骨が折れているのか、呼吸をするのも難しい。息を吸おうとするとコヒューという音が気管支から鳴る。

「あら、汚い顔。もともとこんな感じでしたかしら?」

鈴葉と美麗の馬鹿にする声が聞こえる。気が遠くなっていく。コンクリートに囲まれた壁に赤と青の絵の具のようなものがついているのが目を閉じる直前に目についた。