八重樫先生のピアノで気持ちの整理ができたはいいものの、不安を拭い去れるわけではない。あれから1週間ほど経ったが、討伐が長引いているようで珀は帰ってこない。

珀からたまに連絡がくるが、やはり忙しいようですぐに会話が途切れてしまう。琴葉がスマホに慣れていないのも一つの原因かもしれないが。琴葉から連絡をするとなると、返信を催促しているようで、どうしても遠慮してしまう。

ずっと考えている。隼人が言っていた「公私ともに珀様をお支えする立場にふさわしい教育を」という言葉。宝条家現当主の

「琴葉ちゃん、宝条の次期当主を支えるのは想像している以上に大変なことだ。でも、琴葉ちゃんならきっとできる。期待しているよ。あと、無能力者だからって神楽の力を磨くのは怠らないようにね。音楽はいつか君を助けてくれるはずだから。」

という言葉。そして、鈴葉の言葉。みんな正しいと思う。

やっぱり琴葉はふさわしくなくて、初めから貴族教育を受けていてすぐに珀の隣に立てる女性が良かったのではないか。鈴葉やその取り巻きを除いて、それを口にする者はいないが、本心ではそう思っているんじゃないか。

琴葉には自信がないから、他者を信じるなどできないのだ。何を信じたらいいかわからない。決して疑っているわけではない。でも、きっとみんな私のことを疎ましく思っているんだろうな、という考えが、根底にずっとあるのだ。

そんな折、珀からこんなメッセージが来た。

『ここ数日、いつもに増して全国的に魔形の出現報告が増えている。どれも強い魔形だそうだ。俺の家は強めの結界が張ってあるが、今は俺が隣で琴葉を守ってやることはできない。万が一結界を破られたら危険だから、本家に避難してほしい。父さんと母さんには俺から伝えておく。』

メイドと使用人がバタバタと準備を急ぎ、すぐに本家へと移動することになった。

「いらっしゃい、琴葉ちゃん。」

一史と穂花にニコニコ笑顔で迎えられる。

「ここなら、珀くんの家よりもさらに強い結界が張ってあるし、いざという時は僕がこの手で守れるから、安心してね。」

みんな優しくしてくれる。珀も琴葉のことが大切だから、万が一のことを考えて本家に預けたのだ。それはわかる。

それが逆に、琴葉には辛かった。大切にされているのに、何も返すことができていない。隣にふさわしい振る舞いを身につけられていない。仕事もできない。そして、自分の身を自分で守ることすら叶わない。珀に余計な心配をさせて、迷惑になっているのだ。

自分の意志もあって逃げてきたというのに、もしここにいたのが鈴葉だったらと考えてしまう。それが自分だけではなく、珀への侮辱にもなることにもうっすら気づいていながら。

本家の客間で教本を読みつつ、鬱々とした気分でぐるぐると考え事をしていると、いつの間にか夕食の時間になっていた。

本家の使用人が呼びに来る。食堂に向かうと、一史と穂花もちょうど入ってくるところだった。

「今日は琴葉ちゃんと一緒に夕食を食べられるなんて、嬉しいわぁ!たくさんお話ししましょうね。」

「僕も嬉しいよ!珀くんが素敵な女性を連れてきてくれて本当に良かったよ〜。」

「……恐縮です。」

雰囲気はゆるいが、食事となるとやはり粗相に気をつけなければならないため、緊張する。席につくと豪華な和食が運ばれてきた。珀から聞いたことだが、本家では基本和食しか食べないんだとか。

料理長による料理の説明を聞いて、現当主夫妻が一口食べた後に自分も箸を口に運ぶ。指先までしっかり気を遣って。

「美味しいです……!」

出汁が利いている卵焼きに思わず頬がゆるむ。まだ食事を美味しいと感じられる分、自分は大丈夫なのだと思う。

「良かったわ。琴葉ちゃん、今日はあまり元気がなさそうだったから、心配だったのよ。」

琴葉の目が見開かれる。また表情を繕うことができていなかったみたいだ。意識しなくては。

「大丈夫よ、貴族は感情を表に出さないように教えられるけれど、これはすぐに身につくものではないわ。私も時間がかかったもの。」

「穂花ちゃんは結婚してしばらくしてもずっと泣き虫だったもんねぇ。僕はいっつもオロオロしていたよ。」

「ちょっと、一史さん、それは言わない約束でしょう?」

この夫婦は本当に仲がいい。それにしても、穂花も結婚する年になっても表情を繕えなかったことに少し安心する。一両日中にできるようになれということではないのだろう。ただ、そうは言っても意識しないとずっとできるようにはならないのだから、少しずつ慣れていかなくてはならない。

「珀くんは討伐で忙しそうだね。幸い、僕まで駆り出されることはなさそうだけど、最近は魔形が激しくて困っちゃうよ〜。」

「やっぱり、討伐だけではなくて他の仕事にも影響が及ぶんでしょうか?」

何か会話に混ざらなくては、と思い、質問を引っ張り出す。

「そうだねぇ、魔形が増えると討伐にたくさんの能力者が必要になるよね。この社会は政治・経済の大部分を能力が使える貴族が担っているから、仕事は討伐だけではないんだけど、その仕事をこなす人員が減ってしまうんだ。簡単に言うと政務が滞るってことだね。」

相槌をうちながら聞く琴葉。言われてみれば確かにそうだ。

「しかも最近は魔形がどんどん強くなっているんだ。原因ははっきりはわかっていないんだけどね。そうなると、討伐時の戦闘で街への被害が出てしまったり、そうでなくても、近くで魔形が発生したっていうだけで周辺の住民は恐怖と不安に襲われる。街の復興や周辺住民のメンタルケアといった、討伐に伴う別の仕事っていうのもたくさん出てくるんだ。」

一史はお茶を飲んで一息ついて、さらに続ける。

「書類仕事も大変だけどね、最近はデジタルになってきて、昔と比べたら楽になったよ。ただ、やっぱり情勢っていうのは常に変化しているから、それに応じて政治も経済の動かし方も変えていかなきゃいけない。今の社会構造上、政治に対する不満も魔形討伐に対する不満も、貴族が一手に引き受けているからね、その貴族が頑張らなきゃいけないんだ。」

ヒエラルキーの上層部だからこそ背負わなければならない責任、ということだろう。自分もそちら側に来てしまったのだ。いずれ背負わなくてはならない時が来るかもしれない。

でも、そんなことできるのだろうか。無能力者の私に。

「そうなんですね。大変勉強になります。ありがとうございます。」

「琴葉ちゃん、今の話を聞いて不安に思ったかもしれないけれど、宝条家の妻として必ず通る道よ。琴葉ちゃんほど大変な状況じゃないけれど、私もまさか貴族のトップの家に嫁ぐだなんて思ってもいなかったから、結婚が決まった頃は本当に不安だったの。私なんかより素敵な女性がたくさんいるのに、どうして私なんだろうって。宝条の妻だなんて務まるはずがないって。実際、宝条家の一部の人や世間は一史さんと私の結婚に反対していたわ。だから毎晩泣いて暮らしていたのだけれど。」

突然、穂花が滔々と過去を語り出す。今の琴葉と同じ思いも、立派に役目を果たしている現当主の妻も感じていたということに、驚いてしまう。

「でもね、周りの人がたくさん助けてくれたのよ。今もそう。たくさんの人に支えられて、ここにいるの。ありきたりなことを言っているようだけれど、当たり前のことではないのよ。未熟な私がうまくやれるように、周りがサポートしてくれているの。上に立つってそういうことなのよ。他の人が補ってくれて初めて、上に立つ者としての役目を果たせる。だから、琴葉ちゃん、味方を1人でも増やしなさい。もちろん、私はずっとあなたの味方だから。」

それは、まるで親が子どもを見るかのような温かい眼差しだった。本当の親からそんな目を向けられたことのない琴葉は、驚いて何も言えなくなってしまう。

「僕も味方だよ。助けられることは助けるから、1人で背負わなくていいんだ。ちなみに、穂花ちゃんの時とは違って宝条家はほとんど君を受け入れているよ。だから、味方は多いはず。大丈夫だよ。」

歯の浮くようなセリフもすっと出てくる2人に、珀は似ているのかもしれない。

「ありがとうございます。味方を増やします。」

夫妻はにっこりと笑って頷いた。

「それはそうと、そろそろ珀くんの誕生日ね。」

「え?そうなのですか……?」

「あら、琴葉ちゃん、もしかして知らないの?」

恥ずかしいことに、お互いの誕生日について一度も話したことがない。近いのなら、何かお祝いしなくてはならない。というか、お祝いしたいと思う。

「す、すみません、誕生日が話題に出たことがなくて……。」

2人が大笑いしている。恥ずかしくていたたまれない。

「確かに、特殊な出会い方だものね。珀くんの誕生日は8月12日よ。」

「8月12日……。ありがとうございます。何かお祝いしたいのですが、珀様のお好きな食べ物とか伺っても……。」

慌てて情報収集して、当日に備えることにした。プレゼントのためのお金がないだろうということで一史がお小遣いとして数枚の札束を差し出してきたが、申し訳なくて何度か押し問答になる。結局断り切れず、もらってしまった。確かに自分で使えるお金はないため、助かったと言えば助かった……と思うのは失礼だろうか。

食事は温かい雰囲気のまま終わった。少し心が軽くなったような気がした。