デートの日の夜。琴葉は天蓋付きのベッドに横になり、先ほどの出来事を思い返していた。
「神楽の恥と言われて育った出来損ないさん?あなた、宝条家に嫁ぐことになって、まるでシンデレラみたいね。でも、所詮あなたは貴族でも何でもない、無能力者。珀様とは不釣り合いにもほどがあるのよ。シンデレラは身の程を弁えて、またうちで下働きなさい。」
鈴葉の言っていることは正しい。琴葉は無能力者で、貴族教育もまともに受けてこなかった出来損ないだ。最近また貴族の勉強を始めたとはいえ、同年代の貴族令嬢に追いつくのはやはり難しい。
本当に私が宝条家に嫁いでいいのだろうか。鈴葉の言うとおり、鈴葉が婚約者の方が珀も幸せなのではないか。もともと自信などカケラも持ち合わせていない琴葉だが、さらに自分を信じることなどできなくなっていく。
「珀様、そんな女よりも公私ともに珀様をお支えできる私の方が、婚約者にはふさわしいと思いますわ!何か宝条家に策略がおありなのかもしれませんが、同じ神楽の娘である私なら、問題ないはずですわよね。」
鈴葉はこうも言っていた。宝条家の策略。やはりそうなのだろうか。私は何かに使われるために貰われただけで、婚約者とは名ばかりなのだろうか。嫌な考えばかりが頭を渦巻く。
いや、それでもいい、神楽から逃げられるなら使われてもいいと思ったから珀様についてきたんじゃないか。そう思い直す。
それに……。珀の行動は、嘘ではないと琴葉は思う。本心から、琴葉と一緒にいたいと思ってくれているのが、いつも伝わってくるのだ。
でも。珀が琴葉を好きでいてくれるとしても。これまでは、淡い期待を抱いた途端、玄や鈴葉に打ち砕かれてきた。雅との関係も、この間そうやって終わりを迎えたばかりだ。今回の宝条への嫁入りも、そうやって今までみたいに壊されてしまうのではないか。どこまで逃げても、あの家からは逃れられないのでは。
悪い方に悪い方にと考えてしまう。きっとそうではないと打ち消そうとしても、頭を侵食してくる。心臓が重くなって真っ黒い戸愚呂を巻くみたいな感じ。
考えてはだめだと思い、無理やり目を閉じてその日は眠りについた。
※ ※ ※
翌朝。結依が起こしにきた時には、すでに珀は家にいなかった。九州の方で魔形が大量発生しているため、戦力として討伐出張に向かったらしい。
せめて顔を見ることができたら、この不安も少しは落ち着くかもしれないのに、と思った琴葉は、でも仕事を頑張っている珀の迷惑になってはいけないと思い直す。
今日は雨だ。外に出る用事はないから関係ないが、まるで自分の気分をそのまま表しているようでため息が出る。
「本日は10時からピアノのレッスンがございます。いつも通り、30分前になりましたら、お部屋に呼びに参りますので、ご準備をよろしくお願いいたします。」
いつもは珀のぎっしり詰まった予定を淡々と並べる使用人も、今日は琴葉の分だけでよく、少し楽そうだ。一礼をして使用人が下がっていく。
朝食を食べ終え、部屋に戻る。
「琴葉様。」
他のメイドたちが退室したあと、結依だけが残って口を開いた。琴葉が結依の方へ向き直るとこう続ける。
「メイドが口をはさむことではないのかもしれませんが、お悩みごとがあるのでしょうか?最近、笑顔でいらっしゃることが多かったのに、今日は少し思い詰めた表情をなさっています。私たちには相談できないことかもしれませんが、何かできることがあればと思いまして……。今日の午後は三枝様のレッスンもないことですし、紅茶とお菓子をご用意して、ゆったりと休憩なさってはいかがでしょうか。」
貴族が感情を表に出すことはあまり良しとされていない。それなのに、メイドにまではっきりと不安が伝わってしまっている。驚いてオロオロする琴葉に、結依も少し戸惑いを見せる。
「申し訳ありません。私、出過ぎた真似をいたしました……。」
頭を下げる結依に琴葉は慌ててこう言う。
「そんなことありません。あなたが謝ることじゃないんです。紅茶とお菓子、お願いしてもいいですか?」
すると、結依はパッと顔を綻ばせて、精一杯頑張ります!と意気込んで部屋を出て行った。
ふぅと一息つく。鏡の前で表情を取り繕ってみるが、いつものようにうまく行かない。どうしても不安が胸を渦巻いてしまう。
でも、メイドや使用人を困らせるわけにはいかないし、今日は八重樫先生のレッスンもある。しっかりしなければ。
勉強机に向かって、三枝先生に習ったことを復習することにした。
気づけば、朝食から2時間ほど経っており、使用人が呼びに来た。ピアノのレッスンである。
「では、先週に引き続き、子犬のワルツを弾いていきましょうか。まずは背景の復習です。ショパンは当時の恋人ジョルジュ・サンドが飼っていた子犬が自分の尻尾を追いかけてクルクルと走り回る様子を見て、この曲を思いついたと言われています。明るく楽しい平和な瞬間ですね。じゃあそこに自分の思いを乗せて弾いてみましょう!」
楽譜を置き、ピアノの世界に入り込む。犬がクルクル回るのを眺める素敵な休日の昼過ぎ……。恋人と微笑ましくそれを眺める。思わず顔が綻んでしまうような平和な……。
うまく感情が乗せられない。最近は神楽家でのレッスンがフラッシュバックすることなど無くなっていたのに。浮かんでいた子犬と芝生の風景にノイズが入り、ジョルジュ・サンドだと思っていた女性の声は鈴葉の罵声に変わる。細かく動く指が震え出し、いつ玄に演奏を止められるのか怯えていた頃のそれと重なる。
「琴葉様、ストーップ!」
八重樫先生の声で我に帰った。癖で、震える手を勢いよく引っ込めてしまう。
「大丈夫ですか?ちょっと何か飲みましょうか。」
ピアノの横の長机に置いてあるティーカップに紅茶が注がれる音がする。八重樫先生が淹れてくれたみたいだ。
「落ち着きましたか?段々と子犬のワルツが不穏になっていくのを感じたので、止めてしまいました。気分が合っていないのかもしれませんね。」
「も、申し訳ございません……。」
「謝ることではないですよ!僕だってうまく弾けないときもあります。人間誰だって常に感情を操れるわけじゃないんですよ。貴族だって、それは同じです。」
琴葉はその言葉にハッとする。
「それはそうと、今日から珀様は出張らしいですね。しばらく帰ってこないんだとか。」
「え、ええ。少なくとも1週間ほどは九州に滞在することになりそうだと……。」
「それは寂しいですね。ちょっと僕が弾いてもいいですか?」
寂しい、という単語が腑に落ちてしまった。自分は珀の隣にふさわしい人間ではないはずなのに。寂しいなんて思える立場にないのに。
そんなことを考えながらピアノの前を退く。
先生は鍵盤に指を置き、目を閉じて曲を紡ぎ始める。ショパンの「雨だれ」だ。なんとなく聴いていると、雨が降っている日に家にこもって雨音をバックに読書をするような落ち着いた雰囲気しか浮かんでこないが、先生の指が奏でる音符の一つ一つが心をざわつかせ、胸のあたりでぐるぐる渦巻いていた不安が水に溶ける絵の具みたいに暗い色を滲ませていくように感じた。
寂しいような、悲しいような、何か大切なものが流れ出してしまったような。右手が奏でる同じ音の繰り返しに、珀に対する大きな感情が存在感を増すのがわかる。
私でいいのだろうか、早く帰ってきてはくれないだろうか。駆け巡る思いに自然と涙が溢れた。
曲を弾き終わった先生は、ゆっくりと鍵盤から手を離し、音の余韻が消えた頃に話し始める。
「優れた音楽家ってだいたい英才教育の果てに出来上がるんですけど、僕は音楽ってそんな乱暴な使い方するものじゃないんじゃないかって思うんです。聞いている人を感動させたり、感傷に浸らせたり、元気にさせたりするのが音楽なんだったら、弾いている人もそうであってほしいじゃないですか。だから、弾かなきゃいけないじゃなくて、こう弾きたい、こんな思いに浸りたい、で弾いてもいいんですよ。」
八重樫先生らしい意見だ。言葉がすとんと心に落ちて響き渡る。
「私も、『雨だれ』を弾きます。」
弾きたいと思った。今の感情を乗せて弾いたら、考えていることが少しだけ整理できそうだから。
先生は大きく頷いて、ピアノの前から退いてくれた。
その日はレッスンが終わっても、日が暮れるまで繰り返し「雨だれ」を弾き続けた。
「神楽の恥と言われて育った出来損ないさん?あなた、宝条家に嫁ぐことになって、まるでシンデレラみたいね。でも、所詮あなたは貴族でも何でもない、無能力者。珀様とは不釣り合いにもほどがあるのよ。シンデレラは身の程を弁えて、またうちで下働きなさい。」
鈴葉の言っていることは正しい。琴葉は無能力者で、貴族教育もまともに受けてこなかった出来損ないだ。最近また貴族の勉強を始めたとはいえ、同年代の貴族令嬢に追いつくのはやはり難しい。
本当に私が宝条家に嫁いでいいのだろうか。鈴葉の言うとおり、鈴葉が婚約者の方が珀も幸せなのではないか。もともと自信などカケラも持ち合わせていない琴葉だが、さらに自分を信じることなどできなくなっていく。
「珀様、そんな女よりも公私ともに珀様をお支えできる私の方が、婚約者にはふさわしいと思いますわ!何か宝条家に策略がおありなのかもしれませんが、同じ神楽の娘である私なら、問題ないはずですわよね。」
鈴葉はこうも言っていた。宝条家の策略。やはりそうなのだろうか。私は何かに使われるために貰われただけで、婚約者とは名ばかりなのだろうか。嫌な考えばかりが頭を渦巻く。
いや、それでもいい、神楽から逃げられるなら使われてもいいと思ったから珀様についてきたんじゃないか。そう思い直す。
それに……。珀の行動は、嘘ではないと琴葉は思う。本心から、琴葉と一緒にいたいと思ってくれているのが、いつも伝わってくるのだ。
でも。珀が琴葉を好きでいてくれるとしても。これまでは、淡い期待を抱いた途端、玄や鈴葉に打ち砕かれてきた。雅との関係も、この間そうやって終わりを迎えたばかりだ。今回の宝条への嫁入りも、そうやって今までみたいに壊されてしまうのではないか。どこまで逃げても、あの家からは逃れられないのでは。
悪い方に悪い方にと考えてしまう。きっとそうではないと打ち消そうとしても、頭を侵食してくる。心臓が重くなって真っ黒い戸愚呂を巻くみたいな感じ。
考えてはだめだと思い、無理やり目を閉じてその日は眠りについた。
※ ※ ※
翌朝。結依が起こしにきた時には、すでに珀は家にいなかった。九州の方で魔形が大量発生しているため、戦力として討伐出張に向かったらしい。
せめて顔を見ることができたら、この不安も少しは落ち着くかもしれないのに、と思った琴葉は、でも仕事を頑張っている珀の迷惑になってはいけないと思い直す。
今日は雨だ。外に出る用事はないから関係ないが、まるで自分の気分をそのまま表しているようでため息が出る。
「本日は10時からピアノのレッスンがございます。いつも通り、30分前になりましたら、お部屋に呼びに参りますので、ご準備をよろしくお願いいたします。」
いつもは珀のぎっしり詰まった予定を淡々と並べる使用人も、今日は琴葉の分だけでよく、少し楽そうだ。一礼をして使用人が下がっていく。
朝食を食べ終え、部屋に戻る。
「琴葉様。」
他のメイドたちが退室したあと、結依だけが残って口を開いた。琴葉が結依の方へ向き直るとこう続ける。
「メイドが口をはさむことではないのかもしれませんが、お悩みごとがあるのでしょうか?最近、笑顔でいらっしゃることが多かったのに、今日は少し思い詰めた表情をなさっています。私たちには相談できないことかもしれませんが、何かできることがあればと思いまして……。今日の午後は三枝様のレッスンもないことですし、紅茶とお菓子をご用意して、ゆったりと休憩なさってはいかがでしょうか。」
貴族が感情を表に出すことはあまり良しとされていない。それなのに、メイドにまではっきりと不安が伝わってしまっている。驚いてオロオロする琴葉に、結依も少し戸惑いを見せる。
「申し訳ありません。私、出過ぎた真似をいたしました……。」
頭を下げる結依に琴葉は慌ててこう言う。
「そんなことありません。あなたが謝ることじゃないんです。紅茶とお菓子、お願いしてもいいですか?」
すると、結依はパッと顔を綻ばせて、精一杯頑張ります!と意気込んで部屋を出て行った。
ふぅと一息つく。鏡の前で表情を取り繕ってみるが、いつものようにうまく行かない。どうしても不安が胸を渦巻いてしまう。
でも、メイドや使用人を困らせるわけにはいかないし、今日は八重樫先生のレッスンもある。しっかりしなければ。
勉強机に向かって、三枝先生に習ったことを復習することにした。
気づけば、朝食から2時間ほど経っており、使用人が呼びに来た。ピアノのレッスンである。
「では、先週に引き続き、子犬のワルツを弾いていきましょうか。まずは背景の復習です。ショパンは当時の恋人ジョルジュ・サンドが飼っていた子犬が自分の尻尾を追いかけてクルクルと走り回る様子を見て、この曲を思いついたと言われています。明るく楽しい平和な瞬間ですね。じゃあそこに自分の思いを乗せて弾いてみましょう!」
楽譜を置き、ピアノの世界に入り込む。犬がクルクル回るのを眺める素敵な休日の昼過ぎ……。恋人と微笑ましくそれを眺める。思わず顔が綻んでしまうような平和な……。
うまく感情が乗せられない。最近は神楽家でのレッスンがフラッシュバックすることなど無くなっていたのに。浮かんでいた子犬と芝生の風景にノイズが入り、ジョルジュ・サンドだと思っていた女性の声は鈴葉の罵声に変わる。細かく動く指が震え出し、いつ玄に演奏を止められるのか怯えていた頃のそれと重なる。
「琴葉様、ストーップ!」
八重樫先生の声で我に帰った。癖で、震える手を勢いよく引っ込めてしまう。
「大丈夫ですか?ちょっと何か飲みましょうか。」
ピアノの横の長机に置いてあるティーカップに紅茶が注がれる音がする。八重樫先生が淹れてくれたみたいだ。
「落ち着きましたか?段々と子犬のワルツが不穏になっていくのを感じたので、止めてしまいました。気分が合っていないのかもしれませんね。」
「も、申し訳ございません……。」
「謝ることではないですよ!僕だってうまく弾けないときもあります。人間誰だって常に感情を操れるわけじゃないんですよ。貴族だって、それは同じです。」
琴葉はその言葉にハッとする。
「それはそうと、今日から珀様は出張らしいですね。しばらく帰ってこないんだとか。」
「え、ええ。少なくとも1週間ほどは九州に滞在することになりそうだと……。」
「それは寂しいですね。ちょっと僕が弾いてもいいですか?」
寂しい、という単語が腑に落ちてしまった。自分は珀の隣にふさわしい人間ではないはずなのに。寂しいなんて思える立場にないのに。
そんなことを考えながらピアノの前を退く。
先生は鍵盤に指を置き、目を閉じて曲を紡ぎ始める。ショパンの「雨だれ」だ。なんとなく聴いていると、雨が降っている日に家にこもって雨音をバックに読書をするような落ち着いた雰囲気しか浮かんでこないが、先生の指が奏でる音符の一つ一つが心をざわつかせ、胸のあたりでぐるぐる渦巻いていた不安が水に溶ける絵の具みたいに暗い色を滲ませていくように感じた。
寂しいような、悲しいような、何か大切なものが流れ出してしまったような。右手が奏でる同じ音の繰り返しに、珀に対する大きな感情が存在感を増すのがわかる。
私でいいのだろうか、早く帰ってきてはくれないだろうか。駆け巡る思いに自然と涙が溢れた。
曲を弾き終わった先生は、ゆっくりと鍵盤から手を離し、音の余韻が消えた頃に話し始める。
「優れた音楽家ってだいたい英才教育の果てに出来上がるんですけど、僕は音楽ってそんな乱暴な使い方するものじゃないんじゃないかって思うんです。聞いている人を感動させたり、感傷に浸らせたり、元気にさせたりするのが音楽なんだったら、弾いている人もそうであってほしいじゃないですか。だから、弾かなきゃいけないじゃなくて、こう弾きたい、こんな思いに浸りたい、で弾いてもいいんですよ。」
八重樫先生らしい意見だ。言葉がすとんと心に落ちて響き渡る。
「私も、『雨だれ』を弾きます。」
弾きたいと思った。今の感情を乗せて弾いたら、考えていることが少しだけ整理できそうだから。
先生は大きく頷いて、ピアノの前から退いてくれた。
その日はレッスンが終わっても、日が暮れるまで繰り返し「雨だれ」を弾き続けた。