デート当日である。朝、メイドが琴葉を起こしに来た時には、すでに使用人たちがバタバタと準備に追われているようだった。

琴葉の専属メイドとなっている桜井結依(さくらいゆい)が、昨日の夜湯浴みの時のマッサージや上がった後のスキンケアなどなど、いつも以上に念入りにやってくれた。彼女いわく、

「デートの前日なんだから全力で綺麗になっていかないといけません!」

だそうだ。長年メイクなどさせられなかった琴葉にはあまりそういう意識はないが、確かに珀の隣を歩くのに髪の毛がパサついていたり、肌が荒れていたりするのは良くないだろう。

白のブラウスに黒の大きなボウタイ、黒ベースのスカートにパールがついたパンプスというコーデ。結依に手伝ってもらいながら着る。黒髪ストレートをコテで数人のメイドが一生懸命巻いてくれ、最終的にはエレガントな編み込みハーフアップが完成していた。

結依を始めとするメイドたちが一気に笑顔になる。

「わぁぁ!!琴葉様、お綺麗です!珀様もきっと卒倒してしまいます!」

結依の言っていることはちょっとよくわからないが、全身鏡を見てみると、神楽の家にいた頃とは比べ物にならないくらい綺麗になっていることが自分でもわかった。おめかしってこんなに重要だったんだ……などと考えていると、

「琴葉、車の準備ができているが、そろそろ行けそうか?」

扉の外から珀の声が聞こえてくる。

「すぐに参ります。」

使用人がドアを開けてくれる。仕草に気をつけながら部屋を出ると、そこにはスーツを着た珀が。オフィスに出向く時とは違い、髪型がラフにセットされているその姿に、目を奪われてしまう。

一方、珀は珀で、琴葉の美しさに呆けていた。

「珀様……?」

琴葉が声をかけると、珀はハッとする。

「綺麗だ、本当に。外に出したくないな。」

そう言って琴葉を腕に閉じ込める珀。琴葉は耳まで赤くなって照れてしまう。そんな2人を周囲のメイドや使用人たちが微笑ましく見守っていた。

珀のエスコートで車に乗り、街へと繰り出す。琴葉は、神楽にいた頃は基本本家から出ることはなく、街にお出かけに行くなど鈴葉と仲の良かった幼少期までしかあり得なかった。だから、今回のデートに胸を踊らせている。

街に詳しくない琴葉のために、珀がデートプランを組んでくれた。最初は何をするんだろうとワクワクしていると、車が止まったのは、とある携帯ショップだった。

珀に手を差し伸べられて車を降りる。あたりを見回すとすでに宝条の護衛が何人かいるのが見えた。私服だが、珀の家でたまに見かけるので護衛だとすぐにわかる。

なぜ携帯ショップ?と頭の中がはてなだらけになるが、珀がずんずんと店の中に入っていくので、黙ってついていく。

「予約していた宝条だ。」

「宝条珀様でございますね。宝条琴葉様のスマートフォンのご契約でよろしいでしょうか。」

どうやら、琴葉のスマホを買うらしい。宝条の苗字に自分の名前がついているのが聞き慣れず、ドギマギしてしまう。

「は……珀様。私、スマートフォンなど……。」

「護衛と連絡がつくようにした方がいい。他にも色々便利だぞ。」

「で、ですが、お金が……。」

「琴葉はよくお金を気にするな。宝条が金銭面で困ると思うか?黙ってもらっておけ。」

珀が笑いながら言う。流されるがまま、スマホをゲットしてしまった。設定などを店員の説明の通りに進めて、その他の契約などはいつの間にか店に来ていた隼人に任せ、また車に乗り込む。

「いや、デートの最初に携帯ショップはちょっとセンスがないかと思ったんだがな、本人が直接出向いた方が契約しやすいのと、ちゃんと自分で色を選んでほしかったんだ。あと、写真も撮れるだろ?」

恥ずかしそうに珀が捲し立てる。琴葉はくすっと笑う。

「ありがとうございます。写真、たくさん撮りますね。」

新品のスマホを開いて、早速写真の機能を使おうとするが、よくわからない。あちらこちらを触ってみるが、さっぱりだ。見かねた珀が聞いてくる。

「何を使いたいんだ?」

「写真を……。」

それはな、と言ってカメラのアプリをタップする珀。

「この白いボタンを押せば、撮れる。」

琴葉はさっとスマホで珀を写し、白いボタンを押した。カシャッという音とともに珀の美貌が保存される。それをタップすると画面全体に珀が広がって思わず口元が緩んだ。

「おいおい、車の中の写真撮ってどうするんだよ……。」

呆れた顔でそう言うのは、きっと恥ずかしいからだ。琴葉は最近、珀の細かい感情の動きがわかるようになってきた。

次に車が止まったのは、ショーウィンドウにドレスが並ぶ服屋である。

「なんというか……。事務的な用事ばかりですまない。いずれ社交界などで必要になると思ってな。琴葉のドレスをいくつか用意したい。」

私が口を開きかけると、遮るように珀がこう言う。

「遠慮するな。今、謝ろうとしただろう?申し訳ないなんて思わなくていいんだ。琴葉のドレス姿、きっと綺麗だと思うから。」

驚いて何も言えなくなってしまう。どうしてこうも、この人は自分が欲しい言葉を言ってくれるんだろう。

店に入ると、落ち着いた雰囲気の素敵な空間が広がっていた。

「あら、宝条家のお坊ちゃん、いらっしゃい。そのお嬢さんは……?」

上品な年配の女性が対応してくれる。多分店主だろう。珀いわく、この店は宝条家が代々懇意にしている服屋であり、センスのいいものを提供してくれるらしい。

「婚約者だ。琴葉と言う。今日は琴葉のドレスを見繕って欲しくてだな。」

店の奥に通され、採寸やら色合わせやら色々させられている間、珀は別の部屋に連れて行かれたようだった。不思議に思っていると、いつの間にか採寸は終わっており、気づけば目の前にいくつもの布が並んでいた。どれも綺麗な刺繍が施されている。全体的に色は暗めだが。

「似合うだろうな。」

ぼそっと呟く低い声が聞こえ、思わず振り返ると、珀が部屋に入ってきていた。

「いくつご用意いたしましょう。これらの布で仕立てることを考えているのですが……。5〜6着でよろしいですかね?」

「いや、10着ほど欲しい。一つは急ぎだ。1週間ほどで仕立てて欲しいのだが、可能か?他はでき次第屋敷に届けてほしい。」

「承知いたしました。10着となると、もう少し色を増やした方がいいかもしれませんね。こちらの布も使いましょう。」

そんなこんなで、無事10着のドレスを注文することができたのだが、貴族にとっては当たり前の大人買いに、琴葉は頭がパンクしそうになっていた。1着でも高価なドレスである。それを10着一気に注文して、しかも1つは特急料金である。珀、というよりもはや宝条全体に申し訳なく思えてきてしまう。

店頭まで戻り、珀が会計を済ませている間、並んでいるアクセサリーを眺める琴葉。琴葉とて1人の女性である。綺麗なアクセサリーが欲しいと思う気持ちは当たり前にあるはずなのだ。だが、これまでは環境がその望みを叶えることを許さなかった。だから、欲しいという気持ちをひた隠しにして生きてきた。結果、宝石などを見ても、綺麗だなと思うだけで、すぐに諦念が出てきてしまう。今もそうだ。

「欲しいのか?」

珀が声をかけてくるが、琴葉は首を振る。自分の本当の気持ちを偽り続けると、どう思っているのかわからなくなってしまうのが人間である。

珀がニヤッとして、ポケットから何かを取り出す。

「これ、渡そうと思っていたんだが、いらないか?」

珀の手のひらのケースには、ブラックパールのイヤリングが入っていた。とても美しいもので、大人びた雰囲気のものだ。

「いただけるのですか……?」

遠慮がちに言葉を紡ぐ琴葉。珀はまたニヤリと笑う。

「お前が欲しいと言ったら、な。」

「そんな……。」

数秒の沈黙。珀がこちらを見つめてくる。言わせようとしてくる。

「欲しい……です……。」

圧に押し負けてしまった。自分が美形なのを自覚して欲しい。

本当の気持ちなど今の琴葉にはわかりやしないが、珀からのプレゼントが欲しいのは確信を持てる。素直に嬉しかった。

珀がイヤリングをつけてくれる。

「まあ!本当に黒がお似合いになりますね、琴葉様。ドレス姿が楽しみですわ。」

近くで見ていた店主にそう言われ、恥ずかしさで赤面してしまう。最近出会う人はみな、琴葉を喜ばせるのがうまいらしい。

店を出て、車に乗り込む。もちろん、イヤリングはつけたまま。

「次は昼食だ。やっとそれらしいところに連れて行ってやれる。」

車が入って行ったのは、高級ホテルの駐車場。ガードマンが恭しく対応してくれ、最上階へと連れて行かれる。

「いらっしゃいませ、宝条家次期当主様。婚約者様。本日はオ・レストラン・デュ・シャトーにお越しいただき、ありがとうございます。」

仕切られた、ほぼ個室のようなテーブルに案内される。窓際で、東京の景色を一望できる素敵な席だ。周りに一般客がいないため、席の札を確認すると、貸切と書かれている。思わずギョッとした。

幼い頃は、神楽家長女として、こんな高級ホテルで食事をしたこともあった。しかし、貸切で利用したことはない。流石は宝条の次期当主である。

フレンチのコース料理が、次々と運ばれてくる。琴葉は、三枝先生に習った食事のマナーに気をつけつつ、珀が選んでくれたから、としっかり味わって食べていた。

「素敵な場所ですね。お料理もとても美味しいです。」

なんだか当たり障りのない感想しか出てこなくて、己の表現力の乏しさに呆れる。しかし、この言葉だけでも珀を喜ばせることには成功したようで、口角が少しだけ上がったのが見えた。

「そうか。もしかしたら、昔のことを思い出させてしまうんじゃないかと思って、迷ったんだが……ここにしてよかった。」

琴葉はハッとする。気を遣わせてしまっていたらしい。

「私は大丈夫です。申し訳ありません。」

「いや、謝らなくていいんだ。琴葉は何も悪くない。むしろ、話に出した俺が悪かった。嫌な記憶は俺が何度でも塗り替えよう。」

その言葉は焦った声で紡がれているのに、なぜか説得力があるように聞こえた。走馬灯のように、過去の記憶が蘇ってくる。でも、嫌なフラッシュバックではない。今、私は確かにここにいるんだ、そう感じさせるような安心感。

熱いものが頬を伝って落ちたことに気づいた時には、もうそれは止められなかった。

さらに焦った顔で珀が謝ってくる。

「違うんです、違うんです……これは……。」

ここは高級レストラン。貸切とはいえ、外である。涙を流すなんてみっともない、早く止まれ、とそう思うのに、全く止まってくれない。

「ごめんなさい、ごめんなさい。」

それは、涙が止まらないことに対する謝罪なのか、珀に気を遣わせたことに対する謝罪なのか、琴葉自身もよくわからなかった。ただ、幼児のように泣きじゃくった。

次の料理を運んできたウェイトレスが、空気を察して一度厨房に戻ったのが視界の端に映ったが、それでも涙は止まらなかった。