徐々に蒸し暑くなってきた。防音室は暑くなりやすいので、クーラーを入れて使うことが増えてくる。

絶対音感がある八重樫先生は、クーラーをつけると、ここのクーラーの音はラのフラットだね、なんて言っていた。

今日も三枝先生による社交のレッスンと、八重樫先生によるピアノのレッスンを終え、夕食までの時間、防音室にこもることにした琴葉。珀は今日はオフィスで仕事をしているため、夕食までは帰ってこない。

ピアノに向かう時も、仕草の一つ一つに意識を向けながら、三枝先生に習ったことを意識する。出す音色は八重樫先生のそれを意識しながら。

すると、チャイムが鳴る。防音室にいては外からの音があまり聞こえないため、使用人やメイドがチャイムを鳴らして呼ぶことになっているのだ。

慌てて扉を開ける。もちろん、仕草への意識は忘れずに。

「琴葉様、練習中に失礼いたします。珀様がお戻りになられました。夕食もできております。」

その日の夕食は和食だった。いつも温かくて美味しい食事を食べられることが、琴葉はいまだに信じられないでいる。

「琴葉、来週の土曜日なんだが、俺の両親と会ってくれないか?」

突然、珀がそんなことを言い出した。

「父がどうしてもお前に会って話したいらしくてだな、その日なら俺も両親も予定が合いそうなんだが……。」

「承知いたしました。ですが……、まだお勉強を始めたばかりで、貴族らしい行動や会話がうまくできるか……。」

琴葉は自然と不安が顔に出てしまう。珀がそんな琴葉を安心させるように微笑む。

「そんなことはみんなわかっているさ。それに、俺の両親は結構緩い人だから問題ない。では、来週土曜日は本家に向かおう。」

隼人がさっと動くのが見える。当主夫妻に連絡しに行くのだろう。

珀いわく緩い人だそうだが、日本を引っ張る宝条の現当主夫妻である。次期当主の嫁にふさわしくないと言われてしまうかもしれない。来週の土曜日まで時間はあまり残されていないが、できることをやって、少しでも成長しなければ……。

翌日、三枝先生のレッスンでこのことを伝えると、

「あら、では、それが最初のお披露目ですね。1ヶ月弱のレッスンの成果をそこで披露するつもりで、土曜日までそれを目標にレッスンを進めましょうか。」

と言われ、緊張でガチガチになってしまった。

「琴葉様、土曜日に成果を披露する、と申しましたが、そこまで緊張する必要はございませんよ。宝条の現当主様と奥様はお優しい方ですから。」

皆、現当主夫妻は優しいと言う。だが、どうしても厳格な夫婦を想像してしまって、緊張してしまうのだ。

※ ※ ※

当日がやってきた。緊張で寝れなかったせいか、それとも朝早かったせいか、心なしか眠気が残っている琴葉だが、車で珀とともに宝条の本家へと向かった。

ピリッとした感覚になった次の瞬間、和風の庭園の中で伸びている道路に入る。不思議そうな顔をしている琴葉に、珀が少し笑う。

「今、ピリッとしただろう?宝条の結界の中に入ったんだ。」

「え……?では、ここはもう本家の敷地なのですか?」

「ああ。だが、今日顔を合わせる部屋はもう少し奥だ。」

規模の大きさに琴葉は驚きを隠せない。神楽の本家もそれなりに広かったが、宝条には遠く及ばない。余計に緊張してしまう。

「ついた。そう緊張するな、ほら。」

車はこれまたとてつもなく広い屋敷の前に止まった。珀はそう言ってエスコートしてくれる。

本家の使用人たちが玄関前に勢揃いしていた。

「お帰りなさいませ、坊っちゃま。一史様と奥様は椿の間でお待ちです。」

途端、珀が少し赤くなる。

「おい、人前で坊っちゃまと呼ぶな。珀でいいだろう。」

その恥ずかしがる姿は年相応のあどけないもので、琴葉の緊張も少しほぐれたのだった。

珀についていき、椿の間と書かれた部屋の前まで来る。琴葉は頭の中で自己紹介の言葉を反芻する。すると、優しい顔で珀が後ろを振り返った。

「心の準備はできているか?」

緊張はするが、今更後戻りなどできない。

「ええ。大丈夫です。」

うなずいた珀はふすまの向こうに声をかける。

「失礼します。」

「入りなさい。」

柔らかい声が聞こえてくる。現当主宝条一史(ほうじょうひふみ)だろう。

珀、琴葉の順で入室する。珀がそっと琴葉の背中を押す。

「父さん、母さん、こちらが琴葉さんです。」

琴葉は、練習してきた自己紹介を口に出そうと、少し息を吸う。

「お初にお目に……」

「あらあら、かわいらしいお嬢さんじゃない!あなたが珀くんをメロメロにしたっていう女の子ね?琴葉ちゃんって呼んでもいいかしら?」

遮られてしまった。

「うんうん、珀くんは全く女の子に興味がないんだと思っていたが、見る目があるね。初めまして、僕は宝条家現当主の宝条一史だ。よろしくね。」

なんと言うか、ふわふわしている。ガチガチに緊張していた琴葉だったが、一気に解けてしまった。

呆れた顔の珀が少し進み出る。

「父さん、母さん、琴葉が全く喋れていません。びっくりしてますから、そのくらいにしてやってください。しかも、母さん名前言っていませんし……。」

「あら〜!そうだったわ、ごめんなさいね、私は宝条家現当主の妻、宝条穂花です。よろしくね。」

穂花(ほのか)はかわいらしく、柔らかい雰囲気の人物だった。一史はこの親にしてこの子あり、というべきか、とても綺麗な顔立ちである。

「お初にお目にかかります、一史様、穂花様。この度、珀様と婚約させていただくこととなりました、神楽家長女、神楽琴葉と申します。何卒よろしくお願い申し上げます。」

三枝先生に習ったことを意識して丁寧に挨拶する。うまくできているだろうか、何か間違っていないだろうか。

顔を上げると現当主夫妻がニコニコしているのが見えた。

「いやぁ、貴族教育が小学校で止まっているって聞いていたけれど、しっかりしているね。安心安心。勉強でみんなに追いつくのは大変だと思うけど、無理せず頑張ってね。」

「家庭教師の先生や音楽の先生をつけてくださって感謝申し上げます。しっかり勉強して、珀様の隣に立てるように努力いたします。」

そこからしばらくは珀と一史が中心となって会話が進められる。琴葉はたまに話を振られてそれに答えるくらい。途中、政治の話になった時はあまり理解ができず、微笑んでなんとかその場をやり過ごすしかなかった。

一通り会話をして、お開きになる。挨拶をして、珀とともに椿の間をあとにした。

「琴葉ちゃん、宝条の次期当主を支えるのは想像している以上に大変なことだ。でも、琴葉ちゃんならきっとできる。期待しているよ。あと、無能力者だからって神楽の力を磨くのは怠らないようにね。音楽はいつか君を助けてくれるはずだから。」

最後に一史の言葉が一体何を意味しているのか、琴葉にはわからなかった。珀に聞いてみようとも思うが、自分で考えた方がいいような気がして言い出せない。

いずれにせよ、今の琴葉では宝条に嫁ぐのは難しいということだろう。今日も緊張で仕草が固くなってしまった。指の先まで意識は忘れずに、でももっと滑らかに。身動き一つ取っても課題が多そうだ。琴葉は己の実力不足を痛感したのだった。

ふと顔を上げると、先ほどとは違う廊下を歩いているようだ。すぐに帰るつもりだと思っていたのだが、珀はどこかに寄るつもりなのだろうか。

「あ、あのぅ、珀様……?帰るのではないのですか?」

「いや、寄りたいところがあってだな、ついてきてくれるか?」

なんだろう……?と思いつつ、ついていく。

「わあ……!綺麗……。」

思わず、感想が溢れてしまった。縁側から見えたのは、車で通った庭園とはまた別の中庭である。真ん中に池があり、ピンクと白の睡蓮が水面を覆うように咲き誇っている。

「ここに立ってくれ。」

珀の声にハッとする。置いてある下駄を履いて、中庭に降り立った。すると珀は縁側の方に戻ってしまう。何がなんだかわからないまま首を傾げていると、珀がスマホを出して琴葉の写真を撮り出した。睡蓮を背景にして。

「これが見たかったんだ。琴葉には睡蓮が似合うと思ってな。急に連れてきてすまない。」

「いえ、とっても綺麗です!見れて嬉しい……。」

珀は、そうか、と呟くように言って下駄を履いてこちら側に降りて来た。

「最近はよく笑うようになったな。」

「それは……。そうだとしたら、珀様のおかげでございます。」

照れてしまう。そんなことをド直球で言わないで欲しい。いや、言ってほしくもある……。恥ずかしさで珀を見れず、睡蓮の方を見る。本当に綺麗だ。

「琴葉」

名前を呼ばれ、振り返る。仕草には気をつけながら。すると、珀が目を伏せているのが見えた。

「……。再来週、デートに行かないか?」

最初、言葉が意味を成さず思考停止してしまったが、急に理解して顔が熱くなる。

「え、ええ……。私でよろしければ……。」

ふっと珀が笑う。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。慌てて自分の行動と言動を振り返っていると、

「一緒にデートに行く相手などお前以外にいない。」

と笑いながら言われてしまった。さらに顔が火照るのがわかる。耳まで赤くなっていそうだ。それすらも恥ずかしい。

こうして、突然、初めてのデートが決まった。

その日は一史に言われた言葉を反芻しながら、珀とのデートのことを考えているだけで、時間が過ぎていく。琴葉にとってはかなり珍しく、いろんなことがあった忙しい1日だった。