男はゆっくりとこちらに近づき、八巻のすぐ背後まで来ると、蛍光灯に照らされ、その装いを露わにした。
身長は一八〇センチほどだろうか。黒いパーカーに、ナイロン生地の黒ズボン。手に握られた拳銃は、どこで入手したのかは不明だが、警察で使われているものと同じだ。こんな不審人物が警察署に入ってくれば、立番が止めるはずだが、侵入してきているということは、何かとんでもないことが起きているに違いない。
そして一番不気味なのが、豚の被り物。鋭い目つきをしたその豚の顔には、所々に血痕がある。本物なのか、デザインなのかは不明だが、皆の恐怖心を掻き立てる材漢字料となっている。
「いいか、黙って聞くんだ」
八巻の後頭部に、拳銃が突きつけられる。真後ろに立たれているため、八巻は男の装いが見えていない。必死に首を捻り、視界の端にその姿を映そうとするも、動くな、と制される。ボイスチェンジャーで声は変わっているものの、その奥には冷たさのようなものが感じ取れた。
一触即発の状況に、誰もが口をつぐんでいる。さすが警察官と言われるような冷静さを、その場の誰もが保とうとしていた。八巻は、銃口を突きつけられながらも、目を閉じて心を落ち着かせに入っている。胡桃沢や一倉も、本当は叫びたいところなのだろうが、わずかな刑事の矜持により、それをグッと堪えていた。
「俺の目的はただひとつ。『墨田・葛飾女性連続殺傷事件』の犯人による自供だ」
墨田・葛飾女性連続殺傷事件。
つい先ほど、被疑者が逮捕されたばかりだ。容疑を全面的に認め、すでに自供している。明日の昼には送検されるだろうとのことで、帳場を畳んでいたところだ。今日の夕方のニュース番組では被疑者の顔と名前が公表され、犯行動機も明らかとなり、世間から注目を浴びている。
男の目的は、すでに果たされているはずだが――。
「逮捕された大丸和臣は、犯人ではない」
男の言葉に、場の空気が一変した。
百合江も、背筋が凍るような感覚を覚えた。喉が異常に渇く。
全員の頭の中に、最悪の四文字が浮かんだ。
「誤認逮捕……とでも言いたいのか?」
大賀が、虚空を見つめたまま言った。
「その通り」
「フッ、何をバカなっ」大賀が、嘲るように鼻を鳴らす。「大丸と被害者の関係は明らかで、今回の殺害動機にも直結している。凶器だって、大丸の自宅から見つかっているんだ」
大丸と被害女性三人は、十五前のとある事件でも、被疑者と被害者という立場にあった。とは言っても、これこそ誤認逮捕で、実際には大丸が被害に遭っていた側だった。
十五年前、大丸は土木関係の仕事に就きながら町内会に参加し、地域というコミュニティにかなり溶け込んでいた。被害女性三人とは、そのコミュニティで知り合った。
その頃はまだ三十そこらで、独身男性ということもあってか、奥様方からチヤホヤされたり、年寄りからもかなり可愛がられていた。もちろん、子どもたちからも人気で、当時小学生から中学生だった被害女性三人も、大丸にかなり懐いていたという。
しかし、悲劇は突然訪れた。
その日、夕方に仕事を終えた大丸は、町内会集会に参加するため、まっすぐ家に帰った。風呂に入り、束の間の休息をしていたところを、突然警察が家に押し入ってきたのだ。
容疑は、未成年に対するわいせつ行為。母親と共に警察を訪れた中学生が、大丸から金銭を受け取り、その代わりに体を触られたと訴えたらしい。そして、それに便乗するように、あとの二人も親と共に声を上げたという。
大丸は無実だった。しかし、話を聞き入れてもらえず、翌日には逮捕された。小さなウェブニュースには実名と顔を晒され、職を失ったが、最終的には不起訴処分となった。
三人が、嘘をついていたことが発覚したからだ。動機は、大丸に小遣いをせびったのに断られたから、という何とも幼稚なものだった。
今回の事件は、子どもたちの手によって奈落の底に叩き落とされた、大丸による復讐劇――そう考えられている。本人も「社会に出て働く彼女たちの姿を見て、あの時の怒りが蘇り、殺意が湧いた」と供述したため、犯人は大丸で間違いないだろうと断定している。
「大丸和臣は、誰かを庇っている。それは間違いない」
男の言葉は確信に満ちていた。
――ただの悪戯とは思えない。
「……わかったわ。あなたの言うことを信じましょう」
百合江が静かに答える。他の九人は、何を言っているんだ、と言わんばかりの表情を百合江に向けた。
「でも、ひとつ気になることがある」百合江は深く息を吸い込み、男をじっと見つめる。「あなた、大丸和臣の何? 彼は親や兄弟もいなければ、妻や子もいない。交友関係だって、ほぼ白紙に近かった。じゃあ……、大丸の無罪を主張するあなたは、いったい誰?」
男は黙り込んだ。
豚の目に空けられた穴から、射抜くような視線が百合江に向けられる。そして、おもむろに口が開かれた。
「……その問いに答える義理はない」
「じゃあ、あなたに協力はできない。変な被り物をして、素性を明かそうとしない相手をどう信用しろって言うの?」
百合江の言うことはもっともだった。しかし、変に相手を挑発し、引き金を引かれるようなことだけは避けなければならない。さもなくば、八巻の頭がふっ飛んでしまう。
「本気で大丸を助けたいのであれば、素性を明かして。こんなやり方ではなく、真正面から向き合うべきよ」
百合江の言葉に、明らかに動揺した様子が見てとれた。八巻の後頭部に当てられていた銃口が下される。
一瞬、空気が弛んだ。
「そんなもの、意味がない」
冷めきった声。弛んだ空気を切り裂くように、放たれた。
そして、八巻の襟元を荒々しく掴むと、今度は先ほどよりも強い力で銃口を押し付けた。
「真犯人は、この中にいる」
男の言葉は、その場にいる刑事たちの顔を凍らせた。そんな話はあるわけがないと思いながらも、全員が全員、周囲に疑惑の目を巡らせている。重苦しい沈黙が、室内を支配する中で、男は言葉を続けた。
「いまからお前たちにはゲームをしてもらう。真犯人を、この中から炙り出すんだ」
「そそそ、そんなっ……、僕たちは警察だっ! この中に真犯人なんているはずないだろぉ!?」
それまで恐怖に震えていた一倉が、声を振り絞って反論した。すると、男は冷たく笑い、銃口を八巻から一倉へと向けた。一倉はたじろぎ、手錠が掛けられた手で、自分を守るように顔を覆った。
「ひ、ひぃっ……!!」
「黙ってろ」
「わわわっ、わかった!」
表情こそ見えないが、八巻へと銃口を戻す男の仕草は、一倉に呆れているように見えた。
「では、ルールを説明する――」