「――……さんっ! ――……っ! 百合江(ゆりえ)さんっ!!」

 百合江詩帆(しほ)は、誰かの懸命な呼びかけにより、手放していた意識を取り戻した。
 まだはっきりとしない視界の中で、百合江の目に映ったのは、眉を八の字にした子犬のような青年。目が覚めたことに気づくと、安堵の表情を浮かべたが、それは刹那、一瞬上げられた眉毛はふたたび下がる。

「百合江さん、大丈夫ですかっ」
「……庄司(しょうじ)くん?」

 庄司草太(そうた)。捜査一課の刑事で、今回の事件で百合江と地取り捜査を共にしたバディだ。何もない平面の道でつまずいたり、目が離せないほどおっちょこちょいな一面はあるものの、捜査一課というだけあって頭脳は優れていた。今回の犯人に繋がる糸口を掴んだのも、彼だった。
 帳場を畳み終えたら、一軒ご馳走しよう。
 そう思っていたはずなのに――。

「何……これ」

 徐々に鮮明になっていく視界の中で、百合江は自分が椅子に括り付けられていることに気がついた。被疑者や被告人に付けられるような腰縄、その余った部分が椅子と絡まり、きつく縛られている。手首には手錠がかけられており、足首も椅子の脚に固定され、自由に身動きが取れない状況だ。
 無意味とわかっていながらも、微かな望みにかけて身を(よじ)らせてみる。――だめだ。
 冷静になって辺りを見渡す。どうやら、庄司の他にも八人、百合江と同じように拘束された者が輪になって座らされているようだ。それも、全員が全員、今回の捜査本部に名を連ねていた捜査員たちで、つい先ほどまで共に帳場の撤収作業についていたメンバーだ。ということは、ここは帳場が立っていた我が墨田中央署の会議室だろう。照明は百合江たちだけを照らすように、部屋中央のものだけが点灯している。そのため周囲の状況は確認しづらいが、かろうじて近くの壁に長テーブルとパイプ椅子が寄せられているのが見えた。
 ちょうど向かいの席には、百合江と同じ墨田中央署の八巻(やまき)大輔(だいすけ)もいる。

「おぉい嬢ちゃん、やっと起きたか」

 いつもであれば、その悪意しかないであろう「嬢ちゃん」呼びに百合江が突っ掛かり、二人の仲裁に班長の早瀬(はやせ)(じゅん)が入るのだが――百合江が見渡す限り、彼の姿は見当たらない。

「残念だったな。お前がだ〜いすきな早瀬班長はここにはおらんぞ」
「別に、そんなんじゃ」

 こんな状況で言い合うことに、何のメリットもない。言い返したい気持ちを抑えつけ黙り込むと、八巻は勝ち誇ったように鼻で笑った。

「あ、あのぅ……」

 一瞬静まり返った空間に、か細い声が響く。
 周囲の顔色を窺いながら声を上げたのは、今回初めて捜査本部に参加したという、西葛飾署の胡桃沢(くるみざわ)かこだ。重大事件の捜査だというのに、おじさん刑事たちは彼女と目を合わせるたびに鼻の下を伸ばしていた。女刑事を毛嫌う八巻でさえも、胡桃沢に対しては態度が軟化していたように思える。
 そんな彼女が発言を始めようとしているのだから、視線はそちらに集中する。一斉に向いた視線に肩を震わせながらも、胡桃沢は言葉を続けた。

「百合江さんも目を覚ましたことですし……ここから脱出しませんかっ?」
「フッ……脱出なんて、する必要ないでしょ」

 小馬鹿にするように鼻を鳴らしたのは、機動捜査隊から捜査本部に参加していた、辻崎(つじさき)涼香(すずか)だ。胡桃沢のふわふわな雰囲気とは反して、かなりとげとげしい。
 胡桃沢は辻崎の態度に気圧されると、肩を落としそのまま黙り込んでしまった。そんな二人に挟まれるように座っていた一倉(いちくら)春樹(はるき)は、胡桃沢に慰めるような、妙にねっとりした声で「かこさん、気にしなくていいからね」と囁いた。

「きっも」

 辻崎は、冷めた視線を一倉に送った。
 それもそうだ。
 二人は機動捜査隊でも、今回の捜査本部でも、バディを組んでいる。それなのに、ぽっと出の若い女刑事の味方をする一倉が、辻崎にとっては気に入らないのだ。一倉はイケメンでも優秀でも、スタイルが良いわけでもないが、だからこそ、余計に腹が立つのだろう。
 辻崎は、一倉の腰縄に乗った肥えた腹を見て、舌打ちをおまけにそれ以降は口を閉ざした。

「僕は、辻崎さんの言う通りだと思いますけどね」

 いまにでも静電気が流れそうな空気の中、ふと口を開いたのは小埜寺(おのでら)秀介(しゅうすけ)だ。
 小埜寺刑事局長の息子でキャリアコースまっしぐらな彼は、年齢的には最年少だというのに、警部補という階級に位置づいている。なぜか今回の捜査本部に参加したいと立候補をしたらしい。大人しくしていても、未来は約束されているというのに。

「俺も、辻崎に一票だ」

 小埜寺に続くように言ったのは、捜査一課で小埜寺の教育係を担っている、大賀(おおが)義之(よしゆき)だった。検挙率ナンバーワン刑事(デカ)と言われており、ノンキャリアの中でも出世コースの軌道に乗っている、数少ない精鋭だ。

「胡桃沢、」居心地悪そうに身を縮めた胡桃沢に、(もり)孝太郎(こうたろう)が声を掛ける。「ここは警察署だから、脱出せずとも誰かしらが助けに来てくれる。いまは不安だろうけど、きっと大丈夫だよ。ねっ?」

 森の下心のない優しい声色に、胡桃沢は小さく頷いた。二人は西葛飾署の刑事で、普段は同じ班の所属だ。百合江と八巻のように火花が飛び散るような関係性ではなく、かなり穏やかな関係を築けているのが、二人の様子から窺えた。

「とにかく、助けを呼びましょう。叫べば、気づいてもらえるかもしれない!」
「そうですねっ」

 庄司、小埜寺、大賀と同じく、捜査一課所属の瀧上(たきがみ)廉也(れんや)の提案に、隣に座っていた庄司が乗っかる。
 誰かー! 助けてくれー! おーい!
 何の恥じらいもなく叫び始めた二人に、胡桃沢、一倉、森の三人が突き動かされるようにSOSの言葉を口にする。八巻はそんな光景を馬鹿らしく感じたのか、呆れたような表情を見せた。小埜寺と辻崎も、必死に叫ぶ五人を冷めた表情で見つめている。大賀だけが、この状況をどう打開すべきかを冷静に思案しているようだった。
 百合江は、そんな九人を景色のように眺めていた。なぜ自分たち警察官が、こんな場所に拘束されているのか。どれだけ掘っても、気を失う直前の記憶が出てこない。このメンバーで帳場の撤収作業に取り掛かっていたことだけは覚えている。
 思い出せ、思い出せ――。
 目を閉じ、記憶を呼び起こそうとしたその瞬間、百合江の対角線上、ちょうど八巻の背後に設置されていた扉が、ギィッと音を立てて開いた。
 瀧上の顔色がパッと明るくなる。

「よかった! 助かっ……――」
「――……えっ?」

 安堵も束の間――、そこにいる十人全員が言葉を失った。
 必死に助けを求めていた者も、呆れたような冷めたような表情を見せていた者も、冷静に打開策を考えていた者も、思わず息を呑んだ。

「うるせぇんだよ、お前ら」

 妙に高く、機械のような声。おそらく、ボイスチェンジャー。頭部には、ホラー映画で出てきそうな豚の被り物。手には、拳銃。体格的に、男。
 パァンッ――と、乾いた音が二発。八巻の後方で、消灯していた蛍光灯の破片がパラパラと降った。きゃあ、という胡桃沢の短く甲高い叫び声。
 目や耳から入ってくる情報は、頭の整理が間に合わないほど、非現実的なものだった。

「……静かにしろ。それ以上喚くようなら、次はお前らの頭をふっ飛ばす」