二学期の終業式が終わった翌日、朝から私はどうにも落ち着かない気持ちを追い出そうと、部屋の中をグルグルと回っていた。
 理由は、昨日の夜寝る前に隼都(はやと)君から届いた一通のメッセージだった。

『明日って暇? もしよければ、夕方少し出かけない?』

 何気ない、ただの普通のメッセージ。翌日、つまり今日がクリスマスじゃなければ、の話だけれど。
 隼都君がいったいどんな気持ちで、このメッセージを送ってきたのかこれっぽっちも想像がつかない。
 そもそも今日がクリスマスだって気づいているのかもわからない。

「ああ、もうっ! どうすればいいの……」

 クリスマスのお出かけ、となればちょっとオシャレなワンピースを着ていきたい。でも、隼都君にそんなつもりがなくって、たとえば『図書館に付き合ってほしくて』なんて言ってくる可能性だってある。というか、隼都君なら有り得る。だって、クリスマスに興味なんてなさそうだし。

「……わかんないよ」

 ときどき、隼都君がなにを考えているのかわからない。
 優しかったり、いじわるだったり、妙に心配性だったり、かと思えば私に「100日後に死ぬ」なんて宣告してきたり……。
 でも、そんな隼都君のことが気になって仕方がない私が、一番わかんない。

「……クリスマス、だよね」

 隼都君にそんなつもりがあろうがなかろうが、今日がクリスマスだってことには変わりない。
『隼都君』が、じゃなくて『私』が、どうしたいかだ。

「今からプレゼントを買いに行くのも……。あ、そうだ」

 私はスマホで調べ物をすると、そっと一階へと下りていった。


 その日の夕方、私は駅前にいた。日もすっかり暮れた午後六時。いつもは帰宅途中の社会人や学生であふれているけれど、今日は恋人同士で歩いている人の方が多い気がする。
 頬を染めて幸せそうに隣を歩く男性を見上げる女性の表情があまりにも可愛くて、ついジッと視線を向けてしまう。
 私も、あんなふうに隼都君の隣を――。

「ごめん、待たせた」
「ひゃっ」
「へ?」

 突然現れた隼都君の姿に、私は変な声を上げてしまう。だって、まさかこのタイミングで来ると思わなかったから……。
 濃いネイビーのセーターに黒のチノパン、キャメル色のチェスターコートをあわせた隼都君は、普段よりも少し大人っぽく見えて心臓が高鳴った。

「なに、どうしたの?」
「べ、別に。その、ちょっとビックリしただけ」

 驚きとドキドキを慌てて笑ってごまかすけれど、私の顔を隼都君はジッと見つめる。

「な、なに」
「愛想笑い、ってわけじゃないけど、なんか変な笑い方してるから」
「へっ、変なって失礼じゃない?」
「ああ、そういう顔ならいつもの萌々果だ」

 くしゃっとした顔で、隼都君は笑う。

「そうやって笑ってるのが、萌々果らしくて一番いい」

 なんでもないように隼都君は言う。でも、その一言で私の心臓が壊れそうなぐらいうるさく鳴り響いていることを、きっと隼都君は知らない。

「……そう、なんだ」

 恥ずかしくて、照れくさくて、つい素っ気ない返事をしてしまう。もっと可愛げのある言葉を返せたらいいのに。

「それじゃあ行こうか」

 そう言うと、隼都君は私を促すように歩き出した。その隣を歩く私の視線は、つい隼都君に手に向けられる。
 触れそうで、触れない距離にある隼都君の手。
 その手を取れる関係に、私たちはない。

「萌々果? どうかした?」

 俯きがちになっていた私に気づいたのか、隼都君が不思議そうに顔をこちらに向ける。
 その瞳は、真っ直ぐ私に向けられていた。

「ううん、なんでもない」

 ちょっと欲張りになっていたのかもしれない。好きな人が、こんなふうに私を見てくれる。それだけで幸せなはずなのに、もっとそばにいきたい。もっと近づきたい。そんなふうに思ってしまうなんて。

「はあぁ、私ってワガママだったんだなぁ」
「え? 萌々果がワガママ?」
「っ、あ、」

 うっかり声に出てしまっていたようで、私の漏れ出た心の声に隼都君は眉をひそめた。怪訝そうな声に慌てて顔の前で手を振る。

「あ、あの、ごめん。気にしないで」
「気にするよ。萌々果がワガママ? どこが」
「どこがって……」

 理由を言うのはためらわれて、思わず口ごもる。
 だってこんなこと話したら、私が隼都君を好きなことがバレてしまう。

「その……」

 黙ってしまった私に、隼都君は「あのね」と優しい口調で私に話しかけた。

「萌々果は我慢しすぎなんだよ。自分が我慢すれば全て丸く収まるって思ってるでしょ?」
「そんなこと」

 ないとは、言い切れない。
 別に我慢しようと思っているわけではない、けど自然と自分の気持ちを抑える癖がついている気がする。
 そうすることで、全てがうまくいっていたから。
 でも。

「俺は、萌々果がワガママを言ってくれたら嬉しい」
「え……?」
「あ! ほら、クリスマスツリーだよ」

 少し先に見えたクリスマスツリーを指差すと、隼都君は私の手を掴んだ。

「行こう!」

 子どものようにはしゃぐ隼都君の姿に、自然と顔がほころぶ。
 クラスの子たちは、きっと隼都君のこんな姿を知らない。私しか知らない、隼都君の姿があるというそれだけで、こんなにも嬉しい。
 それに――。
 掴まれた手を見て、頬が熱くなる。
 ワガママを言ったら嬉しいと、隼都君は言ってくれた。
 なら、この手を、握り返しても許してもらえるだろうか。

 大きなクリスマスツリーの前に並んで立った私の手は、今も隼都君に掴まれていた。

「……っ」

 そっと手を握り返す。
 一瞬、隼都君の身体がビクッとなったのがわかった。

 やっぱり、迷惑、だったのかな。

 不安に思い、離そうとする私の手を――隼都君がギュッと握りしめた。

「え……」
「なに?」
「う、ううん。えっと……その、クリスマスツリー! 綺麗だね」
「……そうだね」

 ぶっきらぼうに言う隼都君の頬が、少しだけ赤くなって見えたのはきっと、ツリーのライトが反射したせい、ではない。


 クリスマスツリーを見たあと、近くの公園に移動した。もうちょっと近くで見ていたかったけれど、クリスマスツリーの周りは人が多くて、落ち着いて話をすることもできなかった。
 それに、渡したいものもあった。
 
 風が吹きすさぶ夜の公園は思った以上に寒い。
 だからだろうか。公園からもクリスマスツリーを見ることができるのだけれど、私たち以外の利用者の姿はなかった。

 公園のベンチに隼都君と並んで座ると、私は持ってきていた小さな箱を差し出した。

「え? これって」
「プレゼント……。そんなに上手じゃなくてごめんなんだけど」

 私の言葉に隼都君は目を丸くすると、箱と私を二度三度と見比べた。

「え、もらっていいの?」
「うん、もらってくれたら嬉しい」
「ええ……、俺なにも用意してなくて……ごめん」

 申し訳なさそうな顔をして隼都君は謝る。でも、そんな必要は全くなかった。これは私が勝手に用意したものだ。私が――。

「これは、私のワガママだから」
「ワガママって……」
「隼都君に受け取ってほしくて、勝手に私が持ってきたの。だから、よければもらってくれたら嬉しいです」
「萌々果……。うん、ありがとう。これ、開けてもいい?」

 私が頷いたのを確認すると、隼都君はラッピングを外し、そっと箱を開けた。

「すごい……」
「下手くそなんだけど、でも味は大丈夫だから!」
「下手なんかじゃないよ。すごく綺麗だ」

 箱の中からカップケーキを取り出すと、隼都君はそれをまじまじと見る。
 クリスマスのデコレーションを施した抹茶のカップケーキだ。
 アイシングとアラザンでツリーのように見せていた。

「こんなの作れるなんてすごい!」

 隼都君があまりにカップケーキを褒めてくれるから、気恥ずかしさと、それから後ろめたさに耐えられなくなる。だって、このケーキは。

「褒めてくれて嬉しい、んだけど、これ実は私ひとりで作ったんじゃないんだ」
「え? そうなの?」

 否定をする私の言葉に、隼都君は少し驚いたような表情を見せた。

「お母さんに手伝ってもらったの」

 私は今日の日中を思い出す。
 隼都君になにかクリスマスプレゼントをあげたいと思い、母親と妹の桜良が買い物に行っている間に作り始めたカップケーキ。
 けれど、どんなに頑張っても上手く作れなかった。
 どうしてか生地がどんどん固くなるし、どうにか焼いてみても膨らまない。
 このままじゃ間に合わないかもと思えば思うほど焦りがひどくなる。
 いったいなにがダメなのかもわからずに途方に暮れていた、そのとき――。

「お母さん?」
「うん。ひとりで悪戦苦闘していたら、お母さんがちょうど帰ってきたの」

 キッチンにやってきた母親は、私の様子を見て理解したように「手伝ってもいいかしら……?」と聞いてくれた。気まずさを覚えながら頷くと「こういうときはね」と手際よく、でも全て母親がするのではなく私がメインになるように進めてくれた。
 居心地は悪かったけれど、でも歩み寄ろうとしてくれていることはわかったので、黙ったまま従った。
 私がひとりでやっていたときの半分ぐらいの時間でできあがったタネをカップケーキの型に流し込むと、母親は「あとは焼くだけだからね」とキッチンをあとにした。
 手伝ってくれたことへのありがたさと、それでも感じるどうしようもない居心地の悪さを抱えながら、私は背筋を伸ばしてお菓子作りを続けた。
 さっきまで感じていた焦る気持ちは、いつの間にか消えていた。

「だからね、私ひとりで作れたわけじゃないんだ」
「そっか。でも、作ろうって思ってくれた気持ちが嬉しい。それに、萌々果と萌々果のお母さんの関係が良い方向に進んでるって思えたから、もっと嬉しい」

 隼都君は優しい眼差しで微笑む。
 いつだって、そうだ。隼都君は私のことをまるで自分のことのように喜んでくれる。
 すごく、すごく優しい。
 でも、隼都君は? 隼都君自身の嬉しいことはないのだろうか。

「ってか、ごめん。俺、プレゼントとかなにも用意できてなくて」

 申し訳なさそうに言う隼都君に慌てて首を横に振る。

「これは私が勝手にしたことだから、そんなこと言わないで。それにほら、クリスマスツリー見えたし!」
「でも……」
「隼都君が誘ってくれなかったら、見ることができなかったもん。だからあれが見れたのが……」

 そこまで言って、私は俯き言葉を止めた。
 クリスマス、だから。ほんの少しだけ勇気を出してみてもいいんじゃないかって、そう思ってしまったから。

「萌々果?」

 隼都君が私の名前を呼ぶ。
 私は、ギュッと自分のこぶしを握りしめて、隼都君の方を向いた。

「隼都君と一緒にクリスマスツリーを見えたのが、一番のプレゼントだよ!」
「え……」

 恥ずかしくて、今すぐにここから逃げ出してしまいたい。
 全身が心臓になったみたいに、ドキドキと鼓動がうるさい。

「あ、えっと、その……」

 もごもごと口ごもり、隼都君は自分の手で顔を隠す。
 迷惑そうにも見えるその態度に、やっぱり言わない方がよかったのかもしれないという後悔が私を襲った。
 でも。

「……そんなふうに言ってくれて、ありがと」

 絞り出すような声でそう言った隼都君の顔は真っ赤で、
 その表情が私の心配を否定してくれていた。


 ◇◇◇


 公園のベンチでふたり並んで萌々果が作ってくれたカップケーキを食べた。
 いったいどうやったらこんなふうに作れるのかわからない、ミニチュアのクリスマスツリーを模したカップケーキは甘くて、ほろ苦くて、優しい味がした。

 時計を見ると、もうすぐ二十時で。そろそろ帰らなくちゃいけない時間だった。
 
「プレゼント、やっぱり用意すればよかったな」
 
 本当はギリギリまで迷っていた。萌々果が喜びそうなものはなんだろうと、ショッピングモールに見にも行った。
 でも、なにを贈っても、それは俺が消えてしまったあとも萌々果のそばに残ることを考えると、買うという選択ができなかった。
 俺がいなくなったあと、萌々果には俺のことを忘れて幸せになってほしい。そう考えたときに、なにかを贈ることは俺のエゴなんじゃないかって思えてしまった。
 それでも、クリスマスツリーを一緒に見ただけであんなにも喜んでくれるなら、なにかプレゼントを渡せていたらもっと喜んでくれたんじゃないかって思ってしまった。

「萌々果はいいって言ってくれたけど、でもやっぱり……」
「うーん、あ、じゃあ、ひとつだけお願いごとをしてもいい?」

 そう言う萌々果の声がどこか上擦って聞こえた気がしたけど、それより萌々果のお願いの方が気になった。

「うん、なんでもきくよ。なにがいい?」
「なんでもなんて言っていいの?」

 くすくすと笑った萌々果の頬が赤く染まり、目も少しだけ潤んで見えた。

「あの、ね、その……」

 恥じらう萌々果の表情が可愛くて、思わず息を呑んでしまう。
 こんな表情で言われたら、どんな願いだって叶えてあげたい。
 俺にできることならなんでも――。

「来年も、私と一緒に、このツリーを見てください」

 俺にできることなら、なんでも叶えてあげたかった。
 どんなことでも。
 どうやってでも。
 なのに――。

「ダメ、かな……?」

 恐る恐る尋ねる萌々果に、俺は一瞬だけ目をギュッと閉じた。
 それから、目を開くと、優しく、柔らかい笑みを浮かべた。
 俺だって、できるなら来年も、その次の年も、ずっとずっと萌々果の隣でこうやってクリスマスの日を過ごしたい。
 クリスマスだけじゃない。毎日、萌々果の隣で笑っていたい。
 でも、それは決して叶うことのない、願いだから。

「わかった」

 どうにか絞り出した言葉に、萌々果はホッとしたような表情を浮かべる。

「ホント? よかった……」

 両手を胸の前で握りしめて喜ぶ萌々果はとても可愛くて、とても愛おしい。
 その顔を曇らせたくないから。
 俺が吐いた嘘には、どうか気づかないで。

「来年も、一緒に見ようね」

 約束の言葉を萌々果は繰り返す。

「そうだね、来年も」

 来年も一緒に見たいなぁ。
 来年だけじゃない。
 再来年も、そのまた次の年も、君の隣でクリスマスツリーを見上げるのが俺なら、どんなに幸せだろう。

「……そろそろ帰ろうか」
「あ、ホントだ。そろそろ帰らなきゃだね」

 名残惜しそうに、遠目に見えるクリスマスツリーを見つめる萌々果に声をかけた。

「……うん、帰ろうか」

 ベンチから立ち上がり、萌々果とふたり歩き出す。
 しばらくして、俺はもう一度クリスマスツリーを振り返った。
 
 君と見た最初で最後のクリスマスツリーを
 もう二度と訪れない
 君と過ごす、最初で最後のクリスマスを
 決して、忘れてしまわないように。