冬のある日を、凍龍(とうりゅう)(こく)の民は『奇跡の一日』と呼ぶ。
 空を見上げて奇跡を願い、愛する者を大事にするのである。
 これは『奇跡の一日』が作られるまでの物語。

***

 現在の(けい)瓔良(えいら)荊妃(けいひ)として後宮に住まう身だが、季獣省(きじゅうしょう)での仕事を好む気持ちは捨てられず、隙を見つけては男装をし季獣省にて仕事をしていた。瓔良が持つ異能と季獣(きじゅう)の相性が良いこともあるのだが、季獣省の宦官として振る舞うことを瓔良も楽しむようになっていた。
 そうして季節は巡り、冬になっていた。まだ春龍(しゅんりゅう)の顕現もない頃である。

「凍龍様が消える日、ですか!?」

 季獣省に響き渡るは、瓔良の吃驚だ。
 男装して季獣省に向かえば、待っていたのは仁耀(じんよう)典符(てんふ)である。二人とも驚きに目を丸くする瓔良に対し、しっかりと強く頷いていた。

「消えるではありませんよ。正しくは帰られるのです。冬のある一日だけ、聖地に帰って冬の力を蓄える儀式です」
「え? でも、去年そんなのありましたっけ……」

 瓔良にとって季獣省での冬は二度目である。去年の出来事を思い返そうとしていると、典符が苦笑いをして口を挟んだ。

「去年はいろいろあったから。この時期にはもう春龍様が顕現していたから、瓔良の知らないうちに儀式を終えたんだ」

 秋虎(しゅうこ)や春龍の騒動など、去年はいろいろなことがあった。例年通りではない、特殊な一年だと言えば確かにそうだ。
 その頃に比べれば、今は問題もなく穏やかな日々である。もちろん瓔良も、穏やかな日々が続くようにと季獣省で奮闘しているのだが。

(凍龍陛下も同行されるのかな……)

 思い返せば、凍龍陛下こと(とう)凰駕(おうが)に会えたのは一昨日である。まもなく新たな年を迎えるため祭事が多く、その準備に追われているようだった。だからか、凍龍が聖地に帰る件についても彼は話していなかった。
 凰駕にとって凍龍とは永遠の相棒である。その凍龍が移動するとなれば、凰駕も共に行くのかもしれない。

(それなら……言って欲しかった)

 凍龍国の皇帝である彼は忙しい身だとわかっている。けれど、叶うならば知りたかった。何も知らずにいたのなら、凰駕を探してしまっただろう。せめて一言ぐらい声をかけてくれたらと恨み言を考えてしまう。

「……不安そうですね? 凍龍陛下が何も言わなかったからと気にしているのですか?」

 思考の海に浸かっていた瓔良を引き戻したのは、こちらの心を見抜いたかのようににやついた顔をする仁耀であった。瓔良はむっと顔をしかめる。

「別に。だからってわたしは怒ったりしませんので」
「おや。怒っていたのですか?」
「違います!」

 そこまでして揶揄わなくてもいいだろうと、仁耀に腹が立ってくる。仁耀は、瓔良が妃になっても容赦せずに雑用を押しつけてくるような男だ。
 瓔良を揶揄って満足したのか、咳払いをしてから仁耀が告げる。

「凍龍陛下の戻りは明日になりますよ。凍龍様が聖地にて力を蓄えるのに最適な時間は夜ですからね。その刻限のことを『聖夜』と我々は呼んでいますが」
「聖地にて過ごす夜だから、『聖夜』ですか……なんて安直な名前を」
「ええ。ですから、今日は特に仕事がないので妃宮に戻ってのんびり休んでください」

 凍龍が不在で、他の季獣もいない。だからか、他の宦官の姿も今日は少なめである。普段は多忙を極める季獣省にとって、奇跡のような休暇の日なのだろう。

「ああ、そうだった」

 やることがないのならと季獣省を出ようとしていた瓔良だったが、仁耀に呼び止められて足を止める。

「一部の者には『聖夜』には良いことが起きると言われているそうですよ。あなたにも良いことがあるといいですね」

 奇跡、と言われても漠然としている。瓔良は首を傾げるしかできなかった。

***

 仕事がないのもつまらないものである。
 荊妃の姿となった瓔良は、妃宮にてため息をついていた。やることはなく、暇である。
 冬だからか、外が暗くなるのは早く、気づけばもう夜となっている。

(今頃、凍龍陛下は何をしているのだろう)

 格子窓の向こうを眺めては、遠く会えないだろう凰駕の姿を想像する。

(会えない日だってあるのに、いざ遠く離れると……なんだか……)

 忙しいから会えないと言われたら納得できた。けれど、彼が宮城にさえいないと知れば、胸がざわついている。
 そばにいると心が落ち着く。けれど、胸の高鳴りに緊張してしまう時もある。想いが通じ合ってからの日々は長いというのに、凰駕と顔を合わせるたびに抱く喜びは新鮮だった。
 けれど、遠くにいる。宮城のどこかにいるではなく、遠く遠く、簡単に会えないような場所に。

「……寂しい」

 彼の姿が遠ざかっていくのを想像し、瓔良は呟いた。
 人払いをしているため宮女が聞く心配はなく、ここには瓔良しかいない。だから気が緩んで、心に浮かんだ言葉を口にしても許されるのではないかと思ってしまった。
 瓔良はまだ気づかず、外を見つめている。
 室内に、冷気を纏った風が入りこんでも、まだ気づかずにいる。

「……物憂げだな」

 声がかかってようやく、瓔良は気づいた。
 誰もいないはずなのに瓔良ではない声がする。それも聞き慣れた、たった今考えていた彼の声。
 瓔良は勢いよく振り返り、声がした方を確かめる。燭台の明かりを覆い隠すかのように、伸びた大きな影。推測を確かめるように、足先からゆるゆると視線をあげていく。長い、彼の黒髪が見えた。

「凍龍陛下!?」

 その者は間違いなく、冬凰駕だった。
 しかし彼はここにいないはずだ。瓔良は疑うかのように何度も目を瞬かせている。

「なんだ、その反応は」
「仁耀殿から、凍龍陛下は凍龍と共に聖地に向かわれたと聞いていたので……」

 聞くなり、凰駕は納得したように「ああ」と頷いた。

「向かった。先ほどまで聖地にいたぞ」
「では戻られたんですか?」
「違う。忘れ物を取りに戻ってきただけだ」

 忘れ物、とは。
 瓔良は理解できず、疑うかのように眉間に皺を寄せたまま固まっていた。
 その反応が面白かったのか、凰駕が堪えきれないとばかりに笑い出す。

「ここに残していくと、寂しがる者がいるかもしれないと思ってな」
「寂しがる者……あ、まさか」

 自分のことだろうか。その答えに至ると同時に、凰駕がこちらにずいと顔を寄せる。挑発的に笑いながら、瓔良の顔を覗き込んでいた。

「先ほどの『寂しい』という言葉は、私に向けたものだと思っていたが? まさか違うのか?」
「……聞いていたんですね」
「もちろん。だが、その言葉は私ではない者に向けていたというのならば……残念ながら一人で聖地に戻るしかないな」

 するりと、凰駕が身を正す。格子窓の方へと歩いて行くと、彼の長い指が外をさした。
 彼の指を辿るように外を見やる。すると、そこには水碧色に輝く龍がいた。夜だというのに身のうちから光を放つかのようにきらきらと輝いて見える。おそらく周囲に舞う氷晶が、妃宮からこぼれた明かりを反射しているのだろう。
 つまりは、凍龍に乗ってここに来たのだろう。今日は凍龍陛下が不在だからと皆の気が緩んでいるため、後宮に凍龍が来たことに気づいている者はいない。
 呆然としている瓔良を急かすように、凰駕が言った。

「凍龍も寂しがっていたからな。来るなら乗せてやる」



 凰駕と共に凍龍の背に乗る。凍龍は寒さなど我関せずといった顔をし、冬の空気を切り裂いて宙を泳ぐ。背に乗る者は寒いことこの上ないのだが、凰駕が用意してくれた毛布に救われた。
 そうしてしばしの間、夜の空を行く。

「仁耀殿の話では、聖地に籠もると聞いていましたが、外に出て大丈夫なんですか?」

 毛布に身を包んだまま瓔良が問う。

「平気だ。むしろ暇だからな、毎年隙を見ては凍龍と抜け出している」
「ええっ……怒られますよ……」
「構わん。凍龍も私もじっとしているのが嫌いだ。それに小うるさい仁耀がいない日なんて珍しいからな。少しぐらい、夜の空を散歩したとていいだろう」

 慣れているのか、凰駕は毛布を使わず、平然としている。彼の言う通り、抜け出しては凍龍に乗っていたのかもしれない。
 確かに景色はとても良い。以前も凍龍に乗っているが、その時は瓔良が意識を失っていた。憧れていた凍龍に乗れるのはもちろんのこと、隣に凰駕がいることも嬉しい。これが夜ではなく昼であれば、どんな景色が見えたのだろう。
 おそるおそる瓔良は地上の方に視線を落とす。

「……あんまり見えませんね」

 家らしきものや明かりなどは見えても、豆粒のように小さい。ましてや郷里と宮城しか知らぬ瓔良である。ここが凍龍国なのはわかっていても、どこであるかの詳細までは不明だ。

(もう少し身を乗り出したら)

 そう考え、体を動かそうとした時である。

「落ちても知らないぞ」

 その言葉と同時にぐいと体を引き寄せられた。瓔良が落ちぬように体を支えようとしたらしいが、そのまま腰をつかまれ、凰駕に後ろから抱きしめられる形となってしまった。
 背に凰駕のぬくもりが伝わってくる。向かい合っていたのなら今頃、顔が赤くなってしまったのが見られていたかもしれない。高まる心音をごまかすように瓔良が告げた。

「距離が近すぎです!」
「お前はいつまで経っても慣れてくれないな。それに、こんな高いところを飛んでいるのだから誰かに見られる心配もないだろう」
「凍龍様がいます!」

 反論するも、凰駕には響いていないらしく、彼はからからと笑うだけだった。

「では凍龍にも、凍龍国の民にも見せてやればいい。凍龍に乗りながら、この国の皇帝に愛されているのだと広めればいいじゃないか」
「そ、それはさすがに……」
「だが、たまにいるらしい」

 そう言って、凰駕が地上の方に視線を落とす。瓔良からは見えないが、背に伝わる彼の動きから、なんとなくそうではないかと想像していた。

「毎年この日だけ、きらきらした不思議なものが空を飛ぶと語る民がいるそうだ」
「……それは、儀式から抜け出してきた凍龍陛下と凍龍様ですかね」
「それ以外に考えられん。他にもいるのなら、私だって会ってみたいものだ」

 つまり、ごく一部の者が空を飛ぶ凍龍に気づいているのだ。この国の民ならば凍龍を知っていて当然だが、そのお姿までは知らない。その日に目撃したものが凍龍だったなどと想像もしないだろう。

「だからか、奇跡が起きるだの、良いことがあるだの……まあ、いろいろと語られているようだ」
「奇跡……ですか」

 その単語を口にし、瓔良は空を見上げる。
 宮城と聖地。遠く離れているのだから、会えないと思っていたのだ。けれどこうして出会えた。

「確かに、奇跡かもしれませんね。こうして凍龍陛下に会えたんですし」

 それに、と瓔良はもう一度地上を見る。ここからは豆粒にしか見えない家々のどこかで、瓔良たちを見上げている者がいるのだろうか。
 いるのならばきっと、光輝く何かが空を泳ぐこの光景を、奇跡だと呼ぶのだろう。

「きらきらと光る凍龍が、国を泳いで奇跡を贈る――素敵だと思います」

 一年に一度しか見られない奇跡。時には凍龍が泳ぐたびに生じる小さな氷晶が地上に落ちていくかもしれない。まるで、凍龍国の人々への贈り物だ。

「そう考えると抜け出す価値があるな」

 後ろで凰駕が笑った。

「奇跡を贈る。そうなれば、来年も抜け出すしかあるまい。抜け出すための良い口実を思いつくじゃないか」
「そうですね。仁耀殿に知られても怒られませんよ」
「だが、一人で凍龍に乗るには、少々問題があるな」

 その言葉が耳をかすめたと同時に、瓔良を抱きしめる腕の力が強くなる。気づけば首筋に、凰駕が顔を埋めていた。

「……瓔良は温かいな」
「と、凍龍陛下!?」
「この時期の空は寒いからな。一人では凍えてしまう。瓔良も一緒がいいと、私は思う」

 凰駕は寒いと口にしているが、そんな素振りはまったくなかった。つまり、瓔良に近づくための嘘である。
 そのことを瓔良も理解していたが、彼との距離が近くにあることを喜ばしい気持ちで受け入れていた。腰に回った凰駕の手に、瓔良は手を重ねる。

「では、来年も付き合いますよ」
「もちろんだ。いやだと言われても、迎えにいく」
「子供みたいなわがままを言いますね」

 瓔良が言うと、凰駕が笑った。わがままであると自覚しているらしい。その反応が面白く、瓔良の表情も緩んでしまう。

「国中に奇跡の贈り物をし、愛する人を大切にする――そう考えると、聖夜という日も悪くないと思えてきたな」
「この儀式が嫌いだったんですか?」
「もちろん。だから毎年抜け出していた。だが、瓔良のおかげで変わった。これからは聖夜を待ち遠しく思うかもしれない」

 それは瓔良も同じだ。
 凰駕と共に、凍龍に乗ってこの景色を眺めたい。国の人々に奇跡を贈りたい。
 いつの間にか、寒いと感じなくなっていた。凰駕がそばにいる。そのことが、瓔良の心を温かくしているのだ。

「これからも、共にいてほしい。私だけの、寵妃」

 耳元で紡がれる愛のささやきに、瓔良はゆっくりと頷いた。

***

 数年を経て、この日の存在は民に知られることとなる。
 冬の聖夜。空を見上げれば、煌めくものが飛んでいる。その正体は不明だが、氷の精であるとか龍だとか、時には愛する二人の存在などと語られている。
 奇跡を運ぶその正体を知るのは、凰駕と瓔良だけ。