差し足忍び足で廊下を進む。出来るだけ角や物の影に隠れながら。本当は教室のすぐ隣にある階段から2階に降りることができれば良かったのだが、最悪なことに防火扉が降りていた。東側の階段も然り。よって南校舎から階下に行くしかない。


 時折、足を止めては耳をすまし、懐中電灯で目の前を確認する行為を繰り返しながら歩いて行く。


「なあ奏太朗。なんか会話しようぜ」

「なんだ。今話すことか?」

「だって静かすぎるのも怖ぇじゃんか」

「静かな方が圧倒的にバレないでしょ」

 
 椿が呆れるも気に留めず、泰介は口を開く。


「お前さ、なんで夜の学校にいたんだ?」

「……何故それを訊く?」

「ちょっと気になったっつうか……。話したくなきゃ話さなくても良いんだ」


 尋ねてきておきながら遠慮がちだった。僕は目の前の確認をしながら答える。


「特に深い意味はない。息抜きみたいなものだ。強いて言うなら……反抗、か」

「反抗?親に対してか?」

「ああ。少しばかり親と意見が合わなくてさ。話しても理解してくれない。だから、その小さな反抗かもな」

「なるほどね……」


 声色からして泰介は笑っているようだった。意図が分からず、思わず訊いてしまう。


「何がおかしい?」

「いや、おかしいわけじゃないんだ。ただ、お前もそう言うことがあるんだなって……」


 南校舎に着き、階段を確認する。ちゃんと通れるようになっており、僕ら3人はつま先で下る。念の為階段付近を光で照らし、あいつがいない事にほっとした。


「逆に訊くが、泰介はどうして夜の学校にいたんだ?」

「俺か?俺は……家に帰りたくないからだよ」


 それを聞いてしまったと焦る。家に帰りたくないのは、だるいや面倒くさいといったどうでもいい理由があるからかもしれない。しかし、泰介は違う。もっと深刻な何かがあると、勘のような物が僕に言った。そして案の定、それは的中してしまう。


「俺の親父、アル中って訳じゃねぇけど、家に帰ってはよくアルコール飲んで暴力振るうんだ。俺にもお袋にも物にも。俺が帰ったら大抵親父は荒れてる。そんな毎日が嫌でさ、気づけばずっと学校に留まるようになった」


 笑っちゃうよなとはにかむ泰介に、僕の中での彼の印象が変化してくる。その笑顔も振る舞いも、もしかしたら楽しい生活を演じるために貼り付けられている偽りの仮面のような気がした。


「まあ、そんなの今の状況に比べれば可愛いもんだって思えるけどな」

「えっ……」

「だってそうだろ?今は命すら狙われてるかも知れねぇんだ。だったら、暴力振るわれようが生きてる日常の方がマシだ。反抗だって家出だって、何だってできるからな」


 泰介の声は希望に溢れていた。


「生きてさえいればどうとだってなるってわけだね。泰介らしいや」

「だろ?だから親父にだって反抗してやる。お袋もいるしな」

「そうだね。だったらあたしも、少しぐらい変わる努力はしようかな」

「……」


 2人の会話が遠く聞こえた。


(生きてさえいれば、か)


 両親の顔が浮かんでくる。もし僕がもっと主張を続ければ、いつか2人は認めてくれるだろうか。いや、例え認めずとも、独立すればなんだって出来る。そう考えると、心が軽くなった気がした。


「待てっ!」


 突然肩を引かれた。文句を言うより先に泰介が指を差し、その方向に視線を向けて頭の中が真っ白になる。あいつがいた。幸いにも僕らに背中を向けている。懐中電灯を切り、音を立てないように後退する。踵を返す時間すら惜しかった。


「あっ」

 
 何かが地面で弾んだ。小石だった。椿が小さく声を上げる。電光石火のごとく仮面が振り向いた。


「まずいっ、走れ!」


 一目散に駆けた。階下に降りることができない僕らはひとまず4階に上がり、南校舎へ向かう。全速力を出しながら泰介が声を張った。


「別れよう!俺は右行くから、お前ら2人左の階段から降りろ」

「「分かった」」


 椿と共に左折する。駆け足で降った。もう音も気にすることができない。しかし、階段付近であいつを視界に捉える。


「奏太朗!」

「っ!ひとまず2階まで行こう!」


 一気に2階に辿り着く。しかし、昇降口は反対側の校舎だ。あいつはまだ来ていないのかと上を見上げようとしたところ、泰介らしき声が校舎に響く。


「……っ!」


 それが何を意味するのかは瞬時に悟った。しかし、悲しみに暮れる暇など無い。悪い、と心の中で謝罪した。同時にあの靴音が響く。


「急ごう」

「うん」


 僕と椿は直線を走った。出口まであと少し。だが、同じ階に3人分の足音が鳴っていることに気づく。椿もそれを悟ったのか提案を出した。


「ここも別れよう!」

「はあ?」

「どっちかは必ず助かる!ていうか、迷う時間与えて2人で逃げよう!」

「……分かった」


 僕は右、椿は左にいた。自然と東西が別れる。2人同時に逆方向に角を曲がり、僕は一階を目指す。窓の少ない廊下は今まで以上に暗かった。そのはるか向こうに、淡い銀の灯りと濃紺の空が溢れている。昇降口だ。遠目からでも扉が開いていると分かった。


 今すぐにでも駆け出したかったが、椿が来るのをしばしの間待つ。だが、1階に降りて十数秒、耳をつんざく叫び声が遠くから聞こえてきた。


 ああ、と声が漏れる。椿もやられた。僕だけが助かってしまった。膝から崩れ落ちそうだった。罪悪感が胸の中で膨らむ。


「けど」


 僕は足を叩いて駆け出す。折角のみんなの努力を、ここで無駄にしたくない。風を切るたびに出口が大きくなる。距離にしてあと10メートル。安堵と余裕で思わず喜びに胸が高鳴っていた時だった。


 突然目の前に、あいつが姿を現した。


「っ!?」


 足に急ブレーキをかける。どうしてここにいるんだ。そう疑問に溢れた。簡単なことだ。椿を襲った後、階段を降りて僕より早く着いた。それだけだった。


 銀朱を帯びるノコギリの刃が僕を捉える。


「ーっ!」


 踵を返して来た道を戻ろうとした。が、勢い余って何もない廊下につまずく。そのまま前のめりに倒れ、全身に痛みが走った。それでもなお上半身を起こし、後ずさる。僕の後退と同じスピードで近づく奴に嫌気がさした。


 背中に硬いものが当たる。壁だった。目の前には殺人鬼めいた人物。もう無理だと悟った。


(ごめん、みんな……)


 静佳、椿、泰介の顔が浮かぶ。その次に脳裏に映ったのは、両親の顔だった。


『音楽で生きるなんて無理だ』


 そう言った後、母は悔しみと悲しみを帯びた表情になったことを思い出す。


『私みたいになるから』


 そうだ。母も昔はバンドをやっていた。メジャーデビューを目指していた。けれど、それはどこまでいっても儚い夢だった。才能ある人間しか、認められなかったと隠れて悔やんでいた。


 父さんも同じだ。だから、僕に同じ目に合わせないようにしていたんだ。2人とも、僕のために。


『生きてさえいれば』


 椿と泰介の言葉を思い出す。生きてさえいれば、両親と和解できたかもしれない。反対されてもなお貫く自分を応援してくれたかもしれない。


 今更後悔しても遅かった。ノコギリが僕の真上に振り上げられる。ぎゅっと目を瞑った。そして、静かに死を覚悟する。使い古された刃が、僕の頭を貫く──


「これで、生きていたくなった?」


「……えっ?」


 唐突に声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、仮面の奴はノコギリを壁に立てかけ、僕を見下ろしていた。そして、徐に仮面を外す。僕は目を見開いた。


「継奈!?」

「昼間ぶり、だね」


 悪戯っぽく笑うその素顔は、僕のクラスメート、継奈だった。