同級生2人きりで夜の教室に潜むというのは、なんとも不思議な心地だった。もちろん、恐怖心や不安が拭えたわけではない。今だって、あいつが襲ってくることを想像するたびに吐き気が込み上げる。
「はぁ」
椿が小さくため息をついた。
「こんなことになるなら、夜の学校なんて来るんじゃなかった」
「同感だ」
陰影のついた天井を仰いだ。浅はかな日々の思考が蘇る。ただ、息抜き、あるいは心の拠り所として、何も考えずに来ていた。不法侵入だと分かりながら。深夜徘徊だと知りながら。これは無知な僕への罰なのかもしれない。
「なあ、椿」
「ん、何」
「椿はどうして夜の学校に居たんだ?」
純粋な疑問だった。優等生。委員長。真面目。頼り。主人公。そんな言葉が似合うイメージを抱いてしまうほどに人間としてできている彼女が、何故夜の学校なんかに足を運んだのか。
隣でため息が聞こえた。
「疲れたんだ」
「えっ……」
「いい子でいることに、ちょっと疲れちゃったんだよね。ほら、学級委員とかさ、色んな人から頼りにされるじゃん。それは嬉しいんだよ。けど、その期待がだんだんしんどくなって、その度に理想的な人間でいなきゃいけないって思ってちゃう。それが、どうしようもなく疲れたんだ」
「そう、だったのか。じゃあ、辞めればいいんじゃ……」
「そう。その方法もあるはある。けど、誰かの役に立てるのは嬉しいし。てか、あたしって頭が良いわけでも運動できるわけでも特別な才能があるわけでもないからさ。何かに貢献できるようなものを見つけて、それを自分の存在価値にしてるようなもんだから」
「存在価値……?人の役に立つことを、か?」
「そっ。だから、簡単に辞めるって決められないんだ」
困っちゃうよねと言う彼女は、暗がりの中でも苦笑いしていることが分かる。掛ける言葉が無かった。僕の想像以上に、椿は複雑な心境の渦にいた。
「なんか、ごめん」
「えっ、何が?」
「何も考えずに、辞めればいいとか、簡単に言って。椿はすごく悩んでいたのに」
「別に奏太朗が謝るようなことじゃないって。あたしが面倒くさい人間なだけ。ほんと困っちゃうよ、自分の性格に」
彼女はぎゅっと自身の膝を抱える。
「本当はもっと楽しみたいんだ、高校生活。だって、入りたい場所に来れたから。なのに、委員会とか行事とか、仕事の忙しさに追われて苦しくなっちゃってさ。でも、やっぱり学校が好きって気持ちが消えなくて。だから、多分夜の学校に足を運んだんだと思う」
声色に弾みがあった。彼女の言葉に、僕は自然と口元が緩む。
「椿は、本当に学校が好きなんだな」
「あ、やっぱそう思う?」
「思うよ。今の話し方を聞いて尚更。ただまあ、僕が言えることじゃないかもしれないけど……」
「何?」
「苦しかったり辛かったら、他人を頼った方がいい。これ以上、学校を息苦しい場所にしないためにな」
我ながら陳腐な台詞だと思う。でも、本心だ。椿の中にある学校が楽しいという気持ちを潰さないために。
返事は中々返ってこない。やはり上から目線な言い方だったか。あるいはほぼ接点のない奴に言われるのはキモかったか。これまでとは違う不安が募った。その時、小さく笑い声がなった。
「奏太朗って、結構優しいんだね」
予想外な言葉だった。今の一言だけで、椿が、それも笑いながらそう言った。
「じゃあ、君に相談してもいいのかな?」
「あ、ああ。僕なんかでよければ……」
「そっか」
何が「そっか」なのだろう。彼女の意図が見えない。だが、僕の思考を巡らす隙もなく椿は不意に立ち上がる。
「あーっ、誰かにこんなに本心を話したの初めてだよ。なんかすっきりした」
椿は僕を見下ろした。暗くてよく見えないが、おそらく。そして笑顔を向けられた気がした。
「ありがとね。今度はさ、昼間の学校でも話そうよ」
「昼間の学校?」
「そう。あたし、もっと奏太朗と話したいな。君の前だと素の自分でいられそうだし」
「まあ、僕でいいなら……」
「やった」
椿は小さく喜びの声を上げる。不思議と胸の中に温かい何かが広がった。穏やかで、優しくて、包み込まれるみたいな。良かったと、そんな言葉が脳に浮かぶ。
この夜から抜け出せたら、ちゃんと学校で、椿と会話が出来たら。淡い期待。理想。それでもいい。珍しく学校に行きたいと思った。
叫び声が、響いた。
「今のって……!?」
僕たちは顔を見合わせる。嫌な予感が脳裏をよぎった。
「行こう」
「で、でもこの暗闇で動いたらまたあいつに出くわすんじゃ……?」
「それでも行ったほうがいい」
「それなら……」
僕たちは廊下に出た。非常灯はどの階にも設置されているらしく、4階と同じような場所で懐中電灯を手に入れる。カチリと音が鳴って、目の前が明るくなる。
「それじゃあ行くか」
「う、うん……」