今日も、心地の良い夜だった。


 月と星だけが灯りとなる生命が寝静まった世界は、昼間の騒々しさも人混みの息苦しさもない。僕だけが生きていると錯覚する。そして、生きていても良いと世界に許されている気がした。


 僅かに車が通り過ぎる歩道を、ポケットに手を突っ込んで歩く。見慣れた校門についたら、よじ登ることはせずに、壊れたフェンスの隙間に体を捩じ込んで駐輪場に出る。2階に上がって、校舎と駐輪場を繋がる通路を渡ったのち、ベランダに足を運んだ。


 たっぷりと夜の空気を肺に溜め込んで、それから予め鍵を開けておいた教室の窓から学校内に侵入する。地面に着地した瞬間、僕1人分の足音が教室に響いて、それからまた静寂が返る。


 とても開放的な光景だった。誰もいない教室というのは、目にも心にも優しい。今や僕だけのものとなった教室で、音と匂いと色を、五感全てで味わう。月明かりを受けて煌めく机の木目も、真っさらな黒板も、誰も立たない教卓も、その全てが僕の心を揺さぶり、不思議な安堵を与える。


 僕は2歩進んで自分の席に着く。一番後ろ、窓際の、いわゆる主人公席。けれども、席の所有者である僕は、主人公には程遠い。アニメで例えるならば、陰キャC。画面のほんの一部にしか映らないような、つまらない人間。


「……いや、そんなこともないか」


 今の状況に改めて気がつき、自嘲する。真夜中の校舎にいるんだ。陰キャならこんな事しない。今の僕は不良少年か。非常識なことをやっている点では、ある意味で主人公かもしれない。


 指で机を叩いた。なんの変哲もない木の板を、ピアノの鍵盤に見立てて。指を動かすたび、僕の脳内には架空の音楽が溢れる。けれど、現実に現れるのは僅かにくぐもった音。それが鼓膜と教室の壁に反響して、開け放たれた扉から廊下に吸い込まれて消える。何度かそれを繰り返して、飽きたら立ち上がった。


 開けっぱなしにしていた窓に近づき、空を仰ぐ。目を見張るほど綺麗な満月が浮かんでいた。銀と黄を混ぜた色味の、作り物のような衛生。ただの岩石の塊に、どうして人間は心惹かれるのか。疑問に思っても誰も答えてくれないから、考えるのをやめたのはいつだったか。


 急にフラッシュバックが起きて、母に罵倒された記憶が鮮明に蘇った。そんなどうでも良いことなんて考える意味がないんだから、と。それよりも真面目に勉強しろ、と。


「……っ!」


 強く頭を振った。馬鹿馬鹿しいと思った。嫌な記憶ほど、脳裏に残りやすく、ふとした拍子に思い出してしまう。僕は勉強なんかに興味がなかった。ただ、好きな音楽を奏でて生きていたいと思った。


 両親はそれを理解してくれなかった。けれど、まだ「分からない」だけで終わったならば良い方だ。あの人達は音楽を罵倒したんだ。そんなのは才能のある奴しかできない、と。音楽なんて何の役にも立たない、と。それから、ギターも電子ピアノも捨てられた。僕の、生きる今だった物たちを。


「何も分かってない。僕のことも、音楽も。……ックソ」


 別にいいさ。分からない人達に理解してもらいたいとは微塵も思わない。最近は音楽を聴くことに明け暮れる僕に呆れたのか、両親は殆ど僕を放任していた。あるいは、もうダメだと諦めたのか。


 だから、こうして黙って真夜中に家を抜け出しても何も言われない。もう日課と言ってもいいほどになった。寂しくはないのかと尋ねられれば、必ずしも否定できるわけじゃない。でも、心は軽い。しがらみは一つもないから。
 

 月に向かって手を伸ばす。無論、届くはずもなく、月明かりを遮るだけ。もし、人間が手を伸ばせば簡単に月に行ける日がやってきたら。僕はどこへでも行けるのだろうか。家の近くの学校なんかじゃなくて、誰も知らない場所へ。


 そしてそこで好きなように生きていきたい。もし、それが叶わないのであれば。


「死んでも、いいか」


 半分冗談で、半分本気。誰に語りかける訳でもなく、ぽつりと呟いた。


 不意に後方で物音がした。水の落ちる音とか、風で軋む音なんかじゃない。何かがぶつかった音。


 振り返ろうとした時だった。


「ガッ──ァッ!?」


 背後から眩い閃光で照らされるとともに、尋常じゃない痛みが首筋に走った。未だかつて無い痛覚に意識は失われた、視界は真っ暗に陥った。