どうやら図書館の常連に、自分と同じ趣味の人がいるらしい。本の貸出しカードの最後尾に、十冊連続で同じ名前があるのを目にしたところで、ようやく有希乃はその事実に気が付いた。
しかし、どういう偶然なのだろう。有希乃が読みたいと思うタイミングで、常にその人が一歩先んじているというのは。
つまり、有希乃の借りるどの本も、おかしなことに直前で同じ人が借りているのだ。
それが一度や二度ならともかく、連続十回、断続含めて十七回。これはもう奇跡に近い確率である。
わざとそんなことができるとも思えない。その人が男か女かもわからない。貸出しカードの記入欄には、ただ「怜」とだけ流麗な筆致で記されており、その謎めく名前が余計に興味をかき立てた。
(……ちゃんと姓名を書かなくても、借りられるものなのかしら)
まじまじとその名を見て、何者なのかという疑問とともに、そんなことを思う。
一度会って、話してみたいと思った。こんなにも嗜好が同じなのだから、この人とならきっと楽しい会話ができるに違いない。
例えば、今回借りた本の──主人公の恋の行方について、どんな結末になるのだろうかと盛り上がれるのではないか。
──有希乃が借りているのは、だいたいが流行りの恋愛小説、恋物語である。
ここ、草薙ノ国の皇都、その中心である神門市は、一番の都会だけあって公共施設が充実している。
有希乃が足しげく通う図書館も、国内最大級を誇る大きさだ。
それだけでなく、無料で借りることができ、巷で流行りの小説なども入荷されるため、一般大衆にも非常に人気の高い施設である。
当然それらの新刊は早い者勝ちで、簡単には借りられない。が、小遣いもなく余計な出費ができない有希乃にとって、図書館の本は唯一の娯楽だった。
本は良い。特に物語の類いは、別世界に心を誘い、嫌なことを忘れさせてくれる。
有希乃の実の両親は、五年前に事故で他界している。
彼女はその後、北条という華族の家に引き取られ、養子として育てられてきた。
ただ、現在は実家で暮らさず、皇雅館学習院という女学校の寮で生活している。
世間一般の女子と比べれば、皇都の女学校に通えるだけで十分恵まれているといっていい。
しかし、実際のところ、これは体のいい追い出しであった。
女学校卒業後も、有希乃は本家の屋敷に帰ることはない。学費と寮生活の費用は、就職後の給料から差し引いて返済せよと養父から言いつけられている。
一方、北条の実子である姉の加奈子は、当然のごとく学費は家持ちで、通学は自動車での送り迎えだ。
そもそも、養父である北条壮馬は、数えるほどしか有希乃と顔を合わせたことがない。興味がないらしく会いにも来ず、どうして自分を引き取ったのかと有希乃が不思議に思うくらいだった。
なお、女学校において加奈子は上等科、有希乃は衆庶科に属している。
上等科は良家の娘が嫁入り前に教養を身に着けるためのクラスであり、衆庶科は平民の女子が将来の就職に備えるための科とされている。
洋風のモダンな制服が支給される上等科に対し、衆庶科は各人自前の袴姿。
加奈子と有希乃の境遇は、そんな科の区分ひとつ取っても大きな格差があった。
そして、華族の娘であるはずの有希乃がなぜ衆庶科に通っているのかについて、浅慮な者は深く考えず彼女を妬み、頭が回る者はキナ臭さを感じ取り、距離を置く。
それゆえ、寮内においても心を許せる者はおらず、彼女の慰みは図書館の本のみなのだった。
「ちょっと有希乃、学内では私に近寄らないでといつも言っているじゃない!」
とある秋の日、姉の加奈子は上等科の教室を訪ねてきた有希乃を、そんな金切り声で叱りつけた。
「ですが姉さま、西棟の教室に巾着を忘れていったでしょう。こちらを届けに来たのです」
有希乃はおびえた様子もなく、萌黄色の巾着袋を差し出す。
加奈子は「あっ」と気付いた表情となり、あわてた様子でそれを奪い取った。
「っ……そんなことより、『姉さま』と呼ぶなと言ったのも忘れたの!? 私はあなたのことを妹だと思ったことなんてないんだから!」
「でも、私にとっては姉さまは姉さまで……」
「お黙り!」
容赦ない一喝に有希乃の身が小さく跳ね、教室内の視線が集中する。
「私はね、あなたのことが嫌いなの! 孤児が北条の家名を名乗るだけでも許せないのに、姉妹だなんて……! 腹立たしい!」
払うように腕を振り、有希乃をにらみつける加奈子。
有希乃は静かに目を伏せる。彼女はしおらしげに会釈をしてから教室を後にした。
扉をくぐる際、ちらと振り向いて加奈子の顔を見ようとしたが、窓の外へ向けたその表情を確認することはできない。
他の女生徒たちは何事もなかったかのようにおしゃべりを再開する。
有希乃は上等科の校舎を出た後、大きくため息をついた。
(やっぱり、血がつながっていないと……ダメなのかな……)
同じ姉妹で待遇差をつけられてはいたが、だからといって姉を憎んでいるわけではなかった。
できることなら良好な関係を築きたい。そこにはひとかけらの邪念もなく、たとえば先刻の「姉さま」呼びも、純粋に同年代の姉妹として打ち解けたいという思いからのもの。
だが、逆に加奈子にとってはそれが癇に障るらしい。
ことさらに嫌がらせをしてくるわけではないが、近づくのを嫌がるほどに毛嫌いしている。
それは他者とのつながりを欲する有希乃とはもっとも相性が悪く、気づけば彼女はいつも姉を怒らせてしまっていた。
「あら? 何かしら、これ……」
その数日後のこと。
有希乃は運良く借りられた小説の最新刊を読もうとして、手を止めた。
そこにあったのは一枚の栞。押し花が貼り付けられた薄い青色の紙片が、本に挟まっていた。
「竜胆の花の、栞ね……」
押し花にされた竜胆は、台紙よりも青色が濃く、鮮やかだ。
シンプルにたった一輪の花が貼られているだけだが、その素朴さが逆に存在感を放っていた。
前に読んだ人が抜き忘れたのだろう。そう思って貸出しカードを確認するために表紙の裏側を開く。
確認しながら「まさかね」という思いが脳裏をかすめ、続いてカードに書かれた名前を目にした後、有希乃は思わず苦笑してしまった。
そこには件の謎の人物、「怜」の名前が書かれていた。
しかも、それ以外の利用者の記載はなく、どうやらこの本を借りたのは、まだ「怜」だけらしい。
つまり、栞の持ち主もこの人ということになる。
「あらあら……」
どうしましょうとつぶやきつつ、有希乃は色めき立った。
これで──この人に話しかける口実ができた。そう思ったからだ。
ずっと気になっていたのだ。自分とまったく同じ趣味の人が、どんな人物なのか。
栞の花柄からしておそらく女性に違いなく、話が合う自信があった。だから、いつか会って話をしてみたい──彼女と友達になってみたいと思っており、彼女と知り合うきっかけを有希乃は探していたのだった。
(直接会えたら、きっと良い関係になれるはずだわ。だって、こんなに好きなものが同じなんだもの。この人と友達になれたら、どんなに素敵なことかしら……!)
──ただ、そう簡単には事は運ばない。
「いやぁ、本当にごめんね。この利用者さん、事情があって名前を外に出さないように頼まれてるんだよ」
栞を渡すという口実で「怜」の住所を聞き出そうとしたが、図書館の男性司書はそう言って有希乃の頼みを却下した。
個人情報保護が問題となる世相ではない。単純に、その人の希望なのだという。
なんでも「怜」なる人物は司書と古くからの知り合いで、本名を書かずに図書を借りられるのも、この司書が特別に取り計らっているからとのことだった。
「事情というと……もしかして、やんごとなき身分の方……とかですか?」
「やんごとなき……とは、違うかなあ……。ちょっと特殊ではあるんだけど」
そう言いつつ、本人の秘密に関わることらしく、彼はそれ以上言及しようとしない。
「その栞、僕から『怜』さんに返しておくよ。わざわざ届けてくれて、ありがとうね」
栞を受け取ろうと軽い調子で司書は手を差し出してくるが、お願いしますと応じるわけにはいかなかった。
ようやくこの人と知り合う機会が訪れたのだ。みすみす逃すわけにはいかない。
「あのっ……どうにかして連絡を取ることはできないでしょうか?」
これを逃したら、もう趣味の合う友達なんてずっとできないかもしれない。
有希乃はこれまでのいきさつを打ち明け、「怜」と少しでも話をしたいと頼み込んだ。
いきさつといっても、十連続で二人が同じ本を借りたというわけのわからない偶然のみ。にわかには信じがたく、だから何だと却下されればそれまでの話である。
それでも有希乃の熱意が伝わったのか、司書はしばらく考える様子を見せた後で、「怜」にコンタクトを取ることを請け負ってくれた。
「うーん……でも、あまり期待しないようにね。少なくともこの『怜』さん、顔を合わせるのは望まないと思う。良くて文通くらいじゃないかなあ、受け入れてくれるのは」
「文通……わかりました。ありがとうございます!」
それでも有希乃は構わなかった。
文通だろうと何だろうと、誰かとのつながりが持てるなら、それに勝る喜びはないのだ。
有希乃は司書に対して大きく頭を下げ、礼を言う。
──そして、さらに二週間後。
男性司書の言った通り、「怜」からの返事は「文通ならばかまわない」とのことだった。
それを耳にした有希乃は、弾けんばかりの笑顔を見せる。
「ありがとうございます! 嬉しいです……!」
たったそれだけのことで大仰に感謝する有希乃を見て、司書は苦笑しつつも和やかな表情を見せた。
「それにしても、借りる本が二人ともまったく同じになるなんてね。どういう偶然かわからないけど、もしかしたら、何かの縁なのかもしれないね」
「仲良くなれるといいね」、そんな司書の言葉に、有希乃は「はいっ!」と、うなずいたのだった。
◇
そうして、有希乃は「怜」との文通を開始した。
住所も本名もわからない、ミステリアスな人物とのやりとり。
傍から見れば怪しさしかない状況だが、有希乃は気にすることもなく、ただ純粋に同好の士と語りあえることに喜び、期待に胸を膨らませた。
お互いの手紙は、「怜」の知り合いである先の司書を介して渡されることとなった。
眼鏡をかけたその男性司書は、名を山城恭二といった。
彼が快く中継を請け負ってくれたことに、有希乃は安堵し、感謝する。
「ええと、最初は何を書いたらいいのかしら……。そうね、まずはお礼と謝罪と、それから私の身の上かな。少なくとも怪しい者じゃないですよって、わかってもらわなくちゃ」
最初の手紙、有希乃は改めて自分の氏名、それから何回も先方と同じ本を借りた偶然について書き記した。
恋愛小説がお好きなんですか。私もなんです。好みが似た人と知り合えて、とても嬉しいです──
続いてそんなことを書き連ね、ふと読み返して、なれなれしくないだろうかと逡巡する。
けれど、変にかしこまるよりこの方がいい、嫌われたらそれはそれで仕方ないと思い直し、思いの丈を手紙につづっていった。
その手紙を受けた「怜」からの返事は、とても優しいものだった。
身元を明かさずこのような形での交流になってしまい、申し訳ないと。
好きな本についてこうして語りあえる友人ができたこと、自分も嬉しいと。
学生さんでお忙しいだろうけれど、長くこの文通を続けられれば幸いだと──
その礼儀正しい文面からは、有希乃に対する気遣いをつぶさに感じ取ることができた。
「友人……! 友人ですって!」
有希乃はぎゅっとまぶたを閉じて、その場で小さく飛び上がる。
嬉しかった。
こんな自分にも友ができた、楽しいことを語りあえる仲間ができたのだ。
有希乃はずっと求めていた。孤独な気持ちを癒してくれるもの、人と人とのつながりを。
十歳で実の両親を失って以降、彼女の心はずっと独りだった。
もちろん、相手にとってはたくさんある人付き合いの一つに過ぎないかもしれない。
それでも、心のこもった文章を返してくれたことに、有希乃は大いに感謝したのだった。
そんな感じで、二人は手紙のやり取りを続けていく。
有希乃の予想した通り、両者の本の趣味は示し合わせたように合致し、手紙の話題はそれらが多くを占めることとなった。
あの本のここが良かった、あの展開は予想していなかった、あなたはどう思いますか、など。手紙の向こうの「怜」のそんな言葉にうなずきながら、有希乃はさらなる返事をしたためる。
最初はそれなりに緊張し、失礼なことを書かないようにと気を付けていたが、「怜」の柔らかな文面に心が緩み、次第に自らのプライベートなことも書いていくようになっていった。
「怜」は有希乃の勢いまかせの文面にも、一つ一つ丁寧に返事をしてくれた。
司書から聞いた通り、「怜」は自分のことはまったく語らなかったが、知的で、時にウィットに富んだ文章は、同人の知見の深さを感じさせるものだった。
そして、有希乃が何よりも嬉しかったのは、「怜」の文章がとても思いやりにあふれていたこと。
時が過ぎ、季節が冬へと移る中でさまざまな言葉を交わしたが、いついかなる時も「怜」は穏やかな言葉で有希乃の思いを肯定してくれた。
時には日々の生活で辛かった出来事を、愚痴として書いてしまうこともあった。
名家の出なのに衆庶科に通わされているのは、妾の子として疎まれているからだ。女学校で、そんな心ない言葉を同級生からぶつけられた時、その場は何とか反論したが、こらえきれずに部屋で泣いてしまう。その出来事を手紙に書いてしまって、後で後悔する。
「こんなものを読ませても不快な思いをさせるだけなのに……私ったら、何を書いてしまったんだろう」
けれど、そんな時も「怜」は有希乃をねぎらい、励ます言葉をかけてくれた。
『──あなたは負けることなく同級生に言い返したんでしょう。立派じゃないですか』
ずっと他人から否定されたままでいると、自分に自信が持てなくなる。
妾の子ではないにせよ、同級生の言うように自分は家でも学校でも必要のない人間なのではと、胸の中に寒風が吹く。
そんな有希乃の心に空いた穴を、「怜」の手紙は埋めてくれるようだった。
たった一言、有希乃の存在を是としてくれるその一言があるだけで、彼女の心は救われたのだった。
◇
そんなある日、有希乃がまったく予想していなかった事が起こる。
学年主任の教師に呼ばれ、彼に連れられ校長室に向かったところ、そこには校長とともに養父である壮馬がいた。
一体どうしたのだろう。今まで自分に何の関心も示さなかった父が、わざわざ会いに来るなんて。
父、壮馬はやはり有希乃に興味はないようで、抑揚のない口調で娘にこう告げた。
「お前の就職口が決まった。卒業を前倒しにしていただけることになったから、来月からそこで働きなさい」
「……ど、どういうことですか?」
思わず有希乃は聞き返してしまった。
有希乃は現在最上級生。慌てずとも、あと数か月で女学校を卒業となる。
それを早める意味もわからないし、そもそも働く場所を勝手に決められてしまうなんて。まったくの想定外だ。
「場所は陸軍の術式研究科。給与はひと月六千円だから、二年もすれば学費も返せるはずだ。住み込みだから家賃もかからない。何も心配する必要はない」
六千円。それは社会に出たばかりの女子が与えられる給料にしては、破格の値段である。
住む場所も与えられ、家賃もないなら生活に困ることもない。
確かに心配する必要はない……条件面では、危惧するところはなくなった。
でも、何故だろう。父の言葉に引っ掛かりを覚えるのは。
見方を変えれば、これは父が働き口を探してきてくれたということでもある。
自分のことをそこまで考えてくれていた──素直に考えれば、そう喜ぶべき場面のはずなのに。
(わからない……わからないけど、何かが……違う気がする……)
釈然とせず、養父の真意を測ろうと冷然とした顔を見上げるが、壮馬は最低限の伝達のみ済ませた後、早々に部屋を出て行ってしまった。
そこではたと気付く。
仕事内容を聞き忘れてしまっていた。というか、説明してくれなかった。
働く場所は『術式研究科』と言っていたが……どういうところなのだろうか。
『──おそらく、あやかしの力を武力に転用するための研究機関ではないかと思います』
気になって、手紙で「怜」にも相談してみたところ、彼女からはそんな返事が返って来た。
「あやかし……?」
『お化け、もののけ、妖怪。どんな呼称でも構いません。信じられないかもしれませんが、そういう人智を超えた超常の者たちは、実際にこの世に存在するのです。そして、それらを使役する術師の技を総称して、『術式』といいます。これは知人から聞いた話なのですが、ここ最近、多くの術師たちが軍に勧誘され、新設された部署に一斉に配属されたそうです。科の名称も合わせ考えて……おそらく、それがその術式研究科ではないでしょうか』
「……それって、お化けや妖怪が本当にこの世に存在してて……それを、軍が研究してるってこと……?」
おとぎ話のような説明に、有希乃は思わず声を漏らした。
あまりにも突飛な話に、思考が上手く追い付かない。
しかし、「怜」が嘘をついているとも思えない。こんな時に冗談を言う人ではないし、何よりその文章からは、真実味と説得力が感じられる。
ただ、そうだとしても、有希乃がその術式研究科で働くとはどういうことなのだろうか。
自分は今まさに超常の存在について聞いたばかりなのだ。そんなところに縁があるとは思えない。
(別に、私……あやかしとか妖怪とか、これまで見たこともないんだけど……)
そんなことを考えながら手紙をめくると、ぽとりと一枚のかんざしが畳に落ちる。
「……え?」
手紙とともに同封されていたらしい。それは以前、有希乃が「怜」に返した栞と同じ花。竜胆の花をかたどったかんざしだった。
「これは……」
続く手紙には、そのかんざしを有希乃に贈りたいとの旨が書かれていた。
女学校を卒業し、社会に出ることへの祝いの品として用意したのだという。
『大したものでもありませんが、受け取っていただければ幸いです』
「そんな……! お世話になっているのは私の方なのに、こんなものをいただいても……!」
そうはいっても、司書を介してこのかんざしを突っ返すのも失礼にあたる。
受け取らざるを得ない申し訳なさと、嬉しい気持ちが混ざり合って、有希乃は小さく体を震わせた。
「……ありがとうございます。大切にします……!」
ただ、就職祝いと言いつつも、「怜」の手紙には次のようなことも書かれていた。
『私はあなたの御父上とは会ったことはないので、確たることはわかりません。ですが、有希乃さんが少しでもおかしいと思ったのなら、そこから逃げてしまうことも、選択肢の一つに入れておくのが良いと思います』
人様のご親族を疑って申し訳ないですが、という記載とともに、いくばくか思い悩んだのであろう、書かれた紙には少しのシワが寄っていた。
『あなたが違和感を覚えたのなら、そこには何か理由があるはずです。人の直感というものは、単なる感覚ではなく、その人自身の経験に裏打ちされたものだと私は考えています。どうかしがらみにとらわれることなく、あなた自身の人生を大切にしてください──』
確かにその通りだ、と有希乃は思った。
自分は軍に知り合いがいるわけでもなく、あやかしにも何の関わりはない。
それなのにどうして父は自分をそこに務めさせようとするのか。正直言って、どこか気味が悪く、信用に値するとは思えなかった。
(「怜」さんの言う通り、自分の直感を大切にしよう……。折を見て、どこか遠いところに引っ越して暮らしていこう……)
父に返すべき学費は、発送先がわからないように何とか細工して送ればいい。
もともと卒業後は一人で生きていくつもりだったのだ。今更恐れることなど何もない。
そんな皮算用を立てて、有希乃は父の命令を拒むことを決めたのだった。