マナが騎士に手を引かれフェアラートの元へ走っている頃、リリィは上空で大きなため息をついていた。
その表情はどこか退屈そうだ。
「フェアラートの顔も見飽きたし、そろそろこの余興もおしまいかしら」
リリィは持っている短剣を手持ち無沙汰な様子でくるくる回している。
その瞬間、彼女の前に一人の男が現れた。
「ならば俺と違う余興でもするか?」
男は挑発的な笑みを浮かべている。
リリィは突如現れた男に驚きながらも、すぐにそれが何者であるかを理解したようだ。
「……これはまた珍しいわね。悪魔が地上にいるなんて、どういう成り行きなのかしら。でもそうね、本番のお楽しみはないわけだし、貴方と殺り合うっていうのも素敵かもね」
リリィはレイの挑発に乗り、楽しげな表情をしながら唇に手を当てる。
「ずいぶんと舌が回る魔女だ」
「だってニ十年ぶりの地上よ! 楽しくないわけがないじゃない! ずーっと魔法を使えなかった分、魔力も溢れているの。そう! 今なら悪魔にだって負ける気がしないわ」
リリィはますます饒舌になり、高揚しながら笑ってみせる。
「封印され己の力量すら測れなくなったか。魔女ごときが悪魔に勝てるはずないだろう」
「……やってみなきゃわからないじゃない!」
「無理だな。まあ、精々しらけさせないようにしてくれよ」
痺れを切らしたようにぎりっと奥歯を噛んだリリィは、勢いよく手のひらを前にかざす。
「そうやって……! 余裕ぶってられるのも今だけよっ!」
黒い渦と雷が合わさった魔法が、凄まじい速さと威力でレイの方へと向かっていった。
──やっぱり魔力が溢れている。
そう実感したリリィは自分の手を眺め、色香のある吐息を漏らす。
だがレイは冷静にその魔法を見据え、剣を盾にして防ぐ。まるで何事もなかったように無表情だ。
「ふふっ。そうよね、あんなくらいじゃ倒れないわよね。……でも次はどうかしら!?」
リリィは愉悦に浸りながら微笑み、先ほどの魔法を今度はレイの四方を取り囲むように放った。
レイの周囲は黒い渦に巻かれ黒光りする雷で充満していく。その光景と大きくうねりを上げる大気にリリィは恍惚とした。
「あはっ、綺麗ね。さすがの悪魔も跪いたんじゃない?」
クスクスと笑うリリィだったが、放った魔法が何かに吸い込まれるようにして消滅していくのを目の当たりにし、その笑みの横でじわりと冷や汗をかいた。
「終いだな」
レイは嘲笑う。
「……そんなわけないじゃない! まだ全力じゃないわ!」
リリィがまた手をかざしたと同時に、レイは瞬間移動したかの如く距離を詰め彼女の手首を掴んだ。
「もう少し楽しめると思ったんだが」
「……っ!!」
冷たい手の感触にリリィは動揺を見ると、レイは冷酷な笑みを浮かべ、囁く。
「魔女の肉は腐敗臭がして不味い。そして俺は不味いものは食わない主義だ。良かったな、魔女で」
「はあ!?」
「死を理解する間もなく死ねるぞ」
「だから! そうやって余裕ぶっ…………」
レイが音もなく振り下ろした剣は、すでにリリィの身体を二つに分けていた。
そのままリリィは塵となり消えてく。
彼の言葉通り、リリィは自分が斬られたと理解するよりも前に消滅した。
「魔術を使うまでもない。余興にもならなかったな」
魔女の消えていく様を鼻で笑い、マナのいる方向を探した。
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マナはフェアラートを救うため、騎士たちが見守る中祈りを続けている。
治癒を初めてから一分ほどだろうか、フェアラートが勢いよく吐血し咽せるように咳き込んだ。
息を吹き返したことに安堵しつつ、そのまま治癒を継続する。
「……マ、ナ…………」
フェアラートが口を開き意識を取り戻した。おぉ、と騎士たちの安堵した小さな歓声が漏れた。
虚けながらも目の焦点にブレはなかったので、もう峠は越えただろう。
マナのこわばっていた顔から力が抜けていく。
「はい。意識が戻ってよかったです。でももう喋らないでくださいね。内蔵の損傷が酷くて、あと少しかかりますから」
「……すまない」
「とんでもない」
にこりと微笑むと、フェアラートはゆっくりと目を閉じた。
…………
……
…
「……もう大丈夫です」
大まかな治癒を終えたマナは息をつく。
額に大量の汗をかいている。そのくらいフェアラートに聖力を尽くしていた。
完治にはまだ時間と治癒魔法が必要だが、ひとまず血の気の戻った彼の寝顔にやっと心から安心できた。
騎士たちは歓声を上げ、次々とマナに感謝の言葉を述べ始める。
「おい、これはなんの騒ぎだ?」
その喧騒に、レイが怪訝な顔をしながら寄ってきた。
「マナ様、この方は……?」
見慣れない顔と服装に騎士たちがざわめく。
当然悪魔だとは言えず、
「知り合いです! 目が覚めるまでフェアラート王のそばに!」
と不自然な作り笑顔で言うと、レイの背中を押して逃げるようにその場から離れた。
「……魔女は?」
「お前の『お願い』通りだ」
「本当……?」
疑いの言葉をかけたものの、レイが一人で戻ってきたということは、そういうことなんだろう。
確かにあの魔女の魔力は感じられない。
レイの言う通り、魔女は消えた。
しかし、闇のような空間は一向に晴れず、魔物に変えられた騎士たちも人間に戻らない。
そんな困惑を察したのか、レイがその答えを呟いた。
「魔女の残痕か」
「残痕…?」
聞いたことのない言葉だった。
「呪いみたいなものだ」
「……どうしたらその呪いは解けるの?」
「普通の呪いならばかけた本人に解かせたりもできるが、残痕となれば誰かが浄化するしかあるまい」
「浄化……」
浄化は治癒や解毒魔法などより高度な魔法で聖力の消費も激しい。
今の自分にそれだけの聖力が残っているのか、仮に全快だったとしても王宮全体を囲んでいるこの空間を浄化できるのか。
マナの顔が曇っていく。
「レイは……浄化の魔術とか使えないの?」
「悪魔がそんな神聖な魔術を使うと思うか? 消滅ならすぐにでもやってやるが」
小馬鹿にしたようにレイが答えてきた瞬間、自分がどれだけ愚かな質問をしたのかに気がついた。
焦燥感に駆られ口にしてしまった言葉、それがまた自分の無力さを痛感させられる。
──今の私にできることって何?
そう思い詰めていると、ふとマナとレイの間隙を縫うように「お願い! しっかりして!」という女の人の悲痛な叫びが割り込んできた。
聖力が残っておらず体力も底を尽きそうだったが、その切実な声にマナの身体は自然と反応していた。
「どうされました?」
マナは女性の肩に手を添えて、落ち着かせるようにゆっくりと話しかけた。
「夫が……魔物になって倒れたまま……。夫だけじゃありません、就任式の途中で騎士たちが変貌していって……」
女性は顔を手で覆い、さめざめと泣き始める。
この夫婦以外にも大事な家族、恋人、友人がリリィの被害にあっているに違いない。
魔女が消えても傷痕は残り続ける。残痕とはよく言ったものだ。
そしてその傷痕を消せるのが聖女であるならば、答えは一つ。
「安心してください。私がなんとかしてみせます」
マナは王宮の中心となる場所を探す。
おおよその目星をつけ、そこに膝をつけると胸の前で手を組み静かに目をつむった。
治癒魔法の時とは違った、真珠のような虹彩をした清澄な光がマナの身体を包み、その浄化の光はマナを中心にして拡大していく。
──もっと広く、もっとたくさんの人まで。
眉間にしわを寄せ強く目をつぶり一層聖力を強める。
しかし限界に近いマナは半径三メートルくらいしか浄化域を拡大できず、状況が変わったとは言い難いものだった。
当然マナもわかっていた。
自分の無力さに心が挫けそうになる。そんな時、消え入るようなか細い声が聞こえた。
「マナ様……。どうか、我らが同胞を、皆の家族を……お救いください……」
治癒魔法で意識を取り戻した騎士だった。崩れた壁にもたれかかりながら切実に訴えてくる。
それを皮切りに、次々と助けを求める声が胸に響き渡った。
「マナ様……どうか」
「助けてください……」
「仲間を戻してやってください!」
「マナさまああああ!」
ここにはいない倒れた騎士たち、それを救助している人たち、子供たち。
幻聴かもしれない。でもみんな助けを待っている。自分ならやってくれると信じてくれている。
──諦めない!
マナは今一度強く祈る。レイは腕組みをし、冷笑しながらそれを見ていた。
「実に滑稽だな。お前の力では浄化は無理だ」
「それでも! 助けを必要としている人たちが大勢いる!」
「何故そこまでして助けようとする? 魔女を引き入れたのはこいつらだろう? 諦めて、他の国にでも移った方が楽じゃないか?」
レイの言うことだって痛いほどわかる。
でも、目の前で傷ついて泣いている人たちのことを見て見ぬふりなんて出来ない。仮にそうしたとしても、いつか絶対に後悔する。
母が大聖女だからとか自分が聖女だからとか、そういうのは関係ない。
この気持ちは根源的で昔から心の底にあるもの。それを曲げてしまったら、きっと自分ではなくなってしまう。
「……この人たちは何も知らなかっただけ。子供たちともまた遊ぶって約束をしたの。それに、この場所はずっとお母さんが守ってきた場所! それを見捨てるなんて、私が許さない!」
聖女として、してはいけないこと。悪魔と契約?
ううん、違う。
────覚悟を決めた。
もう迷いはない。
潤みながらも力強さのある真っ直ぐな瞳でレイに告げる。
「レイ! 私に力を貸して! これは命令、契約よ! 大聖女になったら……私の心臓をあなたにあげるわ!!」
レイは不敵に笑い、問う。
「二言はないな?」
一度、大きく頷く。
「いいだろう。契約成立だ」
その瞬間──、レイは唇を重ねてきた。
「……!!」
「美味いな。やはり聖女の生気も人間のそれとは違うようだ」
唇を離したレイはそう言いうと、自身の唇を親指で拭った。
「なんで……、キスなんか……!」
「命令通り、お前に力を分けてやった。この辺り一帯なら浄化できるだろう」
────確かに身体から発せられている聖力が増している。今までに感じたことのない力が溢れてくるのがわかる。
これほどの力があればきっと浄化も出来る。
「足りなければもう一度分けてやるが?」
視線をこちらに下げて舌なめずりをするレイに心臓が高鳴った。
青い瞳が妖美に煌めいていて、また吸い込まれそうになってしまう。
「っ、十分だから!」
そうなる前にと、急いでレイから目を逸らした。
マナはゆっくりと深呼吸をし、もう一度目をつむる。
そして、全聖力を捧げ祈った。
マナを中心として、浄化の光が王宮一体を包み込んでいく。
しんしんと舞い散る雪のように、淡い輝きをした粒子が降り注いだ。