うすくれないの桜の花弁が、陽光の間から重なって漏れいずるようにさわさわと揺れている。春から初夏へと向かおうとするそれが南から吹いているのを、葉牙助《はがすけ》は行脚《あんぎゃ》に疲れたちいさな体に静かに浴びていた。
 まぶたは半分閉じ、そこから枯れ葉色の大きなひとみに、若いひかりが潤んで宿っている。

「風が気持ちーな……」

 少年の高い声が空気をちいさく響かせる。
 葉とひとしく、彼の前髪がさわさわと揺れる。陽光にあたるとひとみと同じく、琥珀と枯れ葉が入り混じったような淡い色に変化する。
 頬を撫でるそれは、かすかな熱を帯びているようにも、冷えているようにも感じる。歩き続けて血が溜まった足首や、うっすらと汗が浮かぶ細い首すじに、なんとも言えない塩梅の熱を与えてくれた。
 ふたたびそよとした風が吹き、葉牙助の前髪をさらりと揺らすと、彼は子犬のようにぶるりと顔を揺らし、白昼夢から目覚めた。
 数回まばたきをし、ぐっと足の裏のすじを伸ばす。そのままくるくると足首を回す。両腕を限界まで伸ばし、小気味良くぱっと立ち上がった。

「いよっし、行くか」

 燦然《さんぜん》と輝く純白の陽光。青い空を遮り、視界を曇らせるほどのそれに、 手をゆびいっぱいに広げた。健康的な肌の色に流れる血潮が目に鮮やかで、葉牙助は大きな目をすがめた。
 日向が溶けるようなあたたかなにおいがする。
 背負った四角く黒い薬箱は、彼の身の丈を覆うほどの大きさで、体のちいささを目にしたものにうったえてしまうようだった。
 大の男の腰の高さまでしかない背丈。短い犬の尻尾のようにつむじで結えた髪を振ると、きら、きらと透ける茶色の髪の光沢が煌めく。葉牙助は足取りかろやかに黄土色の帰路を歩いていった。

 不穏な空気を感じ取ったのは、葉牙助があゆみを進めて数分が経ったころのことだった。
 赤い暖簾《のれん》を落とした出茶屋の周囲に、わらわらと人が集まり、それが葉の重なりのようにざわざわとわめいている。

「な、なんだなんだ?」

 遠目から見ていた葉牙助は、その群れに近づいてゆき、人の間からひょこひょこと飛び上がって顔を出した。彼のつむじから跳ねるように結ばれたひとつの髪が、左右に尾のように揺れ動く。
 出茶屋の店主が誰かと話している。店主は五十代かと思われる男で、目元やくちもとに見られる小皺に、日が当たって白いすじのようになっていた。店主は話し終わると、深くため息をつき、白いものが入り混じった眉を寄せた。
 葉牙助は驚いた顔のまま、耳を寄せた。周囲の雑音に溶かすように。

「江戸までの道に……どうやら辻斬りが出たらしい」

「ええっ! それ本当かい。嘘だろう。あたし、この後帰り道につくつもりだったのに……」

(……辻斬り……?)

 村人の言葉が、葉牙助の脳内に灯る。
 途端、爆《は》ぜて赤く燃え上がり、彼の心臓に熱く降りていった。
 腰が震えて力が抜けそうになる。背負っていた薬箱の肩紐が、するりと肩から落ちそうになり、慌てて背負い直した。

「つ、つじきり」

 やがて人々の話が終わり、店主を中心にした輪から人がはけていっても、葉牙助はその場に縫いとめられたように立ち止まっていた。

 昼の風が夜風のようにつめたい。
 出茶屋の赤い暖簾が、少年の飛び跳ねと呼応するようにゆらゆらと中や外へ揺れている。

「なあ! 頼むよ、おっさん! 俺、帰り道がそんなに危ないことになってるなんて知らなくてさあ〜!」

「あ~だめだ、だめだ! 俺んとこで紹介できる護衛なんていねえよ」

「そ、そんなあ~」

 葉牙助は足の動きを止め、あからさまにがっくりと肩を落とした。首も落とし、高く結ばれた髪が首すじに落ちる。いつの間にか陽が落ちかけていて、背後から赤と橙に滲んで溶けた陽光が彼の髪をちらちらと照らしていた。真の黒ではなく、わずかに透けた茶色をしているそれが、陽にあたると際立つ。
 ひとしきり落ち込んだ後、はっと顔をあげると、周囲をきょろきょろと見渡した。

「ちくしょー。だ、れ、か、い、ね、え、の、か……」

 葉牙助の目に止まったのは、出茶屋の縁台の緋毛氈の上に座った男であった。

「あ! あいついるじゃん! 腰に刀さしてる兄ちゃん!」

 ぴっと並行にしたゆびさきには、夜を塗り込めた烏のように黒い衣装を着て、丸いまぶたを静かに閉じ、片手で湯呑みをつかんで茶を飲んでいる男がいた。
 ほんのりと桜色の爪をした白いゆびさきは、雪を肌に溶かしたようで、触れるだけで消えてしまいそうな儚さがあった。肌とひとしい、白いまぶたを閉じ、頬にはそれが落とした長く黒いまつげの影が、湖に落ちた花のように浮かんでいる。
 葉牙助は自分で気づかずぼんやりと口を開け、しばらく彼を見つめていた。
 赤い陽光に照らされて、輪郭がぼんやりと溶けている彼は、陽炎のようにゆらめいており、静かな佇まいの中に、燃える命の輝きを感じさせた。
 彼の瞳が急に見開いた。
 白い肌の間から、金色のまなこが覗く。
 光を凝縮したようなその色。獲物をとらえる前の猫のように、湯呑みの真緑の水面を見つめているだけで、何かを射殺すような凄絶なうつくしさを感じた。
 葉牙助は、そのうすきいろに吸い込まれるように止まっていたが、背後の森からばさりと大鴉が飛び立った音で、はっと肩を揺らした。

「あ~、あいつはやめとけ! 悪いこた言わねえ。昨日も来てたんだが、他の客に難癖つけられて黙ってたと思ったら、いきなり相手の顔面殴って歯ぁ折らせたからよ……」

 隣から店主の声が大きく響き、葉牙助は頬を叩かれたように振り返った。結ばれた髪が、おっぽのようにふらりと揺れ、夕焼けの光沢がきらりと流星のごとく結ばれた紙紐から毛先までを流れた。

「あ! おい、小僧!」

 店主の制止も聞かないまま、ぱたぱたと漆黒の侍の元へ駆けていく。
 葉牙助の足音が近づくにつれ、湯呑みに意識を寄せていた侍は、湯呑みからくちびるを離し、彼の方を見やった。形の良い黒いまつげをあからさまに歪ませ、黄色いひとみは夕日を集めるように静かに冴えている。
 あかるく笑っている葉牙助に対し、まるで汚い鼠でも見るようなまなざしだ。
 ききぃ、という音が鳴るかのように、葉牙助は侍の足先のすんでで両足を揃えて止めた。
 侍はさらに眉間の皺を深め、湯呑みを握る手の力を強くすると、太ももの上にそれを置いた。立った茶の湯気から漏れる緑のにおいが、葉牙助の鼻を掠める。
「なあ、お前さ! 護衛の仕事とか興味ない?」
 葉牙助は薬箱の肩紐を両手で握りしめ、侍に笑顔を向ける。きらきらと若いひとみを光らせ、花が咲いたような彼に、侍は眉を寄せ、警戒の態度を見せるだけである。

「あっ、俺は一橋葉牙助ってんだ! 江戸の、唯一の薬売り。薬師の十護郎兄さんの作った薬を、外の村に売った帰りだったんだけど、何でも江戸への帰り道に影虎っつう辻斬りが現れるって聞いてさ! 安全に帰れるように護衛になってくれるやつを探してるんだけど、よかったらお前、江戸まで護衛してくんない? 金は今あんまし余裕ねえから後払いになっちゃうんだけど……」

 うるさく早く、一生懸命に話す葉牙助の姿を遠目に見ていた店主は、呆れて片手で額をおさえながら、はあとため息をついた。

「ああ、あいつ言わんこっちゃねえ……。知らねえぞ」

 葉牙助はなおも口を早く動かし、両手を握ったり開いたりしながら、背筋と少し踵を上げて、侍に話しかけていた。
 侍は途中からまぶたを閉じて俯いていたが、どこかで堪忍袋の尾が切れたのか、おもむろに口を開いた。

「うるせえな」

 小声だが、刃物のような声だった。

「へ」

 葉牙助は、笑顔のまま固まって瞠目した。

「めんどくせえな。んなことになってんのかよ」

 侍は吐き捨てるように言い、湯呑みを緋毛氈の上に傷つかぬようにそっと置くと、さっと立ち上がった。腰まで届くほどの漆黒の長い髪の先が、しゃらりと赤を背景に左右に揺れる。
 葉牙助は唖然とした顔で、侍の後ろ姿を見送る。
 夕日の茜に照らされた黒いその姿は、彼が歩くごとにうなじでひとつに結ばれた黒髪ごと、輪郭が増すように金色にふちどられている。
 増していく金色のすじを目があくほどに見つめていた。
 懸命に誘ったにも関わらず、こちらにいちぶの興味も見せない侍に対し、炎のように苛立ちが腹のあたりから頬のあたりまでのぼって来る。
 葉牙助は徐々に背中を丸め、顔を赤くし眉間に皺を寄せた。
 強く握った両こぶしが、白くなり、わなわなと震えた。

「おい待てよ! 人が丁寧に自己紹介して頼み事してるってのに、なんだよその態度!!」

 侍は足を止めた。
 すっと首だけを後ろに向け、皮肉な笑みを浮かべる。

「その影虎が俺だって言ったらどうする?」

「えっ」

 葉牙助は口に手をあて、瞠目した。

「え!?」

 口に当てた手を離し、さらに声と目を大きく開ける。

「あばよ、クソガキ」

 影虎はふたたび凪いだ顔になると、また葉牙助への興味を失ったように前を向いて歩き出した。
 黒い姿が、さらに濃い森の闇の中へと溶けていく。
 葉牙助は茫然と侍の後ろ姿を見つめ続けていた。

「あいつが……、影虎!?」

 カァと鳴いた烏が、黒い葉の群れからばさりと飛び立つ。雲が光に溶け、透き通るような夕日が、不思議と怖さを醸し出していた。