――百年に一度。
 まがつひの神の社に、厳かに村人が集まる。たくさんの供物を抱え、その中心には白装束の娘がひとり。

「此度の贄を連れてまいりました」

 捧げられるのは、無垢で純潔な乙女と決められている。

「さぁ、社の中へ」
「……」

 村長(むらおさ)に背中を押され、扉を開かれた社の中へ娘が一歩踏み込む。
 さらに一歩、もう一歩。掃除で訪れることのある社はいつも通りに静寂の中にあり、古びていながら綺麗に保たれている。

「――では、頼んだぞ」

 娘の背後で社の扉が閉ざされた。
 最後に聞こえたのは、母親の叫びにならない引き攣り声だった。
 社に供物と捧げられた贄は、神域(神の元)へ連れていかれると言われている。

 白いもやがかかり、静かに景色を変えていく中で、娘は口元に小さく弧を描いた。

「大丈夫よ、お母さん。わたしは、幸せになりにいくんだから」

 こじんまりとした社は娘が瞬きする間に一変、どこか寂しげに感じる仄暗い座敷へと所在を移動して。
 ここの主であろう出立ちの、和装の男が娘の前に現れた。……その顔は、布の面で覆われ隠されていたが。

「此度の贄となりました。(いと)と申します」

 娘はその場で、()()()()()()に三つ指をついた。
 衣擦れの音は近づき、「そうか」と答えて娘のそばに腰を落とす。

「我が妻となるそなたに、祝福を授ける」

 まがつひの神は娘の下げられた頭に手を添えた。

「そなたにとっては畏怖でしかない私に覚える恐怖や醜悪、芽生える負の感情が、そのすべてが情愛に変わるよう――」

 それは、祝福のようで呪いのような。
 まがつひの神を嫌悪すれば嫌悪するほど愛してしまうという、望まぬ婚姻を結ばれた生贄にとっては救いであり、しかしやはり残酷な、まがつひの呪い。

「私と共にある生涯が、苦痛で満たされることのないように」

 しかしまがつひの神にとっては、それが贄として差し出された娘にしてやれる唯一の優しさであった。

 祝福を授けられた娘は顔を上げ、表情のない布を見つめた。

「……そんなに、醜いのですか?」

 娘は――おもむろに、布をめくって覗き込んだ。

「んなっ!?」
「まぁ、麗しい(かんばせ)。唇は割れておりますけれど、それは乾燥のせいではないでしょうか? ちっとも醜くなんてありませんよ」

 驚き頬を染めたまがつひの神に、娘はにっこりと微笑んだ。

「せっかくの祝福ですが、残念です。わたしには、効かないと思います」


 *


 禍津日神(まがつひのかみ)
 凶事や災害を司る、災いの神。厄災をもたらす神。

 村人達は災いを恐れ、まがつひの神を丁寧に恐々と祀った。大昔にあった大厄災を境に、百年に一度、選ばれた乙女を贄として捧げ続けてきた。

 禍津日神は村人達にとって畏怖の存在。
 災害を起こさぬよう祀り、起こった災害を治めるように祀る。禍津日神は、神であり崇めるには恐ろしすぎる存在だった。

 だから。

「なぜ旦那様は、昨晩はわたしの寝所に訪れてくれなかったのですか?」

 絃のこの発言に、まがつひの神は布面の下で白目を剥くしかなかった。

「あのな、娘よ」
「絃です」
「……絃よ」

 いまだかつて、まがつひの神の元へ嫁がされた娘の中にこんな者はいなかった。みな怯え、震え、いつ殺されるのかと生を諦めていたから。
 その様子がまがつひの神の目にはあまりにも哀れで不憫に映り、ならばと祝福を与え、人としては長く神としては短い生涯にそっと寄り添って終わりを見届けてきた。そんな娘ばかりだった。

 だから、こんなにも積極的な娘ははじめてだった。

「そなたは意味を理解して言っているのか?」
「はい。初夜です」
「しょっ……やっ……」

 そう、こんなにも積極的な。
 まがつひの神はたじたじとした。たじたじとするしかなかった。

「もしかして、神様の間にはそのようなまぐわいはないのでしょうか」
「まぐわっ……!」
「では、愛情はどのようにしてお伝えすればよいのでしょう?」
「んぐぅ……!!」

 白目を剥くのも必然だった。

 ちなみに、神にもそのような行為はある。
 愛は言葉で伝え、重ね、交わり、伝え合う。人と同じく。欲望もある。

 だが、まがつひの神はこれまでの娘に手を出すことは決してなかった。
 向けられる情愛は嫌悪。恐怖。祝福を与えた本人だからこそ痛く知る、真の気持ち。
 哀れな生贄の気が少しでも休まればいいと望む、不器用な思いやり。

 そして絃もまた、祝福を授けた娘であるから。

「そなたはよほど、私のことを忌避しているようだ……」

 これほどに想いを向けられたことはない。
 まがつひの神は暴れる鼓動を鎮め、深く息を吐いた。

「まぁ、忌避だなんて。こんなに愛しておりますのに」

 しかし、絃はまた躊躇なく顔の布をめくった。

「口付けても?」
「否ァ!!!」

 まがつひの神は叫んで絃の手を払った。
 布が荒い呼吸にひらひらと揺れる。隠されて見えることのない頬は、耳の先まで真っ赤になっていた。

「照れ屋さんですこと」

 ころころと笑う絃に、まがつひの神は心の底から困惑した。

「忌避でないなら、なんなんだ? なぜ私にそんなにも情愛を向ける?」
「愛しているからです」
「私が恐ろしくないのか?」
「とても愛おしいです」
「答えのようで答えになっておらんのだ」
「旦那様は、なぜそんなにも疑うのでしょう」

 絃は細い眉を下げて目線を伏せ、楚々と憂いた。

「言葉だけでは信じてくれないのに、口付けも拒否されて……」
「な、それはっ……」

 まがつひの神は絃のそんな仕草に騙され、再びたじたじとした。

「し、仕方がないだろう。私は、真に愛されたことがないのだから……」

 偽りの愛しか向けられたことのないまがつひの神には、絃の気持ちが真の愛なのかもわからない。信じていいのかさえわからない。
 受け入れることが正しいのか、これまでのように遠ざけるのが正しいのか。絃に祝福が効いていないことも、信じることができない。

 悩み困惑するまがつひの神の言葉に顔をあげた絃は、こてんと小首を傾げた。

「こんなにも素敵なのに?」

 のれんをくぐるように気安く布をまためくり、まがつひの神は野太く「マッ」と叫んだ。
 絃の目には頬を紅潮させた美丈夫が映っている。

「この布面は、なぜ?」
「ひ、人は、私は恐れる。……恐れてほしくない」
「むしろ、見せて差し上げればよかったのに。きっと皆、旦那様の(かんばせ)に酔いしれたでしょう」
「そんなわけないだろう」
「あぁでも、そうしたら今わたしはここにいないかもしれないですね」

 そっと布を元に戻した絃は、静かに尋ねた。

「これまでの贄達は、どうなりましたか?」
「……皆、看取った」
「そうですか」

 ふと、無言がやってくる。
 布越しでも絃の様子がわかるのは、話題のせいかそれとも神の成せる技か。
 ここでの死を知った絃にまがつひの神が口を開こうとして、けれどつぐんだ。

「やっぱり、優しいお方」

 あまりに可憐にはにかまれて。
 絃がまがつひの神の手をとって、小さな両手が柔らかく包む。

「わたしはずっと前から、旦那様を知っていましたよ」

 その温もりに、まがつひの神の胸が小さく鳴った。


 *


 まがつひの神の社の掃除は、持ち回りが決まっていた。
 当番の家は社の周りを掃き、雑草を抜き、蜘蛛の巣を払って、手を合わせる。
 月に一度は社の中の掃除もあったが、日々の決まりはそれだけ。子供のいる家は、よくそれがお手伝いにされていた。

 だから絃も、その例外ではなかった。

(あの人は誰?)

 絃がまがつひの神を認識したのは贄となる六年前。十になったばかりの頃に、いきなり社周りに現れた長身の男に、絃は驚いた。

(野盗……とは、全然違う)

 長身の男は、子供の絃が見てもわかるほど上等な衣を纏っていた。黒の長髪はゆるく結われ、背中に垂れていて。
 優雅な振る舞いで、質素に生活を営む村では決してお目にかかれないような高貴さがあった。

(お客様かな?)

 絃は単純に村長の客人だと考えて、あまりに綺麗な人だから話しかけるのはやめておこうと社に背を向けた。
 身分がわからなければ話題にしていいかもわからず、誰にもそのことを言わなかった。
 きっと自分が言い出さなくても噂になるだろうと、そうでなければ大人たちがわざと噂にしないのだろうと、子供の絃は賢く予想した。

 しかし、その予想は大きく外れることとなる。

(あの人、まだいる)

 見かけるのはいつも社のそばで、変わらぬ高貴さで。
 絃が姿を見つけてから、早ひと月。噂になることなくひっそりと、長身の男は存在し続けた。

 それも、見かけるたびに当番の者に礼を言っているのだ。
 長身を屈めて出立ちに似つかわしくなくおどおどと、当番の者のあとをついて回って。
 邪魔だろうし、見るからに無視などできない身分差があるのに、なぜか誰も応えず噂にもならない。

 顔がぼやけて見えないことも、絃にとっては不思議だった。

(なぜ顔が見えないの?)

 なぜ誰も応えないのか。なぜ村は、静かなのか。
 絃の「なぜ?」は恐怖ではなく、好奇心に変わっていった。

(もののけ?)

 長身の男の見た目に恐ろしさはない。顔が見えないことを除けば、想像の中のもののけとは非なる麗しさがある。
 おどろおどろしい雰囲気どころかむしろ神々しさを醸し出していて、神の社周りにしか姿を現さない。だから、そこから自然と導き出される答えは――。

(もしかして、神様?)

 村にとって、大事に大事に祀られている神様。
 厄災を除けるため、厄災を起こさぬよう怒らせないようにと丁寧に慎重にお世話をしている神様。百年に一度、生贄を捧げる神様。

(あの方が……)

 村人は皆、絃の両親にしても、生贄に選ばれることは栄誉だと口にする。
 その裏では自分の娘が選ばれないようにと願っていることを、絃は知っていた。
 選ばれるのが自分じゃありませんようにと、その年の娘たちは誰もが祈っていて。

(あんなに素敵な方なのに)

 生贄とは、まがつひの神の花嫁。嫁がされた娘が帰ってきたことも、その後に姿を見た者もいない。
 生きているのか死んでいるのか。生かされたのか、殺されたのかもわからない。禍々しい神の元にゆく、生贄の恐怖は計り知れない。

(……そんなにみんなが恐れるなら)

 返事もない、姿を認めない村人に、掃除をしてくれたとへりくだってお礼をするような神様だから。
 絃の同情はいつしか、意識し続けたことによって恋情へと変わっていった。

(わたしが、あの方の元に)

 絃は、生贄になることを心に決めた。



「――ですから、ね。旦那様」

 そんな経緯と決意を打ち明けて、翌朝。
 布ごしですでに目も合っていないというのに顔をそらすまがつひの神を、絃は壁際に追い込んでいた。

「安心して、わたしの寝所に訪れてくれて構わないのですよ?」

 まがつひの神の後頭部でゴンッと鈍い音が立った。
 壁にしたたか打ちつけた後頭部よりも、壁の方がぱらぱらと脆く欠片を落としていた。

「あ、あのな。そういうことではないのだ」
「では、どういうことなのですか」

 絃がずいっと顔を近づけると、布面はぎこちなくさらにそらされていく。

「わたしには魅力がありませんか? 旦那様のお好みではありませんか?」
「そなたは、美しくはあるが……」
「胸の大きさが足りませんか?」
「そ、そういうことではなくてだなぁ!」
「揉めば大きくなると聞きます。揉んでくれますか?」
「真面目に詰め寄るな!」

 絃は村では引き手数多の美人だった。
 年頃になり、縁談話だっていくつもあった。隣の村からわざわざ会いに来た男もいた。
 そのすべてを断って、絃は生贄に立候補したのだ。愛してくれた両親よりも、絃を欲しがる男たちの嘆きのほうが大きかったほどだ。

 ただ、その誰もが絃のこんな愚直は性格を知らなかっただろう。
 あまりに直球で大真面目な絃に、まがつひの神は降参の意で小さく両手をあげた。

「そなたの気持ちはわかった。こ、ここ好意はしかと受け止めた。が、少し時間をくれ」
「時間ですか?」
「そなたは私のことを認識し、好いてくれていた期間が長いのだろう」
「片想い六年です」
「私はそなたを……あー、社を掃除してくれる娘とは認識していたが、それだけだったのでな……」
「継続片想い……」
「か、悲しげな顔をするな、違う。きちんとそなたと向き合うから、時間が欲しいと」
「では、まずは口付けをしますか?」

 絃は高さのあるまがつひの神に手を伸ばし、本日はじめての愛しい旦那の顔を覗き込んだ。

「ええい、ぺらぺらと気軽に布をめくるな!」

 が、いつも通り叩き落とされた。むぅっと絃は頬を膨らませる。

「男女の育みは、ゆっくりとが基本だろう!」
「……左様で」
「順序というものがある!」
「ですが、すっ飛ばしてわたしはもう妻です」
「そ、そういう場合もある……!」
「ならば順序としては、やはり初夜が正しいのでは?」
「そんっ、いやっ……」

 顔を見せてくれないことへの腹いせの、絃の意地悪な返答はあっさりと形勢を逆転させた。
 逃げ場なく、突破など容易い絃の囲いに大人しく追い詰められているまがつひの神は、どう見てもすでに尻に敷かれているようだった。

「わ、私は奥手だ……ゆっくり、ゆっくりでお願いしたい……」

 情けなく口ごもった懇願に、絃は「ふふ」と笑いをこぼした。

「わかりました。ではまずは、お顔を見せてほしいです」

 まがつひの神が、緩慢に自ら布面に手をかける。
 のぞいた瞳が「これでいいだろうか」と不安に揺れていて、絃は幸せいっぱいに微笑んだ。

「やっと、目を合わせてくれましたね」


 *


 これまでの生贄にも、社に手を合わせる人間はたくさんいた。

「……また、来たか」

 闇の深い時刻。
 この時間に社に訪れるのは、絃の両親ではない。

「あの男はなんなのだ」

 人目を避けるようにして、社に手を合わせる男は村長の息子である。
 膝をつき、闇をいいことに声を殺して涙を流す。弔いにしては切実な祈りを、震える手に込めて。

「――絃を返してくれ、か」

 毎夜の如く、男は願っていた。



「今日も霧が濃いですね」
 神域はいつも霧に包まれている。
 ここにやってきて以来、絃は晴れた空を見ることがなかった。
 広い御殿は二人で住むにはとても広く、外廊下から外観を見ても先はかろうじて見えるくらい。
 はじめのうちは探索を暇つぶしにしていた絃だが、何度も迷子になり途中で諦めてしまった。

「晴れていたら、お庭も歩けるのに」

 座敷から見える庭も大層立派で、絃は残念に思い声を萎ませた。

「そなたは、晴れがよいのか」
「晴れというよりも、移ろう天気がいいんです。人の世のように」

 「そうなのか」とまがつひの神は真っ白な空を見上げ、人差し指と親指でつくった輪をフッと吹いた。
 たちまち、風に霧が流され白い世界に終わりがやってきた。

「霧が……」
「意のままにできる。私が望めば」

 まがつひの神は(おご)ることなく平然として、しかし決まりが悪く苦々しい声を出した。

「……雨だな」
「それでもいいんです」

 ぽつぽつと小さな雨粒が庭の花を、葉を、石を打つ。
 湿った匂いが絃の鼻をつき、人としての心地を思い出させてくれた。神域は、良くも悪くも澄みすぎているから。

 水がなくても萎れることのないらしい花を眺めて、絃は朱色の橋が架けられていることに気づいた。

「池もあったんですね」
「あぁ、ある。落ちぬように」
「うっかり落ちないように、お庭を歩くときは手を繋いでくれますか?」
「……ん」

 今ではない、晴れの日の約束をして。
 布面を外してくれるようになったまがつひの神はちょっとしたことで頬を赤らめるが、絃のお願いには素直に頷いてくれる。
 ちゃんと向き合ってくれる優しさが絃には嬉しすぎて、緩む頬をそのままにまがつひの神にこてんと頭を預けた。

「雨だと、畑仕事ができなくなります。家にこもるしかないので、そんな日は家族がみんな家にいました」
「そうか」
「父は農具の手入れを。母はいつも通りに家事をしますけど、家にみんながいると気持ちがゆったりとします」
「そうなのだな」
「わたしは母の家事を手伝いながら、(つむぎ)――妹の髪を、綺麗に梳いて結っていました」

 絃は思い出す。幼い妹の頭の小ささを。柔らかい髪に、子供らしい汗の匂いが少し混じる。
 落ち着きなく動く口はつたなくて、父と母も耳を傾けて笑った。雨が屋根を打つ音が聞こえなくなるくらいの、ささやかな時間。

 あの賑やかさが、ふと恋しくなってしまった。

「……少し、寂しくなってしまいました。旦那様のお髪を結わせてもらえませんか?」
「構わん」

 目線を庭に投げたまま、まがつひの神が頷く。
 絃は髪紐を解き、背中に流れた髪に触れた。

「とってもさらさら」

 紬とは違う。きちんと手入れをされ、香油を塗り込まれたように花の香りがする。ツヤがありハリがあり、編み込んでいけば太さが出る。
 紬とは違う。けれど、それが愛しい者の髪だと思えば、絃の寂しさは和らいだ。

「どんなお手入れをされているんですか?」
「特に何もしていないが」
「そんなはずは。こんなにさらさらなのに」

 「神様特典でしょうか」と絃が笑うと、なんだそれはとまがつひの神が返す。

「旦那様のお髪を梳いている方が羨ましいです」

 いつもは毛先に近いところで結われている髪型を、絃は丁寧に編み込んで三つ編みにした。
 普段と違う雰囲気になり、見慣れない横顔に絃が頬を桃色に染めていると。

「……そなたもやってやろう」

 くるんと反転させられ、絃の視界はまがつひの神の背中から雨降る庭へ。
 結いていた髪紐はあっという間に解かれ、まがつひの神の手にはつげ櫛が持たれていた。

「まぁ、いつの間に」
「先ほど言った通り。意のままだ」
「なんでも出せるのですか?」
「そなたの髪は細いな。小ぶりな花のほうがいいか」

 手際よく髪をまとめ直され、絃よりも器用に編み込まれて片側に流された。
 まがつひの神の手からポンポンと小ぶりで可憐な花が咲き、編み込みに差し込まれていく。まがつひの神の手が動くと、ふわりと香りがくすぐる。

「旦那様と同じ香りです」
「この神域にある花だからな」

 最後のひとつを差し終えたまがつひの神は、嬉しげな絃に微笑ましく口元を緩めた。――それと同時に、心苦しくなっていく。

「……ここには、私とそなた以外に誰もいない。だから、私の髪を梳く者など、いない」

 まがつひは厄災。神でありながら他の神とは異なる、異質な存在。
 そんな神に仕えたいという物好きはおらず、まがつひの神も望まなかった。

 だから御殿はいつも人気なく、静まり返っていた。

「他に誰も住んでいないのですか?」
「おらぬ」
「奉公人などは……」
「私にはおらぬ」

 家族を想い、寂しむ絃だから。
 この広い神域で二人きりというのは、孤独を感じるかもしれない。
 ゆえに、絃やほかの生贄にもせめて不自由はさせまいと、まがつひの神が生活のすべてを自らこなしていたが。

 そんな後ろ暗いまがつひの神に、対して絃はふんわりと頬を緩めた。

「じゃあ、いつもご用意されているお食事は旦那様が?」
「……容易いものだ」
「わたしの好物ばかり並んでいますよ」
「そなたが嬉しそうに食べるからだ」
「とても美味しいんです」

 振り返った絃は、うつむくまがつひの神の頬に手を添えた。

「旦那様の好物も教えてください」

 まがつひの神が目を向けると、花に負けず可憐な絃が微笑む。

「次からは、わたしが作ります」

 まがつひの神は、まぶしい太陽を見る心地で目を細めた。


 それから二人は、天が日差しを降りそそぐ日には手を繋いで庭を歩いた。
 雨を落とす日には座敷で庭を眺め、寂しさを思い出した絃がまがつひの神の髪を結って。
 まがつひの神もまた、そんな絃を思いやって髪を結ってやるのだった。

 そんな和やかな日々を、寄り添って過ごしていった。


 *


 絃の一日は、日の出の前から始まる。
 釜戸に火を入れて湯を沸かし、出汁をとってみそ汁を作る。白米を炊けば、絃にとってはそれだけでご馳走のできあがりだ。
 前日から仕込んでいた漬物、煮物も小鉢に盛り付けて季節の果物を添えれば、後ろで見ていたまがつひの神が「見事なものだな」と感心する。
 まがつひの神が用意してくれる御膳には劣るが、意のままに出せてしまうそれが絃の手によって同じように作られていくことがすごいらしい。

 「美味しい」と欠かさず言葉をくれるまがつひの神に、絃はやりがいを感じて幸せになった。


 そして、食事が終われば。

「旦那様、逃げないでください!」

 絃がずっと気になっていた、まがつひの神の割れた唇に保湿のための花蜜を塗り込もうと一悶着が始まる。

「ええい、自分でやるっ」
「そんなことを仰って、ご自分ではやらないじゃないですか」

 花蜜は絃が望んで出してもらったものだ。まさかこんな使い道をされるとは、まがつひの神は思ってもみなかった。
 指先に花蜜をすくった絃が唇に触れようとするのだから、まがつひの神は気が気ではない。

「そなたは自分の唇に塗ればいいだろう」
「旦那様に塗り終わったら、わたしも塗りますよ」

 それが、だめなのだ。
 まがつひの神は花蜜を渡した最初に、何も知らずに塗ることを許してしまった時のことを思い出した。
 細い指先が唇をなぞり、くすぐったい感触。見上げる絃の視線が唇に一生懸命で、まがつひの神も自然と絃の唇を気にしてしまって。
 塗り終わった絃が指先に残った花蜜をそのまま自分の唇に持っていって、じっと見つめるまがつひの神にはにかむのだから。

「……っ、自分でやる!」

 頬を真っ赤に染めて、押さえようと手を伸ばしてくる絃の両腕を捕まえた。

 その時、社に気配を感じた。

「? 旦那様?」
「待て」

 いつしか手を合わせに来なくなっていた、男の気配だった。
 突然動きを止めたまがつひの神に絃は首を傾げ、しばしそのまま。
 まがつひの神の頬の赤みが引かぬうちに、短い拘束は終わった。

「――そうか、村長が死んだか」
「えっ?」

 なんて事はないとまがつひの神はこぼしたが、絃は目を丸く見開いていた。

「わかるのですか?」
「今、男が手を合わせて報告していった」
「そう、なんですか。そうですか……」

 絃の両腕が力をなくして下がっていく。
 まがつひの神は絃の明るさにうっかりとしていた。人の死を人に伝えるということは、とても繊細だというのに。

「懇意であったか」
「ええ……。よくしていただいておりました」

 目を伏せた絃は、すっかりと意気消沈してしまっている。
 そしてぽつりと「清史郎(せいしろう)さんはきっと今、大変でしょう……」とつぶやいた。

「清史郎?」
「あ……村長の息子です。いくつか上のお兄さんで、妹のように可愛がっていただきました」

 先ほどの気配の男か、とまがつひの神は面白くなくなる。
 ぱったりと姿を見せなくなる前の、絃を返せと涙に濡れる姿は兄のようには思えなかった。
 しかし、絃の村長を悼む姿が家族を想い憂う姿に似ていて、まがつひの神はだんだんと心苦しくなった。

「……村長に、別れのあいさつをしに行くか?」

 こんなことは、これまでに一度もない。
 生贄の娘は神域へ連れて来たが最後、ここで一生を終える。里心がつかないように、神域から出すことはなかった。
 「ですが……」と言葉を詰まらせた絃に、まがつひの神は早口で捲し立てる。

「無論、条件はある。人に姿を見られてはならない。両親にも、妹にも、他の村人にも、誰にも会ってはならぬ」

 ぬか喜びもいいところだろう。
 罪悪感からこの上ない許しを与えて、その実は残酷なもの。
 こんな条件などつけずとも、絃を信用して送り出せば簡単な話なのだ。

 だが、まがつひの神には自信がなかった。

「それから……必ず、私の元へ帰ってくること」

 最後の最後にようやく出した本音に、窺うような目を向ければ、絃はきょとんとした。
 そして真意に気づいたらしい。ほころぶ笑みでまがつひの神の髪に触れて、頬を撫でた。

「はい。必ず」



 ふわりと、体の浮く感覚が一瞬だけ。
 まがつひの神に「目を閉じよ」と命じられて、絃は瞬く間に御殿から社の中へと移動していた。
 扉を開ければ外はとっくな深更で、絃は驚きを隠せない。

「神域では朝だったのに。これも旦那様の仰る、意のままなのかしら」 

 月明かりの下、絃は社から足を踏み出した。
 踏み慣れた固い地面に、鼻をかすめる土臭さ。草木が風に揺れてざわざわと音を立て、神域にはない野生味ある自然。
 帰ってきたのねと、絃はしばらくぶりのふるさとに深く息を吐いた。

 それから、足が覚えているままに村を歩く。
 誰も彼もが寝静まっている中、もう二度と歩くことはないと思った、生まれ育った村の中を。

 あの家はおばあちゃんがいつも優しくて、あの家はおじちゃんがよく獲ってきた魚を分けてくれて。あの家は友達が住んでいて、あっちの友達の家は赤ちゃんが生まれたばかりで。妹だったのかな、弟だったのかな。聞けずに贄になってしまって、それっきり。
 そこの家の同い年の男の子はいつも意地悪で、清史郎さんがよく叱ってくれた。……贄に決まった時に、好きだったんだと告白されたっけ。

 寂しさよりも、絃はふわふわと楽しい気持ちで思い返していた。
 小さな村だけど、みんながあたたかくて家族みたいで、助け合って暮らしていた。

「わたしも、ここで家族を……」

 父と母が幼馴染で、恋をしたように。
 絃もこの村で誰かと恋をして、結ばれるのだと小さな頃は思っていた。

「旦那様を選んだことに、後悔はないけれど」

 これより先にある、自宅は夜の中。
 村長の家に着いた絃の足は、先ほどの軽やかさを忘れて重くなっていた。
 気持ちはあるのに、決心がつかない。家族の、せめて寝顔を見たあとに、迷いなくまがつひの神の元へ戻れるかわからない。

「……ううん」

 やめよう、と絃は頭を振って、湧き出しそうな感情に蓋をした。
 
 気を取り直して、村長の家の前で絃は手を合わせる。
 村長には、本当にお世話になった。絃の両親と幼馴染だったとかで、家族ぐるみの付き合いをしていた。
 息子の清史郎は絃の五つ上のお兄さんで、とても面倒見がよかった。あまりに清史郎が絃を気にしすぎるせいで、親同士がふざけて先の約束をしたくらいで。

「大事な時に力になれず、ごめんなさい……」

 可愛がってもらった分、絃も清史郎が好きだった。
 それは恋情とは違う、家族愛のようなもので。困った時には助けてあげたいという、純粋な気持ち。
 村長の息子という立場もあるが、正義感が強く優しく頼れる清史郎は村の子供たちに慕われていて、だからこそ弱音を吐けず苦しむ時があったから。
 そんな時は絃がこっそり、清史郎の泣き言を聞いてあげていたのだ。

 村長が亡くなってしまった今、清史郎のそばにいてあげられないことは、絃の気がかりとなっていた。

「清史郎さん、ごめんなさい」

 その時、村長の家の中でカタンと音が鳴った。
 静寂にあるはずのない物音に驚いた絃は、思わず息を呑む。
 ただ物が落ちただけかもしれない。それでも、その音で清史郎さんが目を覚ましてしまったら?

 まがつひの神から出された条件を思い出した絃は、慌てて社へと引き返した。
 途中、一度だけ自宅のある先を振り返る。けれど、それ以上の後ろ髪を引かれる余裕のないまま、足音を潜めて急いだ。

「戻らないと……!」

 そして、社の前。
 中に入れば神域に戻れるとまがつひの神に言われていた通り、焦る手で扉を開こうともたついて。

 足音なく背後から現れた声に、あっさりと引き止められてしまった。


 *


「……――絃か!?」

 声に振り返った絃は、暗闇に目が慣れてしまっていたせいで思わず目をすぼめた。松明がまぶしい。
 けれど声の主は大股に近づいてきて、絃を確かめようとさらに松明で照らした。

「絃、本当に絃なのか?」
「せ、清史郎さん」
「戻ったのか!」

 まがつひの神ほどの背丈はないが、筋肉質な片腕で抱き寄せられた。
 固く、男らしい匂いに懐かしさは感じない。清史郎さんはこんな人だったかしらと、絃は困惑する。

「あぁ絃、会いたかった……。お前が贄に選ばれたこと、父さんを止められなかったこと、どれだけ後悔したか」

 清史郎が離れ、まめのできた乾いた手のひらが絃の顎を持ち上げた。

「よく顔を見せてくれ」

 松明が月明かりには届かない暗闇を照らし、清史郎のやつれた顔がはじめて見えた。
 くしゃりと歪んで、絃はまた抱き寄せられる。

「変わりない。変わりないな、絃。よかった」
「清史郎さん……」

 絃の安否を気遣い、贄にしてしまったと後悔してくれる優しさはいつもの清史郎だ。
 絃も会えて嬉しい。まがつひの神との条件は破ってしまったが、嬉しいという気持ちは真のもの。
 神域に戻ったらきちんと謝らなくちゃと、清史郎の腕から出ようとして、びくともしないことに気づく。

「清史郎さん? あの、離して……」

 しかし、さらに力強く絃は抱えこまれてしまった。

「嫌だ。もう二度と離すもんか。二度と」
「くるし……、離して、清史郎さん」
「離さない。お前はそもそも、俺に嫁ぐ話だったじゃないか」
「それは親同士の話で……わたしはもう、神の御許に」
「神などいないじゃないか!」

 絃の細い腰が折れそうなほど抱きしめる清史郎は、噛み付くように神への不満をぶちまけた。

「父は若くして病に死んだ。嫁いでくるはずの幼馴染は生贄だと神に盗られた。神とはなんだ? これまで真面目に祀って、俺は幸せを奪われただけだ!」
「それは……」
「だが、贄として捧げられたお前がここにいる。生きて戻ってきたんだ。なんという奇跡だろうか!」
「わ、わたしは旦那様の元に戻らねばなりません」
「戻る必要などない。改めて俺に嫁げ、絃」
「だめです、わたしは……」
「ご両親も喜ぶ。紬だって、泣き暮れていたんだぞ」
「……っ」

 清史郎からすれば、不幸が続き神など信じられない精神状態だ。祀っている神が厄災の神だということも大きい。
 しかし絃にとっては、まがつひの神は愛すべき神。すべてを投げ出して嫁いだ、愛しい神なのだ。
 揺らぎない愛。それでも言葉が詰まるのは、どうしたって切り捨てられない家族への愛があるからで。

「父さんは死んだ。それは悲しいことだが、おかげで今は俺が村長だ。誰にも何も言わせやしない」

 清史郎の腕を振り解けず、絃の胸はずっと苦しかった。

「絃、俺の元に来い。そうすれば、家族と離れなくてもいいんだぞ」
「でも……」
「頷け、絃」

 優しかった清史郎が、今は怖くて仕方がない。
 頷かせようと焦る清史郎は、持っていた松明を握りしめた。

「お前が戻る場所も、祀る神も。迷わぬように、なくしてやる」

 そして、社へ放った。

「だめぇ!!」

 視界の端、明かりが清史郎の手を離れた。
 絃は力の限りに抵抗するが、清史郎にはがいじめにされてどんどん社から引きずられてしまう。

「だめ、旦那様! だめ!!」
「俺の元へ来い。神だというが、あれは厄災だ。なぜお前が選ばれねばならなかったんだ!」
「旦那様、いや……っ」
「絃、俺の絃。あれは厄災だ、目を覚ませ」
「旦那様ぁ!!!」
「お前が愛すべきは、俺なんだ!」

 騒ぎを聞きつけて、村人が集まり始めた。
 社が燃えていると怒号が飛び交い、絃の姿があると驚きの声が上がる。男たちは水を汲みに井戸や川へと走り出し、その間にも社の火は大きくなっていく。絃の悲鳴が、清史郎の怒りが、二人に誰も寄せつけなかった。

 燃え盛る社がついに崩れ落ちそうになった時、絃の涙が頬を伝い、とうとう地面に落ちた。


「――ふん。侮られたものだ」


 低い声が頭に響き、途端に突風が社を包みこんだ。立ち上る火が瞬く間に、風の中に消えていく。
 社の上空にふわりと姿を現したまがつひの神は、清史郎と絃に目を止めた。

「な、なんだお前は」

 驚く清史郎だが、絃への力は緩まない。
 その光景に、まがつひの神が苛立たしげに目を細めた。

「黙って見ていれば、そなたのなんと傲慢なことか」
「だ、旦那様……っ」
「毎夜、そなたが手を合わせ望んでいたほどの娘。どれほど純真かと思えば、意にそぐわぬとわかれば力づくで手籠にしようとは」

 見えない力が清史郎の拘束を解き、絃の体が自由になる。そのまま引き寄せられるように、まがつひの神の腕の中へ。

「神の社。神の妻に手出ししたこと。そなたには、後悔することになるだろう」

 清史郎が何か叫ぶが、その声は絃にはもう遠い。
 「帰ろう」と囁かれ、頷いた絃の視界が揺れる。村人を最後に見回して、はじめて両親の姿を見つけた。
 清史郎に押さえつけられ、焦っていたせいで気づくことができなかった。手を伸ばされて叫んだ声は聞こえなかったけれど、その口の動きを絃はよく知っていた。

「絃――……」

 何かを思う間もないうちに、絃はまがつひの神に抱かれて見慣れた座敷に戻ってきていた。



「旦那様、申し訳ありませんでした」

 気持ちを落ち着けた絃が、庭を眺め続けるまがつひの神のそばに腰をおろす。神域に戻ってからしばらく経ったが、まがつひの神は一度も絃に声をかけてこなかった。

 怒っていることを覚悟で頭を下げたが、まがつひの神はいつものような狼狽えはなくただ静かに絃を見やるだけだった。

「そなたが、何を謝る」
「旦那様とのお約束を守れず、姿を。旦那様も……」
「あれは仕方のないことだった」
「社も……燃えてしまいました……」
「所詮はただの飾りものだ」

 そうして、また庭へと向いてしまう。
 まがつひの神は絃を咎めることをしない。だが、やはりどこか怒りをはらんだ空気を醸し出していて、絃は下げた頭を上げられなかった。
 付けられた条件も守れず呆れられ、嫌われてしまったのではと不安が大きくなっていく絃の目には、涙がにじんだ。

 そんな絃に気づかずに、まがつひの神は苛立ちを隠さず咳払いをした。

「それよりも。そなたがあの男の元へ嫁ぐという話があったのは、本当なのか?」
「それは、幼い頃に……。両親同士で勝手に決めていたことです」
「なぜ言わなかったのだ。知っていれば、そなたをここから出すことは――」

 そこまで言って、まがつひの神は口をつぐんだ。
 あまりに矛盾していたからだ。清史郎が絃を求め望んでいたことなど、誰よりも知っていたというのに。

 まがつひの神の思わぬ怒りに触れて、なぜそこを咎めるの? と絃の声にも棘が混じった。

「そう仰るなら、旦那様だってどうして教えてくれなかったのですか。清史郎さんが、手を合わせにきていたこと」
「……必要のないことだと思ったからだ」
「それに、見ていたというなら、なぜもっと早くに現れてくださらなかったのですか」
「それは……」

 言葉にするほど、絃の怒りは大きくなった。
 すべてを教えてほしいとは言わない。それでも、絃に関係のあることなら教えてほしかった。
 清史郎が何を考え、手を合わせていたのか。それを知って、絃とのやりとりを見ていたなら、まがつひの神は何を考えていたのか。

 悲しくて、怒っていて、絃の瞳には大粒の涙が溜まっていく。その様子に、まがつひの神は苛立ちを忘れて慌てた。

「そなたには、私の元へ戻ることを条件にしたが……もし、もしも、あの男に心揺らしたなら、それはそれでよいと……」
「なぜそんなことを。ありえません!」
「そうは言うが、そなたの心の内には寂しさが付きまとう。私の元にいるよりも、そなたにとっての幸せは……」

 条件を付けてまで絃に戻ってほしかった。それと同じく、絃にとっての幸せを考えた。
 絃はまがつひの神を選ぶが、それ以上の幸せが約束されるなら、清史郎に渡してもいいとさえ思った。いや、渡したくない。けれど、絃が幸せなら。

 まがつひの神の矛盾はここから生まれ、はじめてのことに、訳がわからなくなっていた。
 小声になっていくまがつひの神に、絃は「もう!」と大きな声で言葉を遮る。

「わたしの幸せはわたしが決めます。覚悟をもって、ここに参ったのです!」

 呆気に取られるまがつひの神に、さらに震える声で絃は続けた。

「旦那様を、心より愛しているからです」

 ぽろぽろと涙が落ちていく。
 矛盾ばかり抱えたまがつひの神にはない、まっすぐな気持ち。ぐちゃぐちゃと考えずに、己を貫くその心にまがつひの神はハッとする。

「……すまぬ。すまぬ、絃。泣くな」
「旦那様は独りよがりが過ぎます。それは、清史郎さんと同じです……」
「ぐっ」
「もっと、わたしに気持ちを預けてください。旦那様のお気持ちを、教えてください」

 頬を伝う涙が、絃の着物を濡らす。
 その涙を拭ってやっていいものか迷っていたまがつひの神は、そっと絃の手を握った。

「……怖いのだ。人の生は短く、気は移ろうもの。そなたに見捨てられてしまえば、私は」

 吐き出すようにして、誰にも見せたくなかった一番弱い部分を曝け出した。

「私は、耐えられぬ」

 曝け出してしまえば、矛盾ばかりだった気持ちに自然と答えが出る。絃を想う気持ち。自らの幸せを投げ打ってでも望んでしまう、絃の幸せ。
 それは、何よりも絃を大切に想う、まがつひの神の――。

「これが、愛なのか」

 見上げた絃の瞳と視線が重なって、まがつひの神はこつんとおでこを合わせた。

「私の気持ちを鎮めてくれ、絃」

 恥ずかしさなど、もうどうでもいい。
 まがつひの神は絃の腰に手を回して、甘えるように抱え込んだ。

「これが、嫉妬というものなのか」
「……清史郎さんに嫉妬しているんですか?」
「飢饉でも起こしてしまいそうに苦しいな」
「わたしは、旦那様のお気持ちが知れて嬉しいです」

 絃は、緊張がほどけたように笑みを取り戻した。

「ですが、飢饉が起こってしまっては困りますね。どうすれば鎮まりますか?」
「どうすればよいのだろう。そなたに縋られ、戸惑いながらもふわふわとした気持ちのほうが心地よい」
「そんなことを思っていたのですか」
「秘密だぞ」
「秘密にしておきます」

 ふふ、と絃が笑って、お互いに深く見つめる。
 まがつひの神が絃の頬に手を添えて、ゆっくりと吐息を交じり合わせた。

 心地よい熱は、やがてのぼせるように熱くなって。

「これで、鎮まりますか?」
「……ふわふわを通り越して、どうすればよいのかわからぬ」

 どちらも頬を染め上げて、やっぱり気恥ずかしいとまがつひの神は絃を抱きしめた。

「愛しています、旦那様」
「私も……愛している、絃」

 優しい花の香りに包まれて、絃は幸せいっぱいに抱きしめ返した。


 *


 それからしばらくして、社が再建された。

「旦那様、整いました」
「うむ。では、行くか」

 晴れ渡る青空がまぶしい昼下がり。
 再建の儀が催されている、社の屋根にふわりと二人で降り立った。
 まがつひの神は袴と黒の羽織を、絃はこの日のために自分で仕立てた白無垢の姿で。

 二人を見ることのできない、集まる村人を眺めて、絃の家族を探す。

「……儀を執り行っているのはあやつか」
「清史郎さんです。村長なのですから、当たり前です」

 あの一件以降、清史郎は村の年長者にたしなめられていまだ村長の名を与えられている。
 社に手を合わせ許しを請う者が後を絶たないのだから、仕方がない。
 前村長、そしてそれまでの清史郎の人徳かと思えば、それはそれでまがつひの神も納得できるのだが。

「本当は、とっても誠実で優しい方なんです。あの時はきっと、村長を亡くして心を病んでしまっていただけなんです」

 絃がこうして庇うのだから、面白くない。
 ムッとしたまがつひの神の気持ちに合わせて、清史郎の頭に鳥のフンが落ちた。

「あっ! 旦那様!」
「たまたまだ」

 まがつひの神は、絃が清史郎を庇うたびに小さな厄災をもたらしていた。
 それは鼻緒が切れたり、泥にはまって転んだり、天日干ししていた布団が突然の雨に濡れたりと小さなことだったが、八つ当たりの嫌がらせには違いなかった。

 そのつど絃は怒るが、まがつひの神は素知らぬ顔をする。

「私のせいではない」
「もう!」

 痴話喧嘩する二人になど気づかず、フンを拭った清史郎が社の前で手を合わせた。
 祈りごとに、まがつひの神が耳を傾ける。絃は清史郎が顔を上げるのを待って、それから尋ねた。

「清史郎さんは、なんと?」

 まがつひの神は眉根を寄せて、やがて諦めて息を吐いた。

「申し訳ない、と。それから、そなたをよろしくお願いされた」

 嫉妬の対象に謝罪されてしまい、さらに絃を頼まれてしまっては、大人気なさにまがつひの神の居心地が悪くなる。
 清史郎の思いに喜んだ絃は、まがつひの神の腕に抱きついた。

「清史郎さんは、やっぱり優しいわたしのお兄さんです」
「そなたのその姿を見せるのは嫌だな」
「何も清史郎さんだけに見せるわけじゃありません。わたしの家族にと、旦那様が仰ってくれたんじゃないですか」

 近いうちに、絃の家族に元気な姿を見せてあげられたらいい。
 家族と二度も無情な別れをした絃に、まがつひの神が提案した。
 それなら幸せな婚姻式をと、社の再建の儀にあわせて絃は大急ぎで白無垢を仕立てたのだ。
 贄として白装束をまとった時とは違う、ちゃんと花嫁の衣装でまがつひの神の隣に立って。

「いつも綺麗だが、今日のそなたは特別に美しい」
「嬉しいです。旦那様も、素敵ですよ」
「だからこそ、見せてしまうのを惜しいと思うのだ」

 社の周りに村人が集まり次々に手を合わせていく。
 その中に、絃の家族がいた。変わらぬ父と、変わらぬ母。少し大きくなった紬がきょとんと社を見上げて、目を輝かせた。

「本当はひとりじめしてしまいたいが……仕方ない」

 紬が指をさすと、ふわりと絃とまがつひの神の姿があらわになった。
 村人たちが驚き、絃の家族も、目を丸くして。紬の声だけが、高らかに響いた。

「お姉ちゃん!」

 絃は満面に笑みをたたえて、幼い声に応えた。

「お父さん、お母さん、紬」

 絃の声に、村人はみな静まり返った。

「わたし、神様に嫁いで幸せになります!」

 言い終えて、風が吹く。
 どこからともなく芳しい香りの花がたくさん舞い、風に吹かれて花吹雪。
 村人も絃の家族も気を取られているうちに、二人の姿は消えてしまった。

「今のは……」

 絃の父がつぶやき、絃の母が驚きの声をあげる。
 ひとつ結びをしていた紬の髪が、編み込まれて小花をあしらわれていたからだ。

「お姉ちゃんがやってくれたのかなぁ?」

 無邪気に喜ぶ紬に、絃の両親は顔を見合わせて、やがて笑った。

「幸せに生きてね、絃」

 姿の見えない空に、絃の「はい」という返事が聞こえた気がした。