この状況ではじめまして、と言われてこちらこそと冷静に返せる人間がいれば見てみたいものだ。
 小夜子は現実逃避しがちな頭でそう考えながら、目の前の珠――といってよいものか惑うその美貌を見つめる。
 珠の着物を纏い、珠の髪型をし、珠と同じ瞳を持っている、異形のモノ。
 
「たま、さま?」
「ええ。小夜子が大好きな、珠ですわ」
「ふ、ふざけないでくださいませ!」
 
 何がなにやらわからず、混乱した小夜子は勢いよく立ち上がった。痣はいまだ熱を持っているが、今はそれどころではない。
 小部屋の出口へと足を急がせたものの、戸に手を掛けたところでいくらがたがたと揺すっても動かない。
 
「ふざけてなど」
 
 後ろから片手で戸を押さえられているからだと気づくも、振り向くのがはばかられる。
 それでも力任せに戸を開けようと必死に藻掻くも、あっという間に肩を取られて振り向かされ、手は戸板に縫いとめられる。
 月明かりを背負って影になる瞳が少しばかり高い位置から小夜子を見下ろしていて、いつもの珠より上背があるのだと思い知らされた。
 
「珠さまは……何処」
「ここに居ますわ。聡明な小夜子ならわかっているでしょう」

 鈴が鳴るような声音は少しばかり低くなり、少年の如き香気を漂わせている。
 つんと顎を上げたその仕草が珠に似ている。珠を模して化かすつもりなのかと瞳を鋭くして睨みつけた小夜子に、彼女は悪戯っぽく牙を覗かせ笑いかけた。
 
「証拠が欲しいのね。小夜子から求められるのは、幾度経験しても良いものですわ」
 
 するりと手首が解放される。しかしそのまま顎を捕らえられては真の自由など小夜子には与えられなかった。
 
「や、はなし――っ」
 
 じたばたと身じろぐ小夜子の鼻先にかぷりと歯を立てる。あまりに突然のことと、押し当てられた鋭い牙に今にも貫かれるかもしれない恐怖で固まった小夜子を吐息で笑った彼女は、唇を滑らせ、当然のように小夜子を貪った。
 
「……っ」
 
 甘い、星の味。
 つい先程まで、小夜子を蕩けさせていた、珠の唇。
 他に類のない、間違えようもない甘さと、高鳴る胸と、じわりと広がる痣の熱が、小夜子に答えを知らしめる。
 名残惜しげに離された唇のあわいで、小夜子は「どうして」と力無く問うた。

「あら、小夜子は殿方が良いの? そちらの形をとることもできるけど……」
 
 人差し指を頬に添わせてしばし思案する風を装った珠が、次の瞬間にはころりと表情を変える。
 
「わたくし、こちらの方が好きなの。小夜子に近い感覚を持てる方が好ましいわ」
 
 あっけらかんとそう言ってのける珠に、小夜子は信じられないものを見るまなざしを離せぬまま、でわななく唇をどうにか問いの形に動かした。
 
「あ、あなたは……、誰なの」
「珠よ」
「そうではなくてっ」
「鬼」
 
 ぽんと投げかけられた言葉ひとつに小夜子の全身が硬直した。
 鬼。それは小夜子にとって、文字通り鬼門だ。
 魂緒星に貫かれたあの日から、伝承の通り鬼は小夜子の魂を、人生を我がもののように弄び、操ってきた。
 魂緒星の例を引かずとも、鬼は牙と角を持ち、ひとならざる圧倒的な力を持つとされている。
 唇を奪い、星の味を纏うこの鬼が、小夜子にとっての元凶の星だというのなら――
 
「香々瀬には運命の星に巡り会うものがいるのでしょう」

 ぱっと体を離した珠はゆったりと首を傾げて語り出した。
 
「暦が変わって、あやかし達が居場所を追われて、何年経つでしょうね。でもわたくしたち鬼は、ただ滅びを待つなんてつまらないことには興味がなくてよ」

 ぴんと立てた人差し指をくるりと回した珠は窓の外を指さす。
 清らかな光を放つ、夜の主――月。

「あやかしには夜がある。太陽に追いやられた月の理とて、いまだ尊ぶ人間はいますでしょう。彼らとて己が信仰を蔑ろにされて黙ってはおれぬはず。ならば、それと手を結べばいい」
 
 その言葉に、小夜子の記憶が一気に巻き戻る。
 幼き日、父が猫又やら何やらの世話を焼きながら話してくれたこと。
 
「夜に生きるもの、同士……一蓮、托生」
「そう、それ」
 
 我が意を得たりとばかりに破顔する珠は爪先でくるりと回る。帯がふうわりと空気を孕んで蝶々のように舞った。
 
「あの夜、小夜子を見つけたのは偶然。でも、今となっては運命といってもいいのかもしれませんわね」
 
 内緒話をするように顔を寄せては、ぱっと離れる。小夜子は珠に翻弄され続けている。
 
「小夜子がわたくしに惹かれるように、わたくしも小夜子に惹かれているの。だってあなた、とても良い香りがするんですもの」
「香り?」
 
 小夜子は手首の辺りをくんと嗅ぐ。珠のくれた花の石鹸の香りしかしない。
 
「そうそう。石鹸、使ってくれて嬉しいわ。少しでも小夜子の香りを薄めようと思ったの。効果は覿面ね」
「効果って……」
「あやかしが、寄って来ないんじゃなくて?」
 
 その言葉に、はたと小夜子は思い至る。
 父と一緒にいても小夜子にばかりまとわりついてきた猫又やスネコスリ。
 前の屋敷でも庭掃除に出るたび現れた鎌鼬。
 あれらは偶然居合わせた訳ではないとはかったというのか。
 
「あんなにいくつもあやかしの気をべたべたつけられているんだもの。痣を辿らなければ見つからなかったわ。ねえ小夜子。わたくしの心がいくら広くとも嫉妬するのよ?」
 
 珠は細い指先で、小夜子の胸元を――痣をとんと押す。

「……う、あッ!?」
 
 途端に焼きごてを押しつけられたような熱さに小夜子は体を折り曲げて呻いた。
 
「苦しい? 可哀想に。でもね小夜子。わたくしの心はもっとじりじりと焼け焦げそうだったわ」
 
 胸を押さえたまま、痛みから逃げようと必死にかぶりを振る小夜子を、珠はただ見つめている。
 ともすれば慈悲深いまなざしにも見えるそれは、苛烈な炎の色と同じ、青みを帯びた光だ。
 
「……の、です、か」
 
 途切れ途切れの言葉の切れ端が、ふとその激しさを和らげる。
 息ができるようになった小夜子は、はあと大きく息をつきながら珠を見上げた。
 
「痣を、治してくれ、ると……あれは、嘘だった、の、ですか」
 
 虚をつかれたようにゆるりと小首を傾げた珠だが、何かを思い出したのかぱっと微笑む。
 
「ま。何を言うの。嘘なんてついていないわ」
「わたしがどれだけこの痣に苦しめられてきたか! 鬼に、どれだけ振り回されて……っこんなはずじゃ、なかったのに。あの夜、あの星が……魂緒星が、あんなことさえしなければ――」
 
 溜め込んでいたものが弾けた小夜子の喚きが、中途半端なところで断ち切られる。ぎりぎりと体を縛りつけていた痣の痛みから突然解放されたのだ。
 流されまいとして力んでいた体から魂だけが弾き出されたような浮遊感に、残された体が支えを失って倒れ込む。
 
「苦しくなくなった? ほら、嘘はついていないわ」
「……っ、ひとを、おもちゃにしないで!」
 
 怒りに任せて身を起こした小夜子の内がぶわりと熱くなる。
 これは痣によるものではない。目の前がちかちかと白む。
 青い光。これはどこかで見たことのある瞬きだ。
 そうだ、これは、魂緒星の。
 
「――そう。これが欲しいの」
 
 ほう、と息をついた珠の頬はほんのりと朱に染まり瞳が潤んでいる。
 見下ろしてくるのはうっとりと蕩けそうな視線だ。先程までの冷たく突き放す鋭さはどこへ行ったのか。
 珠が服の上から痣に触れてくる。もう痛みはなかった。
 
「痛いことをしてごめんなさいね。でも、どうしても確かめたかったの」
「な、にを」
 
 ――小夜子がわたくしの伴侶となれる器かどうか。
 
「は――」
 
 力が抜けていく。
 あやかしが人間を伴侶とするなど、おとぎ話だけの絵空事だ。きっとこれは小夜子を化かすための方便だ。
 鬼は強く賢い。そう父も言っていた。
 小夜子が物珍しい家の出だから、少しばかり変わった趣向を凝らして腹に収めたいだけだろう。
 そうだ。だって、小夜子が知る魂緒星は、そのような鬼を司る星だと言っていた。
 
「わたしを……食らうの、ですか」
「そうね。いずれはそのつもり」
 
 悪びれもなく返ってきた答えに小夜子の目の前が暗くなる。
 しかし、その青ざめた顔を見て、珠はぷっと噴き出した。
 
「いやね。何を想像してるの。頭から丸かじりなんてしないわ。わたくしが食べたいのは小夜子の魂。ほら、あの夜、小夜子の持っていた帳面には何と書いてあったかしら」
 
 問いかけの形を取りながらも、小夜子の答えを待つことなく珠は何かを諳んじる。
 
「“魂緒とは、玉の緒。その緒に手を伸ばし、我が糧にせんとするのは常世の闇の長、鬼である”」
「っ、それは」
「わたくしについて書かれていることだもの。覚えていて当然よ」
 
 小夜子が星について学んだことを記した帳面。
 初めて魂緒の星を見つけた時、必死に手繰ったあの頁は、自分の小さな文字ごと脳裏に焼き付いている。
 記憶の中の文言が、珠の声で再生される。
 
「“鬼を司る魂緒星は、天空に瞬くあまたの輝きの中で最も力が強く、恐ろしいとされる星」
 
 小夜子の消え入りそうな声が重なる。
 あの夜、ひとりで対峙したあの文が、実体を持って目の前で静かに微笑んでいる。
 
 「その星に月が宿る夜、鬼は一年のうちで最も強き力を得て――」
 
 そこで、どちらからともなく言葉を切った。
 小夜子の鼓動と、月が窓硝子に沁みていく音だけ夜に染みていく。
 珠が床から何かを拾った。砕けた水差しの破片だった。取っ手の部分周辺が大きくくり抜かれたように割れたらしい。それをかざして、珠はうっとり微笑んだ。
 月の光をなみなみと注がれたそれが、鏡となって小夜子を映し出す。
 それを彩るように珠は朗々と続きを謳った。
 
「――“見初めたものを自らの眷属と成す”」
 
 月の欠片に映し出された小夜子が己を見つめ返している。
 
 その瞳は、青くゆらめき、白の光を纏っていた。
 
「あ――……」
 
 声にならない吐息と共に力が抜け落ちてしまった小夜子をしなやかな動きで珠が抱きとめる。
 
「ふふ、可愛い小夜子。愚かな小夜子。魂を喰らえばもうわたくしのもの。でも、わたくし、もう少しだけ遊びたいの」
 
 ほっそりとした指が小夜子の手を撫で、その指と絡ませる。作りもののような白い肌がぴたりと寄せられたところから小夜子に夜が浸透していく。
 
「日輪が我が物顔をして世を照らすなら、わたくしたちは夜空を統べるものになりましょう。星を喰らって膨れ上がる月がいつか弾ける夜、舞い散る月華を踏んで笑うのはわたくしたち」
 
 わずかに背をかがめた珠が小夜子と目を合わせる。
 鏡合わせになった青白い瞬き。
 そこに宿る感情が正反対であることなど微塵も意に介さず、珠はその色に酔ったように小夜子の腰を抱いてくるりと回った。
 青白い尾を引いて円を描くふたりの輪郭を、満ちるにはまだ早い月が照らし出す。
 窓枠に切り取られた額縁の中で、小夜子の世界は反転する。
 
 はらりと落ちた前髪の下で、小さな角が月光の雫を跳ね返した。