「――あら、小夜子。また侍女のおままごと?」
 
 拭き掃除をする小夜子の背にぴとりと寄り添うぬくもりひとつ。
 
「た、珠さま」
「さまはいいのに。ねえ、お掃除なんてやめてお話しましょう。お茶を入れるわ」
 
 ぐいぐいと袖を引く珠の力はほっそりした見目に似合わず強い。小夜子は手を洗ってから伺うことを伝えれば、ようやく珠は小夜子を解放した。

 小夜子が珠の元に身を寄せるようになって日が経った。細かった月が徐々に肥え始めている。
 小夜子の実家も山間にあったが、ここは更に山深い。武家屋敷という形容が一番しっくりくる佇まいだ。
 暦が変わって以来、新しき政の下で次々とこうした屋敷を旧態依然の権威の象徴として接収しているとは小夜子も耳にしたことはあるが、流石にここまで山深くは人の目も届かないだろう。
 隠れ里のような、それにしては威風堂々たる赴きの設えが目立つ。
 そんないかめしい屋敷に年頃の令嬢が家主として暮らしているのは、現実味が感じられずおとぎ話のようだ。
 父母。血縁者。そういったごく当たり前の家族構成など最初から知らぬといった風に、珠はこの屋敷の女主人としてふるまっている。
 それでもやはり娘ひとりでは、鳥の声に虫の音――そういったものを相手として日々を暮らすのは寂しかろうか。それゆえ、珠は小夜子を話し相手に欲しかったのかもしれない。
 それもそのはず、この屋敷には珠と小夜子以外の人間の気配がない。
 珠曰く、通いの下男下女がいるそうなのだが、小夜子は彼らと顔を合わせたことがないのだ。
 
「きれい……です。これは空を渡る雁でしょうか」
「さあ。わからないわ。鳥は好き?」
「ええ。昼間でも空を見上げることが多かったので、鳥については、よく」
 
 懐紙に乗せられたこぶりな饅頭には鳥の焼き印が押されている。
 小夜子はすぐに口にするのがもったいなくてためつすがめつ眺めていたら、珠はくすくすと笑った。
 
「すみません。お見苦しいものを」
「いいの。そんなに気に入ったなら食べる用以外に眺める用を作らせようかしら」
「え、いや、お気持ちだけで」
「冗談よ」
 
 小首を傾げて微笑んだ珠は小さな歯で饅頭を食んだ。
 冗談だと言うが、彼女なら本当にやりかねないと小夜子は時に思う。
 始めてここに来た時に咲いていた花一輪に小夜子が見とれていたら、いつでも眺められるように氷漬けにしましょうかと言い出し、即座に摘んで氷室へ向かった時のことを思い出す。
 慌てて小夜子が止めなければ本当に凍らせるつもりだったらしい。
 卓に置かれた一輪挿しに目をやる。ここにはその花ばかりが飾られている。
 この一輪挿しとて初めは見かけなかった。わざわざ小夜子のために用意させたものなのだと思うと、それだけで申し訳なくて身が縮む思いである。
 
「小夜子」
「っはい!」
 
 名前を呼ばれてはっと顔を上げれば、少しばかり瞼の降りた珠がいた。ああ、やってしまった、と悔いるも後の祭りだ。
 
「わたくしといるのに余所事? わたくし以外に小夜子の目を奪うものは何なのかしら」
「え、あ、ええと」
 
 泳ぐ視線は一瞬だけ一輪挿しを掠めるも、その先の悲劇を予感して慌てて目を逸らす。
 その様が面白かったのか、珠はくすくすと笑って茶器を手に取った。
 
「いいわ。小夜子が可愛らしいから許してあげる」
「は、はあ。どうも……」
 
 珠に倣って茶器を手にする。口にする直前、茶の香ばしい香りが広がってほっと肩が下がった。

 そう。一事が万事、この調子だ。
 珠は片時も小夜子を離そうとしない。
 小夜子が客人であるということを除いても、食事や茶会をこうして共にしている。さすがに風呂は別に入っているものの、家族以外に見られるのが嫌だと小夜子が唯一拒否した事柄だからで、珠としては一緒でも問題ないようだ。
 人懐っこい性質なのか、はたまた。
 小夜子が二十年にも満たない人生経験を振り返って考えても答えは出ない。
 そもそも小夜子はここに何のために呼ばれたのか。
 あの日、屋敷から連れ出された時は侍女として身の回りを世話をさせられるのだと思っていたが、掃除や給仕をしていると止められる。
 まるで珠の隣にいるのが仕事だと言わんばかりだ。

「はあ」
 
 一日が終わる。小夜子が持つ、少ないひとりになれる時間――入浴だ。
 この湯船に満たされる湯とて、どうやって沸かしているのかわからない。以前、風呂場の裏手に回ってみたことはあったが火吹き棒ひとつ見当たらなかった。
 燃料は、沸かし手は。わからないことばかりである。
 花の香りがする石鹸を持たされているので、自然と湯上りはその香りに染まる。自分の腕に鼻を近づけるが、やはりその香りだ。
 
「……でも、同じ石鹸なのに、珠様は」
 
 触れてくる時に香るものは、似て非なるものだ。
 初めて会った時の――くちづけ。
 思い出す度に顔から火が出そうになるが、あの時に感じた香りとよく似ている。
 幼い頃の記憶は曖昧だ。
 しかし、あの時――舌に感じた味は、思い出のそれを記憶の海から掬い上げるには充分すぎるほどだった。
 それからずっと、珠が近づく度に匂い立つのは幼い日の思い出と、出会った時に感じた痣の熱さ。
 それがどうしようもなく小夜子を惹き付け、またこれ以上深追いしてはならぬと退かせる。
 触れられたい。もう一度、あの味を。
 しかし、手放しで求めるには危険すぎる熱さと痛みが小夜子に二の足を踏ませる。
 どちらつかずの心が、小夜子の中で宙ぶらりんのままかたかたと音を立てている。
 
「長湯しすぎたかしら」
 
 思いにふけっているうちに、思いのほか時間が過ぎてしまった。
 手の甲を頬に当てれば常より熱い。手で顔を扇ぎながら月明かりの中、寝室へと向かう。
 すっかり太った月は、もうじき満ちようとしていた。
 
「お星様、やっぱり美味しいのかしら」
 
 珠と過ごすようになってから思い起こされるのは子供の頃のことばかりだ。
 渡り廊下のひさしから、影ができるほどに明るい月光を浴びていると後ろからふわりとあの香りが漂った。
 
「星が食べたいの? 食いしん坊なのね。かわいい」
「っ、珠さま」
 
 振り向いた小夜子の頬を珠の細い指がつんとつつく。悪戯成功とばかりに微笑んだ珠がそこにいた。
 
「頬が赤いわ」
「あ……あの、長湯してしまいまして」
「そうなの? わたくしのことを考えていたわけではなかったのね」
 
 つんと唇を尖らせる珠になんと返したものかと戸惑っていると、珠はいつもの顔に戻って小夜子の手を引いた。
 
「いらっしゃい」
「え……と、どちらへ」
「愉しいところへ」
 
 歌うような声音。踊るような足取り。
 夜の珠は昼にも増して蠱惑的だと、最近気づくようになった。
 手を引かれるばかりの小夜子の足どりまでもが何処か軽く感じられる。
 珠の行先を照らすように月が廊下を冴え冴えと見せる。くっきりできた影ふたつに、ひさしや木々の葉が寄り添っては風で形を変えて、世界が無彩色の万華鏡となる。
 連れてこられたのは離れだった。庭を一望できる大きな窓が飛び込んでくる。たっぷりと注ぐ月光は室内に影を作るほどだ。
 長椅子に洋卓。純和風の造りをした屋敷の一部とは思えなかった。建て増ししたものなのだろうか。
 
「お水、飲んで」
「あ……おかまいなく」
 
 ほうとため息をついて室内を見渡していた最中、卓に置かれたのは硝子の洋杯だった。
 こうして水が出るということはここにも厨があるのだろうか。ますますこの屋敷の構造がわからなくなる。
 ひとくち含めば喉が渇いていたことを思い出した。こくりこくりと一気に飲み干した小夜子は視線を感じる。
 もちろん珠のものだ。しかし――常とは違う何かが宿っている。見定めるように鋭く、それでいて慈愛のように深い。
 
「たま、さま?」
「気分はいかが? のぼせたのに走らせてしまったわ。ごめんなさいね」
「あ……大丈夫です。ご心配おかけしました」
 
 ぺこりと礼をすれば、いいのよと珠は微笑む。いつもの微笑みだ。
 何だかんだいいつつも珠は優しい。自分勝手に振舞っているようでいて、小夜子のことはきちんと見ている。
 あれこれ振り回すことばかりだが、本当に小夜子が嫌がることはしていないのだ。
 どうして珠はこんなにも小夜子に良くしてくれるのだろうか。昼間聞いてもはぐらかされてしまうけれど、水差しからもう一杯を注ぐ今の珠になら――
 
「あの」
「そういえば、先程の続きなのだけれど」
 
 小夜子が切り出すのを見越していたように、第一声で遮った珠は、それでも淡々と言葉を続ける。
 
「続き……」
「もう。忘れたの? お星様が食べたいとかどうとか」
「ああ! あれはその、小さい頃の戯言でして……忘れてください」
 
 正確には父の戯言に端を発した空想の産物なのだが、同じことだ。しかしその言い回しは余計に珠の気を引いたらしい。
 
「小夜子の小さい頃? さぞかし愛らしかったのでしょうね。うんと小さくて、目なんてこぼれ落ちそうね。ほっぺたは淡雪のようだったに違いなくって?」
 
 勝手に妄想を膨らませているのは珠の方らしい。
 それらひとつひとつに丁寧に訂正を加えつつ、小夜子は月と星にまつわる思い出話を語り始めた。
 まあ可愛い、と幼子の突飛な思いつきににこにこと相好を崩す珠に気恥しさを覚えつつも、月の満ち欠けは星をたらふく食べたからなどという世迷言でも、話のタネにはなるのだなと小夜子は思うことにした。
 
「どんな味がするのだと思う?」
「え」
「星の味。金平糖みたいに甘いのかしら。それともしょっぱいかもしれないわね」
「天の川が淡水だとするなら味は無いのかも……」
「でも、月には海があるというわ。そこから零れたものが空に満ちているなら、塩辛いかもしれないわね」
 
 真顔でそんな自説を語り合ううちに、ふと我に返ってふたりは笑う。
 年相応の少女のようにころころと声を立てる珠はいつもよりも幼く見える。
 小夜子はふと、口元に手を遣った。
 
「一時期、星を見ると不思議と口の中が甘くなったのです。おまんじゅうとも金平糖とも違う、知らない味で」
「まあ、きっとそれが正解に違いないわ。どんな味? お菓子ではないのなら花の蜜に近いのかしら」
 
 ずいと卓に身を乗り出して喋る珠から覗く舌が、月明かりの中でやけに目を引く。
 さきほど水を飲んだはずなのに小夜子の口の中はからからに渇いている。その中にじわりと浮き上がるのは、珠の――
 
「珠さまの、くちびるに。……似ていました」
「……ふうん?」
 
 どうしてそんなことを口にしてしまったのか。
 自分のことながら意識に手綱をつけられないまま、小夜子の口は勝手に出会った日のことを語り出す。
 痣の痛みに支配されていた時の苦しさ。
 珠に塞がれた唇。
 星の味を呼び起こしたくちづけ。
 薄れていく痛みの代わりに熱を持った痣。
 高鳴っていた胸は、痛みから開放された余韻なのか、それとも。
 
「わたくしとのくちづけが好きなのね」
「え! あ、い、いやその」
 
 あけすけに言われて小夜子は瞬時に頬をあからめる。くすくすと珠は悪戯っぽく笑うと、水差しからもう一杯注いだ。
 
「ごまかしてもだめよ。小夜子の瞳は正直者。うっとり蕩けて滴り落ちそう」
「そんな……」
 
 ふるふるとかぶりを振る小夜子がすっかり困り果てて眉を八の字にしていると、珠は頬杖をついて下から小夜子を覗き込む。
 
「珠さま、お戯れが過ぎます」
「いや?」
 
 そう問われて、小夜子はぐ、と押し黙る他ない。
 珠は本当に小夜子の嫌がることはしない。それを小夜子が承知していることすら看破し、その上でこんな問いを発してくるのだ。
 
「わたくし、小夜子には嫌われたくないの。嫌ならちゃんと言って? わたくしとのくちづけ、良くはなかったって」
 
 嘘をつけばいいのだ。
 もしくは答えを濁せばいい。
 よくわからなかった、覚えていない。
 そううやむやにしてしまえばいい。
 けれど、小夜子がそう言えないのは、真面目な気質ゆえばかりではない。
 だって、小夜子は、あの時――
 
「珠さまは……星の味がします。甘くて、どこか懐かしくて、でもはっきりと掴めない、星の味」
「ふふふ。星の神様を祀る香々瀬の娘にそう称されるなんて光栄だわ」
「ご存知で……?」
 
 突然出自を口にされて目を見開くと、なんてことはないと珠は受け流す。
 
「小夜子の痣、星によるものでしょう。時たまいるの。星の祝福を受ける娘――」
 
 珠は自分の胸元をとんと叩く。小夜子ならば痣がある位置だ。それよりも小夜子は気になることがあった。
 星の祝福?
 香々瀬で伝わっている星と運命的な繋がりを持つ者のことだろうか。しかしあれは香々瀬にしか伝わらぬものだ。部外者がおいそれと触れられるものではない。
 
「珠さまは――何者、なのですか」
「小夜子がそれを聞くの? それが聞きたいのはわたくしのほうなのに」
 
 杯を煽った珠は、カンと鋭い音を立てて卓に戻す。彼女らしくない仕草だ。
 ひび割れそうな甲高い音が小夜子と珠の間に亀裂を入れる。
 唇の端に小さな雫が浮かんでいた。
 
「香々瀬小夜子。星祀りの家の娘。魂緒星に魅入られし娘――ねえ、どうして祝福はあなたを選んだの」
 
 小夜子はとっさに立ち上がった。
 魂緒星の一件は、親しか知らないことだ。
 小夜子の家については、前に小夜子が勤めていた屋敷に問い合わせれば芋づる式にわかるだろう。今となっては迷信扱いされる星神を祀る家、香々瀬。
 しかし、小夜子のごく個人的なことはどうして。
 
「小夜子」
 
 しなやかな指がすうと伸ばされる。
 後ずさる小夜子を追い詰めるように立ち上がった珠は、足音ひとつたてずに卓を回り込んでいく。
 小夜子の背がひやりと冷たいものに当たって止まった。窓硝子だ。後ろ手に掴んだ窓の桟だけが木の温もりを残している。
 
「教えて。わたくしにも、小夜子の感じた星の味を」
 
 同じ石鹸を使っているのにも関わらず、どこか蠱惑的な花の香りが小夜子を甘く惑わせる。
 唇から少しずれたところが、一点だけ冷たかった。
 ああ、あの雫か――そう思いながら小夜子は目を閉じる。
 ふっくらとした柔らかい唇が、珠の唇が、触れる。
 あたたかいようで、どこか冷たい。そうか、星は命を燃やし尽くしたあとの輝きと聞いたことがある。だからこのように冷たいのか。
 
「……っ」
 
 出会ったあの日のように、深く重ねられるくちづけの中、やはり小夜子は思い出の中をたゆたう。
 どこか甘い、星の味。月が我を忘れて喰らい尽くすほどに甘美な星屑。
 それは小夜子の想像だ。幼い頃の、荒唐無稽な妄想。
 しかし――今、舌に感じる甘さは確かに妄想どおり、小夜子を喰らいつくそうとしている。
 
「たま、さま」
 
 甘さの中に溶けていたひとしずくの苦味。鈍く感じる痣の痛みがじわじわと小夜子を苛みだす。
 くちづけの合間に身をよじると、夜着の帯に重みを感じた。
 珠の手だ。
 
「たまさま、それは」
 
 小夜子はふるふると首を振って制止を訴える。
 これ以上はいけない。
 
「あら、どうして?」
「こ、こういうことは二世を誓った殿御となさることで……」
「そう? ならば小夜子が今、わたくしにねだったくちづけは何なのかしら」
「そ、れは……ッ」
 
 軽やかに禁忌を跳び越えようとする珠を必死に押しとどめる。
 ただでさえ、ひとに言えない暮らしをしているのだ。娘ふたりが山奥の屋敷で睦まじくしているなど、ひとに知られたらどのようなことになるか。
 はあ、と熱い吐息が首筋を撫でる。どちらの吐息がどちらを熱くしているのかわからない。
 目の前がちかちかと白んでくる。これに似た感覚に覚えがある。
 そうだ、魂緒星を紐解いた時。あの時も目の前が青白く光って、星の瞬きが恐ろしくて、それでも魅せられて――
 あの時も、星が、甘い星が、小夜子を。
 
「……や」
「小夜子?」
 
 がたがたと小夜子の体が震え出す。痣が熱い。熾火のようにくすぶる今までの熱さではない。
 星に射られた時の、あの時の熱さだ。
 体の内側から食い破らんばかりに獰猛な熱が小夜子の痣に牙を立てる。
 
「いや……!!」
 
 ぶわりと巻き起こった衝動にまかせて、小夜子は目の前の珠を突き飛ばした。虚をつかれた珠の華奢な体が卓にぶつかり、勢いで水差しが倒れて砕ける。
 硝子の破片が月明かりに照らされてきらきらと青白く瞬く。星屑のようだ。
 だが――何の味も残らない。
 小夜子は木枠に縋りつつも目眩を覚えて床に座り込む。
 珠の細い足首。その向こうに卓から滴り落ちる雫が見える。
 肥大した鼓動が全身を駆け巡るせいなのか、珠の輪郭が青白く見える。
 鬼火――と咄嗟によぎった考えをすぐに打ち消す。
 あれは月明かりの乱反射だ。水と、硝子と、月明かり。
 そう、理性的に、太陽の暦の元での思考を巡らせれはそのような考えに至る。しかし、小夜子の目に映るのは、やはり青白くとけゆく輪郭と、同じ色を瞳に宿らせる珠の姿だ。
 新しい時代の暦の軸から外された月は、やはりいにしえよりのものを見せる力があるのだろうか。
 小夜子の中でかくあるべしと謳われた日輪に照らされた思考が、月華の幻に覆われていく。
 月の暦の下で生きてきたあやかしはやはり月を求めて生きている。
 居場所を失いつつある彼らは、新時代を告げた海辺から遠く離れた山深い木々の中でひっそりと暮らす。
 小夜子はそう習ったのだ。
 そうだ、この暮らしはまさにそれではないか。
 
「あまりに従順だから心配だったけれど、きちんと拒めるじゃない。ひと安心ですわね」
「…………?」
 
 優しげな声音。しかし消え入りそうな儚さを持つ珠の声にしてはよく通る声が、青白い瞬きと共に降ってくる。
 
「たま、さま?」
 
 輪郭を溶かしていた炎が薄らいでいく。黒くまっすぐな髪、青白い光を宿す切れ長の瞳。見覚えのある珠のものだ。
 しかし――見上げた先で微笑むのは、珠であって珠ではなかった。
 月明かりが煌々と照らすのは、この世ならぬ美しさを纏ったかぐや姫もかくやと謳われる女人だ。
 しかしその艶やかな髪には見慣れぬものがある。
 一対の角だ。
 そして、艶然と微笑むその口元に覗くのは、人間には決して有り得ない大きさと鋭さを持つ牙。
 ものものしいそれらを露わにしてなお、珠は涼やかな色香を乱さずに小夜子の前に膝をつく。
 目を丸くした小夜子を愉しげに眺め、たらりと肩に垂れ下がった黒髪を鬱陶しげに背中へ払った。
 そして小首を傾げ、いつもと変わらぬ薄いくちびるで小夜子の名を呼ぶ。
 
「こちらの姿では初めまして。小夜子」