「……おまえ、前見た時より弱ってない? ごはんはちゃんと食べてるの?」
 
 庭掃除をしている小夜子の足元できゅうきゅうと鳴きながら跳ね回っているのは鎌鼬(かまいたち)らしい。
 らしい――というのは、つむじ風を起こすとされているにもかかわらず、これは跳ね回ってもせいぜい小夜子が掃き集めた塵を少々掻き乱す程度のそよ風しか起こさないからだ。
 あやかしの適正体重など知らぬ小夜子だが、生き物がどんどんか細くなっていくのは良くない兆候ということはわかる。
 しかし、犬だ猫だという一般的な動物と違ってこれはあやかしだ。
 飼うこともできぬし、そもそも肉だ乳だと与えても糧にはならない。そうわかっていてもごはんがどうこうと声をかけてしまうのは小夜子がこれを気にかけている証だろう。
 あやかしの力の源は伝承の強さ。そして人々からの信仰や畏れだ。
 鎌鼬の起こす風が自然現象だと人口に膾炙することで、人々は興味を失って口にしなくなる。
 それはすなわち、鎌鼬が必要とされなくなったということだ。
 今にもひとつの生命が、ひとつの種族が喪われていくのを前に、小夜子は何もできずにいる。
 家なら、父や母に助けを求めることもできたのだろうが、ここは違う。
 花びらの舞う中、ぱたぱたと駆け寄ってくる足音がひとつ。小夜子は塵取りを地面に置いて立ち上がる。鎌鼬は花殻をくるりと回すだけの風を残して姿を消した。
 
「小夜子ー。お客様、魅上(みかみ)のおじ様が、お帰りになったわ」
 
 同僚の娘が高い位置で結った髪を揺らして息をついた。歳が近いという理由だけで仲良くしてくれる娘だが、小夜子にはその明るさが頼もしい。
 そう、ここは小夜子が務める商家だ。
 
「……そう。お元気そうだった?」
「いつも通りかな。ナントカっていう寒い国に行かれたんですって。いつも通り私たち女中にもお土産を頂いたけど、数が少なかったから先輩達が殆ど食べてしまったのよ!」
「あなたの分はあった? お茶を出したのはあなたでしょう」
「ま、一応ね。美味しいものなんだろうけど、ひと口じゃわからないわ。詳細にお礼状を書くためにはあの三倍は欲しいわね」
 
 けろりとそう言ってのけたことにぷっと噴き出した小夜子をを物珍しそうに見た娘は首を左右に傾げた。
 
「やっぱり小夜子って変わってるわよねえ」
「そ、そう?」
「そうよ。普通、気前のいい素封家の対応と掃除が被ったら、掃除を押しつけるでしょうに。どうして逆なの」
 
 つり目がちの瞳にずいと顔を寄せられて小夜子はどきまぎしながら目を逸らす。
 
「……そ、掃除が好きなのよ」
「ふうん? 魅上様以外がいらした時は素直にお茶を出すじゃない。何か嫌なことされたの? って言ってもほぼ面識も無いわよねえ」
 
 上を向いてあれこれと思案する娘に、小夜子は小さく「お名前が」と答えた。
 
「名前? 魅上様の? え、どういうこと? あの方、確か下の名前は慎太郎だっけ? 普通じゃない」
 
 そういうことではないのだと首を振ったところで、別の足音がずんずんと近づいてきた。
 
「香々瀬小夜子!」
 
 張りのある声で威勢よく名前を呼ばれ、小夜子は弾かれたように顔を上げた。隣の娘もあちゃあと言った風に天を仰ぐ。
 ごめんねと手ぶりで伝えて娘は足早にその場を立ち去る。それをじろりと横目で見つつも声の主は何も言わずに小夜子に視線を戻した。
 そろりそろりと見上げた先で腕組みをしたのは、声に違わぬ貫禄のある体つきをした女中頭。おっかなびっくり頭を下げれば、ふう、と大袈裟なため息が聞こえて小夜子は肩を縮こまらせた。
 
「お客様にお茶をさしあげるのはあなたの役割でしょう。それをこんなところで箒と戯れながらお喋り? いい度胸ね」
「す、すみません。き、気分が……悪かったので、お客様に失礼があってはいけないと思い、代わって貰いました……」
 
 俯きがちにたどたどしく話す様は確かに具合が悪そうに見えるが、女中頭は取り合わない。
 
「あら、今朝はいつも通りに見えたけれど。いらっしゃる方が魅上様でなければ気分も悪くならなかったんじゃない?」
 
 ぎくりと身を強ばらせた小夜子に、女中頭は大袈裟なほどにかぶりを降ってため息をついた。
 
「……あのね。魅上様はお優しく羽振りも良く上品なお方ということはお前もわかっているでしょうに。初めていらした時、異国のお菓子を喜んでもらっていたのを忘れたとは言わせないわよ」
「は、はい……存じております。わたくしたち女中にも優しくして頂いて、いらっしゃるたびにお土産を……」
「わかっているなら!」
 
 小夜子の語りを切り捨てた女中頭は、小柄な小夜子の背が弓なりに反るほどに距離を詰めて見下ろした。
 
「正直におっしゃい。どうして魅上様のお相手を他のものに押しつけたの」
 
 詰め寄られた小夜子はぐっと奥歯を噛んで唇を引き結ぶ。夜空色の瞳は潤みかけてはいるが雨が降ることはない。
 
「お、鬼……が、棲む、お名前なの、で」
 
 その言葉を引き出した女中頭はもう一度深くため息をついた。
 
「あのね、ただの名字よ。別に肌が赤いわけでも鬼ヶ島に住んでるわけでもない。ただの貿易商。いくらあの方の恰幅がいいからって人を食べる鬼なわけないでしょう」
「そ、それは存じております。ですが、その鬼が」
「恐ろしい?」
 
 途切れ途切れの言い訳の切れ端を引っ掴まれてぶら下げられ、小夜子は力無く頷いた。
 
「どうしたもんかねえ」
「あ、あのっ、他のお客様のお相手でしたらいくらでもいたします。いえ、内向きの雑用に替えてくださっても構いません。ですから」
「あのね、香々瀬小夜子さん」
 
 名字で呼ばれ、小夜子は言葉を失った。
 
「星神様の家の娘っていうのはそう簡単に雑用させられるもんじゃない。あんたが好むと好まざるとに関わらず、異国の古い迷信に興味を持たれてる異人さんだって、あんたの頭に詰まってる知識を博物館に移殖したい学者さんだっている。それをうまく使うのだって旦那様の商売のひとつなんだ。あんたは不良品にしたくてもできない、値のつかない骨董品なんだよ」
 
 ――値のつかない骨董品。
 
 数多の罵詈雑言よりも心を深く抉ったその言葉は、あまりにも小夜子の現状を的確に言い表していた。
 
 月の満ち欠けからなる暦が、太陽の巡りからなるものに変えられて早十年は経つだろうか。
 目まぐるしく変わる世の中に適応しようと、香々瀬の家も必死だった。
 迷信と切って捨てられる信仰だけに縋っていては明日の食べるものにも事欠く有様を危惧し、両親は小夜子を働きに出した。
 海の向こうとの商いで財をなしたこの商家では、異国のものもよく訪れる。そうしたものは己の国に誇りをもつ反面、この国にしかなかったものにも興味を抱くものも多いのだ。
 学術的な価値を探るもの、単に話のタネにしたいもの。動機は人によりけりだが、そうした人たちにとって、土着の神を祀る家の娘というのはよい客を寄せるきっかけになったらしい。
 小夜子はたびたび引っ張り出されて話をした。もちろん異国のひととは通訳を介してだが、同じ国のものにも話は受けた。
 みな、それまでは恭しく奉っていた信仰の対象が近くに降りてきたというのが物珍しいらしい。
 小夜子は懸命に務めたが――星神様は職をくれたが、また奪う足枷までも同時によこしたのだ。

 女中頭が去ったあと、小夜子はやはり庭先で箒にすがりつきながらずるずると座り込む。
 はあ、とため息をついて箒の柄に額を預けるも、ひやりとした硬さは小夜子の悩みをはじき返す。
 そう、あの夜のことを、数年経った今でも、小夜子は引きずっている。
 
「わかってる……でも、たとえ文字でも、鬼を見ると」
 
 胸にツキンと走る痛み。小夜子は拳を握りこんで熱を持ち始めたそこに押し当てる。
 
「魅上様が普通のお方だってわかってる。桃太郎がおとぎ話なのもわかってる。でも、それならあの夜の――鬼は」
 
 そう。運命の予兆がごときまばゆさで、幼き日の小夜子の目を奪った魂緒星。そして、その瞬きは矢のように鋭く小夜子の胸を貫いた。
 ――あれは、夢では無い。
 今も肌に残る痣が揺るがぬ証だ。
 あれ以来、鬼と名がつくものにすっかり怯えるようになってしまった小夜子だが、日常生活でそうそう鬼にでくわすことはない。
 しかし、小夜子の就いた職は、少々変わっていた。
 異人や、好事家にあやかしのことを語って聞かせる仕事。
 そこには小夜子の知る限りのあやかしや神のおとぎ話が含まれる。
 不可思議な話には鬼が出る。女を攫い、宝を奪い、血を啜るもの。
 幼い頃であれば悲鳴もあげなかったような話が、今の小夜子には恐ろしい。
 
「こんなはずじゃ、なかったのに……」
 
 こつんと額を持たせた小夜子のつぶやきは、誰に聞かれるでもなく夕焼け色の空にとけていく。
 不意に、くしゃりと丸まった紙が足元に転がってきた。
 
「なんだろう」
 
 広げてみれば暦だった。日めくりのもので、昨日の日付が書かれている。
 無意識に星の巡りや月の満ち欠けについて思いを馳せるのは、やはり生家ゆえんか。
 
「待って」
 
 はっと小夜子は目を見開いた。これが昨日のものならば、今日は。
 
「月が魂緒星に入る日――つまり、もっとも力を増した鬼の出る日」
 
 気づいた途端に身体中が痣の痛みに支配されたようにどっと冷や汗が出る。震える己を抱きしめ、箒をきつく握りしめたが痛みは紛れない。
 発作とも言える症状だが、誰にも理解してもらえないし、治るものでも無い。その事実が小夜子を孤独にさせる。
 浅い呼吸ばかりの口を覆ってなんとか深く息を吸おうとするが痛みが邪魔をする。それでもなんとか立ち上がり、部屋に戻ろうとした小夜子の世界が、夕焼けの赤とは違う紅に支配されていく。
 
「これ……は」
 
 痣が熱い。
 全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
 呼吸が止まりそうだ。
 たすけて。だれか。
 声にならない叫びが夕焼けに溶けて――
 
「あなた、大丈夫?」
 
 ぱちん、と何かが弾けたようだった。
 痣の痛みも熱も引いて、ただ冷や汗だけが背中を伝って冷たい。
 せわしなく逸る鼓動は痛みの残滓のように小夜子を支配し、声の主へと顔を上げさせる。
 ほっそりとした女性の影が立っていた。
 夕陽を背負って茜色に染まる着物。
 まっすぐな黒髪。
 逆光の中、切れ長の瞳だけが青白く光を放つ。
 澄んだ声。深みのある低さが耳に心地よい。
 
「あ……」
 
 どちらさまですか、とか、お気遣いなさらず、とか、返すべき言葉は小夜子の頭の中だけを巡るだけで喉を通って出てこない。
 それでも見ず知らずの人にみっともない姿を見せたくなくて、小夜子はふるふると首を横に振って袷のあたりを握りしめた。
 
「お加減が悪いのね。たいへん」
 
 そう言いつつもあまり慌てていない声音で足音が近づいてくる。白い足袋が場違いな程にうつくしい。
 ふわり、と甘い香りがした。
 この香りにどこかで会ったことがある。
 直感でそう思ったものの、こんなにうつくしい知り合いはいない。
 額にやわらかいものが押し当てられる。
 
「お熱でもあるのかしら」
「あ!」
 
 女性は手巾(ハンカチ)で小夜子の額に浮かんだ汗を拭っている。
 なめらかな肌触りのそれは自分の汗を拭くなどふさわしくない。汚れてしまう。
 縮こまって拒もうとすると、体の前で無意味に揺れていた手がそっと取られた。
 
「あ……の」
「遠慮なさらないで。わたくしがそうしたいの」
 
 ね? と細い首を傾げて微笑まれては、何かを主張することが馬鹿らしくなる凄みがあった。
 額、頬、と手巾でぬぐわれ、女性の手は小夜子の襟元にかかる。
 後れ毛とうなじの間に汗がたまっており、少しくつろげられただけで風が通って涼しくなった。
 
「楽になった?」
「は……はい、あの、もう大丈夫です」
 
 いくら女同士とはいえ、外でしていい格好ではない。
 介抱してくれたのは有難く思うが、はしたないところを誰かに見られでもしたらこのひとにも迷惑がかかる。
 少しずつ頭の回るようになってきた小夜子が退いて襟を直そうとすると――
 
「お待ちになって」
 
 ほっそりとした見た目からは想像もつかない力で引き寄せられる。
 女性に抱きすくめられた小夜子は、甘い香りの拘束に目を白黒させるばかりでなすがままだ。
 彼女の背は小夜子と同じくらいだ――とどうでもいいことだけ脳が認識している。
 すう、としなかやな指が背中に触れた。
 
「あ」
 
 そこはちょうど、痣の真裏。矢で射抜かれたとするならば、ちょうどそこを通る場所だ。
 
「わたくしは(たま)というの。よろしくね」
「たま、さま」
「さまなんてつけないで。あなた、お名前はなんとおっしゃるの」
 
 このひとは何かを知っている。
 逃げなければ。少なくとも問いたださなければ。
 そう念じる小夜子の頭と体は乖離している。
 
「小夜子……です」
 
 問われるがままに答えると、珠はふふっと笑を零した。甘い香りが漂って、それが小夜子を惑わせる。
 
「小夜子。そう。可愛らしいわ。ねえ小夜子、わたくしのおうちにいらっしゃい」
 
 ぐ、と珠の指が背中をつよく押す。一瞬呼吸が止まって、痣がじわりと熱を帯び始める。
 
「うあ……」
「辛いでしょう。きっと今までもたびたびこうなってきたはず。でもわたくし、それを治してさしあげられるかもしれない」
 
 何を言っているのだろう。はじめて会ったひとに言い当てられるほど、これは簡単な話ではないはずだ。
 これは小夜子の幼い頃からの因縁で――
 
「小夜子」
 
 抱擁がやわらぐ。珠が身を離すと少しばかり距離が生まれた。
 しかしそのなよやかな手は小夜子のあかぎれた手を包み込んで離さない。
 
「わたくしとおいでなさい。ここで出会ったのも何かの縁だわ」
「で……も、わたし、ここの御屋敷に勤めていて」
「わたくしが話をつけるから大丈夫。この痣のこと……知りたくなくって?」
 
 痣。
 このひとはどこまで知っているの?
 小夜子がぎくりと身を強ばらせると、珠は下から覗き込むように膝を曲げた。まっすぐな黒髪がふたりの手をすべりおちる。
 むず痒さが皮膚の表面からちりちりと熱を持つ。その熱はいつのまにか小夜子の内に達して、かりかりと骨を引っ掻くようだ。
 
「あ、あの、珠様がどなたか存じませんが、身分の高い方とお見受け致します。わたしのようなものにお慈悲はもったいのうございます」
「……お慈悲?」
 
 きょとんと首を傾げたたまは一拍ののちにふふふと唇をほころばせる。
 
「そう。あなたがそういうことにしたいのなら――いいわ。そういたしましょう」
 
 歌うような独白は小夜子の応えなど必要としていない。興が乗ったとばかりに弾んだ声で笑った珠は、勢いにまかせて小夜子の唇を塞いだ。
 
「――…………え」
 
 こぼれんばかりに見開かれた小夜子の瞳に映るのは伏せられた長い睫毛と肌理の細かい白い肌。
 そのまま深く重なる唇に、小夜子は抵抗の代わりに幾度も目を瞬くしかできない。
 
「ん……ッ」
 
 口内に香る甘さが小夜子の中の記憶を呼び覚ます。
 これは星を見た時の甘さだ。
 遠い昔に父が語った戯言で勘違いの末に生まれた星の味。
 どうしてそれが珠と――
 ずるずると座り込む小夜子の腕だけを引っぱり上げたままの珠は、先程まで触れていた唇をぺろりと舐める。
 
「うふふ」
 
 あたりはすっかり日が暮れて、ふたりの輪郭は曖昧なまま宵に溶けていく。
 
「香々瀬小夜子――見つけましたわ」
 
 愛らしく微笑んだその瞳が、青白く瞬いた。