その星は、流れ星よりも劇的に、小夜子の前に降ってきた。

 月の満ち欠けについて正しい知識を得てから数年――年頃になった小夜子の日課は天体観測だった。
 この国に古くから伝わる星の神を祀る家、香々瀬家。その家の者として、夜空は幾つになっても見果てぬ夢であり永遠の教材だ。
 暦の軸が太陽に変わろうと、小夜子は星について学ぶことを止めなかった。
 いにしえよりの言い伝えと、海の向こうからもたらされた新たな知見。どちらも星についての知識には変わりない。
 だからその夜も変わらぬ日常のひとつとして、小夜子は庭に出て行った。
 携帯望遠鏡に提灯。懐には筆記用具を忍ばせ、夜風で冷えぬように襟巻きで首元を暖める。
 これがいつもの小夜子の服装である。
 
「今日は東の空を見てみようかしら」
 
 提灯で足元を照らしながら小夜子はゆっくりと観測地点に向かう。木々に遮られぬ広い空を眺められる、お気に入りの場所だ。
 
「……?」
 
 小夜子が不意に見上げた先に、その星は瞬いていた。
 携帯望遠鏡を下ろして肉眼で見ても、やはり見え方や感じ方に変わりはない。
 
「……ええと、角度は……こう。方位は……」
 
 気になる星を見つけた時、小夜子は肩を支点とし、腕で星の角度を測る。書物で得た知識である。季節と方角、時間帯を加味すればおおよその見当はついた。
 懐には指南書を書き写したものをいつも持ち歩いている。部屋に戻るのもまだるっこしく、小夜子は池のほとりにある大きな庭石に座り込み、提灯を別の石と石の間に渡して手元の灯りとする。
 帳面が分厚くなるのが嫌で細かい字で書き連ねていたことを今ほど悔いたことはないだろう。薄暗がりの中で目を凝らして頁を繰る。
 
「季節……方角……うん、確かこのあたり」
 
 書き写した時の記憶を頼りにあたりをつけて一気に頁を開けば、お目当ての記述に近いところまで来ていた。
 小夜子の胸の中でどっどっと速まる鼓動が帳面を繰る指をせきたてる。頁に映る残像は、先程目に焼き付いた青白い光だ。
 あれは、何かを告げている。
 さほど大きくもない星。しかし、あれは小夜子の目に飛び込んできたのだ。
 香々瀬の家にはそうした特定の星との縁を強く感じる者がいると聞く。もしやあれが、私の運命の星なのかもしれない。
 年頃の少女らしく夢見がちな胸の高鳴りが小夜子をその頁へと導いた。
 
「たまおの、ほし」
 
 それが、小夜子と魂緒星(たまおのほし)の出会いだった。

 頁を読み進めるごとに、小夜子の瞳は揺れる。内側から胸を破りそうなほどに暴れる心の臓が喉元までせりあがってくる。
 つい先程まで期待にときめいていた鼓動が違う感情に塗り替えられていくのがわかった。
 “魂緒とは、玉の緒。すなわちひとの肉体と魂を結ぶ緒は生命そのものを表す。その緒に手を伸ばし、我が糧にせんとするのは常世の闇の(おさ)、鬼である。
 鬼を司る魂緒星は、天空に瞬くあまたの輝きの中で最も力が強く、恐ろしいとされる星。その星に月が宿る夜、鬼は一年のうちで最も強き力を得て――"
 
「――……っ」
 
 文字を追っていた指が冷たくなっていくのがわかる。それ以上読み進めることすら戸惑い、その頁から、果ては己の記した墨から瘴気でも滲み出てくるのではないかと恐れた小夜子は無理に顔を上げて逸らした。
 すると、天上の青白い光が小夜子を待ちかねたようにひときわ強く瞬いた。
 いつぞや、父が話していたことが耳の奥に蘇る。
 鬼。
 強く賢く厄介な、それでいて粗略にはできぬ、鬼にまつわる星。
 目を逸らしたかった。否、できない。
 文字からは逃がせた瞳が、星に射すくめられている。
 背筋を伝うひやりとしたものにかろうじて意識を繋がれながら、小夜子は口の中がからからに渇いていることをどこか他人事のように感じていた。
 瞳の奥に飛び込んでくる光は星が見せる鬼火なのか、それとも目眩を起こした自分の内から湧き出る防御反応なのか。
 意を決した小夜子は無理やり一度強く目を閉じる。あかあかとした瞼の裏を見据え、そのまばゆさを味方につけるように目を開けば、やはり天上には変わらずその星はいた。
 ぎゅうと強く目をつぶり過ぎたのか、二重三重に光が揺らいで見えるせいで本来よりも遥かに大きさを増した星が、小夜子を嗤うようにちかちかと瞬く。
 否、これは己の内にある畏れがそう見せるのだ。意識をしっかり保たねば、あの星から鬼が彷徨い出でてしまうに違いない――
 
「鬼の……星、魂緒星」
 
 小夜子は気を確かに持とうと帳面を読むために石の間に渡していた提灯を手に持ってかざし、その灯りで己を鼓舞する。
 
「大丈夫。あれは星。直接何かすることはないもの」
 
 遥か彼方の星の瞬きよりも熱さえ感じる手元の燈明かりの方が小夜子にとっての現実だ。そう言い聞かせればさして大きくないその魂緒星はその光を縮めていくように見えて、小夜子は落ち着きを取り戻していく。
 その時――傍らの石に置いていた望遠鏡が風もないのにころころと落ちた。窪みに置いていたはずなのに、と訝しみつつ望遠鏡を拾おうと腰掛けていた庭石から立ち上がると、今度は広げていた帳面がひとりで頁を繰り始める。
 
「!」
 
 それ以上身動きが取れなくなってしまった小夜子は中途半端な姿勢のまま、提灯の炎を縋るように見つめる。
 つい先程まであかあかと燃えて小夜子を鼓舞してくれていた炎は、小夜子の眼前で花が枯れるように萎びて消えていった。
 
「――っ!」
 
 とっさに提灯を投げ捨てた小夜子は母屋に向かって駆け出した。
 帳面も望遠鏡も置き去りにして逃げる彼女の背後が、花火を打ち上げた空のように明るくなる。
 
「!?」
 
 咄嗟に振り向いた小夜子が見上げる中、光は一瞬で空を満たし、一点に向かって収斂していく。
 その凝縮された光が、熱が――小夜子の胸を、貫いた。
 
「あ」
 
 悲鳴は上がらなかった。痛みもなかった。ただ、か細い声と共に吐き出された息だけが、ひどく熱かったことを覚えている。
 
「――香々瀬の娘? ふうん」
 
 少年とも少女ともつかぬ柔らかい声が耳元を淡くくすぐって――小夜子は、気を失った。