昨夜の雷雨はすっかり去り、晴天の朝を迎えた。

 清々しい空なのに、珠子にとってこんなに恨めしい夜明けはない。
 楽しいときはあっという間だった。九月の夜は長いはずなのに。

「必ず迎えに来ます。あなたを妻に迎えたい。このような山里に、あなたのような素晴らしい人がいたなんて。昨日の雨に感謝しなければ。わたしが迷わなかったら、珠子姫には逢えなかった」

 懸命に、高藤は珠子の手を握って訴えた。

 外では、高藤の従者らしきたちの声がいくつも聞こえてくる。とうとう高藤を捜し当てたのだ。父も高藤の在宅を従者へ知らせに行ったかもしれない。

 別れのときが近づいてきている。
 離れたくない。珠子は高藤の胸にしがみついた。

「お別れしたくありません」
「わたしも同じ気持ちです。しかし、わたしはおじのお世話になっている身の上なので、妻を迎えるとなると、おじを説得しなければなりません。少々頑固な方ですが、心を込めてお願いすればきっとお許しをいただけるでしょう」
「高藤さま……」
「あなたも、この邸を出ることになります。都へ上がるのですから、準備があるでしょう。身の回りの調度品や装束、化粧道具、もちろん使用人など、必要なものや人は用意しますが、持って行きたいものをまとめておいてください」

 この身が、都へ?
 父や母、姉と離れることになる。千佐も。耐えられるだろうか。

 都の邸に高藤が迎えてくれても高藤には仕事があるし、ずっと一緒にはいられない。母や千佐が読み書きや音楽、家事などもいろいろ教えてくれたが、都人から見れば珠子など田舎の娘に過ぎないはず。

 なのに、期待してしまう。

 もっと高藤を知りたいと、都に行きたいと願ってしまう。

「そのような顔をしないで。わたしがあなたを守ります。だいじょうぶですよ」

 不安が顔に出ていたらしい。高藤は珠子の頬を両手でおさえた。

「誰のものにもならないで。他の男を勧められても断りなさい。約束ですからね」
「た……高藤さまこそ」
「ご心配なく。そうだ、これを珠子姫に求婚のしるしとして渡しましょう」

 高藤が取り出したのは太刀だった。見るからに高価そうで珠子は遠慮した。

「いけません、このように立派なものを」
「では、次に逢う日まで預かっておいてください。再会までの約束として……では、そろそろ行かないと」

 名残惜しそうに高藤は立ち上がった。

 別室で、従者の持って来た新しい濃紅色の狩衣に着替えた高藤は素晴らしい貴公子ぶり。貸していた父の装束ではほんとうに申し訳なかった。
 凛とした高藤の立ち姿に、珠子は見とれてことばを失った。

 雨露が残る道を高藤は騎馬で静かに進んでゆく。

 珠子は、柱の陰から高藤一行が帰ってゆくのを黙ってひとりで見届けた。