「お初にお目にかかります、千堂ちえと申します」
「初めまして、丸田です。こんな山奥まで1人で大変だったでしょう。荷物お待ちしますよ」
出迎えたのは洲崎家斬殺事件の生き残りの1人使用人の丸田さんという男の人であった。そして大きな扉を開けてにこやかに私を迎えてくれた。数ヶ月前にここで大事件があったとは到底思えないくらいの和やかな雰囲気。それが逆に不気味だ。
そして婚姻は結んでいるものの、自分を『洲崎』と名乗ることには気が引ける。
「あ、これは自分で持ちますので、すみません、ありがとうございます」
そう言って自分の手のうちに握ったのは父から預かった刀、鬼怪刀である。
昔からあやかしを祓うために使われたもの。
ここにいるうちはお守りのようなものである。これがなければ臆病者の旦那様を守ることも難しい。
丸田さんのあとをついて長い廊下をぬけた先には広々とした座敷の部屋が広がっており、なぜか紙が床に散乱していた。
そして机の上に項垂れている男が1人。頭には紙が何枚か重なり頭を覆っている数枚の紙の隙間からところどころ黒い髪の毛が上に向かってはねている。
「まーたとっ散らかして、櫂さんいい加減にしてください。今日は大事な日だと言ったでしょう」
「…なぜ父さんはこんな面倒な仕事を残して逝ってしまわれたのだろうか。やっぱり俺には当主なんて無理だよ」
顔を伏せているためどうやら私の存在にまだ気づいていないようだ。こもったような情けない声がそこに響く。
「櫂さん」
「どうせ俺は軍人にも入れない弱虫だし、あやかし寄せ付け魔だし、家の経理もできないヘタレ野郎だよ」
「櫂さん」
「丸田だってこんなやつの付き人本当は嫌なんだろう、なーんで俺が生き残ったんだろうなあ」
「櫂さん、ちえさんが来られましたよ」
「えっ!!」
勢いよく顔を上げて立ち上がったため、頭を覆っていた紙たちが舞ってひらひらと落ちていく。
1枚が私の足元に落ちた。
ゆっくりとそれを拾い上げて私はその男を見つめる。
確かにまことが言っていた『美男子』というのは本当であったみたいだが、それを上回るほどの『臆病者』というレッテルが剥がれることはなかった。
私は数歩前に進み、拾い上げた一枚の紙を彼に差し出した。
「ちえと申します。本日からよろしくお願いいたします」
精一杯の愛想笑いとともにそう言えば、櫂さんは狼狽えながらも「こ、こちらこそ!」とうわずった声を出す。
「お見苦しいところを見せてしまいすみません」
「いえ、先に声をかければ良かったのですが」
これから共に暮らしていくと言うのに他人行儀も甚だしいが当然であった。だって今日初めて顔を合わせたのだから。
文書で挨拶を交わした程度だったため、私は櫂さんのことをよくは知らない。そして相手もきっとそうだ。
しかし、結局のところ櫂さんがなぜ私を嫁がせたのかという理由が分からない。
「あの」
「立ち話でもなんですし、ひとまず荷物を置いてきましょうか、ちえさん」
丸田さんがにこやかにそう私に言った。
聞けずじまいの質問は内に秘めたまま、櫂さんに会釈をして部屋を出ようと背中を向けた。
「ちえさん!」
櫂さんに呼び止められ振り向けば、櫂さんは心の底から嬉しがっているような笑みを私に向ける。おそらくこの人は感情豊かな人なのかもしれない。
「ここに来てくれてありがとう」
守ってくれる人がいるということに安堵しているのか、結婚したことによって家の体裁を維持することができたことへの嬉しさなのか。
どっちでもいい。
私は、私の勤めを果たすまでである。
「…よろしくお願いします」
こうして、私と名家洲崎家の当主、洲崎櫂との不思議な結婚生活が幕をあけた。