ひな乃が甘味処に戻って以降、柊は常にひな乃とともにいた。

ひな乃と同じ部屋で眠り、ひな乃と同じ時間に起きる。
料理も少しずつ教えてくれるようになった。

昼の間に出かけることもなくなったようだ。

「人の世で暮らすためにいくつか仕事をしていたが、必要がなくなった。後任に任せておけば、生活に困らないだけの金は手に入る」

ということらしい。

甘味処も辞めてしまうのかと思ったが、それは違うらしい。

「甘味は奥が深い。極めるまで辞めるつもりはない」

神格なのに甘味好きとは可愛らしい。
ひな乃は柊の意外な一面が好きだった。



すっかり平穏を取り戻したある夜――。

「え? もうお店を閉めるのですか?」

今日はもう終わりにしようと言われたひな乃は、時計を確認して首を傾げた。

「あぁ。今日はもう客が来ないだろうし……嫌な予感がする」

柊が窓の方を振り返る。
そこにはたくさんの星が浮かぶ夜空が見える。
けれど……。

「あら? 何かしら……雨雲?」

よく見ると、だんだんと分厚い雲が夜空に広がっていく。
まるで星を飲み込んでいくようだ。

さっきまで雲なんてなかったはず。
それに新聞の天気予報には晴天だと書かれていた。

ひな乃が夜空を確認していると、あっという間に三日月までも雲によって覆われてしまった。

夜空から光が消える。

「来る」
「え?」

柊の気配が鋭くなった。

その時――。




「こんばんはー。あんた達を制裁するために、わざわざ会いに来てあげたわよ!」

茜の声とともに甘味処の扉が乱暴に開かれた。

そこにいたのは茜と八久雲家当主、そして黒く大きな影だった。
ひな乃はその影を見た瞬間、全身が粟立つ。

ヤツガミ様だ。
神像よりもおぞましい姿……。

ひな乃はそのまま動けなくなってしまった。

こっちを見てる……!

恐ろしい影には目がなかったが、ヤツガミがこちらを見ているのが分かった。

影はシュウシュウと音をたて、ぐにゃぐにゃと形を変える。
ひな乃を見つけて喜んでいるようにも見える。

「嫌……」

ひな乃からか細い声が漏れた。
すると柊がパッとひな乃を守るように前に出る。

「ここは甘味を食べる場所。客人でないならお引き取りを」

重々しい柊の声には怒りが滲んでいた。

柊の怒りに茜は一瞬だけたじろいだが、すぐに甲高い声で笑い出した。
まるで柊の怒りを切り裂くように。

「あはははっ! 月神ってしょうもない冗談しか言わないのね。そんなこと言われて帰る奴がいる? 私たちはあんた達に罰を与えに来たの! ヤツガミ様と一緒にね!」

茜の言葉とともに黒い影がモゾモゾとひな乃達の方へ近づいてくる。
後ろで当主が何かを唱えると、黒い影が形を変え始めた。

「来られませ 悪しきを喰らう者 真なる姿となりて 夜を司る者を滅ぼせ!」

当主の声に応えるように黒い影から足が何本も生えてくる。
ギョロギョロと八つの目も飛び出してきた。

蜘蛛だ――。

ひな乃は初めてヤツガミの真の姿を見た。

八本の足と八つの目が不気味に蠢いている。
巨大なそれは、柊を見ると威嚇するように目を赤く光らせた。

「あぁヤツガミ様、我らに仇なす者達に罰をお与えください! 月神など滅ぼしてください!」