「なぜ月守家当主は契約を拒否したのでしょうか」

契約上、月守家に損はないはず。
破棄する理由が見つからなかった。

だが柊には心当たりがあるようだ。

「最近はあやかしにも人にも、怪しい動きをしている者たちがいる。神々の勢力図をひっくり返したい者たちだ。月守家もそちらに傾いたのだろう」

神々の勢力図。
その言葉に恐れ慄いてしまう。
そんなものに、深く立ち入るべきではない。

月守家は何故そんな危険なことを……。

ひな乃には月守家が愚かに思えた。
それと同時に不安もよぎる。

「柊様は、何か危険な目に遭われたりしなかったのですか? 人やあやかしから追われたりしませんでしたか?」

柊は月神様なのだ。
他のあやかしから狙われる立場のはず。

ひな乃の心配を晴らすように、柊は笑って首を振った。

「小物に狙われたところで、何ともない。だか数が多いと相手にするのが面倒だ。だから人の姿となり、人の世をふらふらと気ままに彷徨っていた。そのうち人の食べ物に興味が湧いて、甘味処を始めたんだ」

人の世で過ごし、人の食べ物が気に入った柊。
自分でも作ってみようと料理を始めると、思いのほか面白かったらしい。
特に甘味が気に入った柊は、店を構えたのだ。

甘味処 月。
それは柊が思う存分に甘味を試すための場所だった。

「ここは結界が張ってあるから小物は入り込めない。八久雲のように人として入ってこられると面倒だがな」

柊はここで悠々と暮らしていたようだ。
それなのに――。

「申し訳ありません……。私……」

私が柊様の平穏を奪ってしまいました。

後半は言葉にならなかった。
涙が頬を伝ってポタポタとテーブルに落ちる。

すると柊は「違う」と強く言葉を吐いた。

柊がひな乃に手を伸ばす。
テーブルに乗っているひな乃の手に、そっと触れた。

「謝るのはこちらだ。お前に迷惑をかけた。まさか月守家の人間が、お前に心臓を送るとは思わなかったんだ。お前は巻き込まれただけだ」

申し訳なさそうに微笑む柊を見て、ひな乃の胸がキュッと痛んだ。

「私に柊様の心臓を送ってきたのは誰なのですか?」
「月守家も一枚岩ではない。誰かが当主から心臓を奪い、お前に送ったのだろう。月守家の血が絶える前に。なにせお前は、月守家最後の世代なのだからな」
「……」

送り主が生きているかも分からない今、確かめる術はない。

その人は、ひな乃に月守家を継がせたかったのだろうか。

月守家から縁を切られ、不幸から逃れたひな乃に――。



そこまでして家の血を守りたいものなの?
それは個人の意思よりも優先されるものなの?

ペンダントの送り主の気持ちが、ひな乃には分からなかった。

ひな乃には家族と呼べる人達がいない。
そのせいだろうか、血にこだわる人々の気持ちは理解しがたいものだった。


「……すまない」

考え込んでいたひな乃に柊の言葉が降り注いだ。

「なぜ謝るのですか? 柊様のせいではありません。柊様は私を助けてばかりですのに」

ひな乃の言葉に柊は黙り込む。
そして何かを決意したように口を開いた。

「実はもう一つ、言わなければならない事がある。月守家の初代当主に言われた言葉だ。『月神の心臓は人にとって猛毒。なれど定められた人間は、それを飲んでも息を吹き返し運命を伴にするだろう』と」