思わずひな乃は後ずさる。
けれども後ろにはカウンターがあり、あまり意味のない行為だった。

「本当にいた。今あんただけしかいないんでしょう?」

茜はひな乃の他に誰もいないことを確認すると、店の中にずかずかと入ってきた。

「さっさと来なさい。八久雲の屋敷に帰るわよ」

ひな乃の腕を乱暴につかむと、そのまま外に連れ出そうとする。
慌ててひな乃はその場に踏ん張った。

少し前までのひな乃なら簡単に引きずられていただろう。
けれど毎日美味しい食事を食べて体力が回復していたひな乃は、思った以上に力が強くなっていた。

茜がどんなに引っ張っても動くことはなかった。

「ちょっと待ってください! 私、今……柊様から店番を頼まれているのです」

茜は引っ張ることを諦めたのか、ひな乃の腕を放り投げるように離した。

「柊様? あぁ、あいつのことね。あんた、あいつが何者か知ってるの?」
「何者って……ここの店主だと伺いました」

ひな乃が素直に答えると、茜は吹き出すようにして笑い出した。

「あはははっ、あんたって本当に馬鹿ね。あいつはね、神格なの! それも月神よ! あんなのが人間なわけないでしょ。気づかなかったの? 能力者の家系のくせに、本当に何の力もないのね」
「つ、月神様? 柊様が? そんな……」

ひな乃は息を呑んだ。
月神といえば、知らぬ人がいないほど強力な神格だ。

あやかしが活動する夜を司るといわれており、人間の信者も多いと聞く。

「あいつ……あんたが倒れたら急に現れて、『捨てるならもらい受ける』とか言って無理矢理あんたを連れ出したの! 後から帰って来たお父様はカンカンに怒っていたわ。だから連れ戻しに来たの! この私が!」
「どうしてここが?」
「家の者に探させたのよ。まさかこんな所で優雅に店を開いているなんてね。探し当てるまで大変だったんだから。本当に迷惑かけないでよね! ほら、帰るわよ」
「私、行かないわ」

ひな乃の声は震えていたが、瞳はしっかりと茜を見据えていた。