やめてほしい。
 いや、やめてほしくない。
 ほしいんだけど、それをされると身体が痺れたようになってしまうからちょっと。

 蒼空(そう)は冬の部室で煩悶する。
 陸上部の冬季練習が始まったばかり。走り込みの量が増えて今年もまた蒼空は全身の筋肉痛を味わっている。
 肺まで筋肉痛だから、深く息を吸うと痛い。

「だから、甘く耳元で囁かれると困る」
「どうして?」
 200㍍のセット走の合間に蒼空が一学年下の一藍(いちあ)に小声で言うと、相手は口角をあげて愉快そうに尋ねてくる。
 蒼空を見上げて細める一藍の目は、今日も冬空を映して青く澄んでいた。

 いや、そんな綺麗な目で見つめ返されても。


 
 秋に蒼空が一藍に好きだという気持ちをしっかりと言葉で手渡してから、一藍はこれを仕掛けてくるようになった。
 仕掛けてくるなんて言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど、耳元で囁かれた時に蒼空が即座に体温を上げるのを一藍は気付いてるワケだから。
 確信犯?


 今日は部室で一番奥まったところにあるホワイトボードに2年生の練習メニューを蒼空が記入している時だった。
 他の陸上部員が見ていないタイミングで、一藍がそっと身を寄せてきて蒼空の耳元に唇を寄せた。

Je(ジュ) t'aime(テーム) trop() pour(プォー) courir(クーリー) avec toi(アベックトワ)

 一藍の息がかかる。
 温かい息とともに流れるように言葉を囁いてくる。
 蒼空はホワイトボードに両手をついて、しばらく身動きできずにいた。
 深く息を吸ったら、筋肉痛になった肺も痛かった。

(ジュテームって一藍…ここ部室)

 フランス語の辞書はスポーツバッグに忍ばせてある。聴き取ったクーリールという単語のスペルを後で一藍に聴かないと。
 いや、そうじゃなくて。
 一藍が部室を出ていった後もしばらく蒼空は皆に背を向けたままホワイトボード前で佇んでいた。顔を誰にも見られなくて良かったと心底思う。
 自分がどんな顔をしているかは熱くなった頬骨あたりの感覚で分かる気がする。

 だからさ。駄目なんだって。
 甘く囁くのは二人きりの時にしてほしい。

 でもまた明日もしてくるんだろう。蒼空と一藍の、二人だけの哲学。
 この俺の悩ましい人生を解き明かせるか、否か。