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「色々とありがとうございました」

深々と頭を下げた日菜に九条は真顔である。
九条の返事がなく、手土産も受け取らないため日菜はおそるおそる顔を上げて「あの」と声を出す。


「そういう堅苦しいの逆にイラっとくる」

「ええ」

九条がくるりと体の向きを変えてピアノの椅子へと座って足を組んだ。
駆け寄ってきた日菜を膝に肘をつき頬杖をついて見上げる。
仕事にあけくれて、休む暇もなかったのか目の下にはうっすらと隈があるのを視界に入れた九条。

「音楽療法は健康的な人にも効果がある」

「え…?」

「心身の機能が正常に働くように予防する力があるってことだ」

「えっと、はい」

九条の言葉に生返事で答えた日菜。何を言い出すのかと首を傾げる。
すると、九条は少しずれて1人分の隙間をあける。


「座れ」

「はい?」

「すわれ」


九条に急かされて日菜は九条の隣に座った。触れる肩が妙にくすぐったい。気持ちに蓋をし、日菜は邪念を振り払うように頭の中で仕事のことを駆け巡らせる。

「何、弾きたい」

日菜は隣をみた。九条は鍵盤をまっすぐ見つめている。
日菜は戸惑いながらも口を開いた。


「…ドレミの歌ですかね」

「きらきら星じゃないのかよ」

「この前やったから」

「ドレミの歌だって前に」

九条が顔を上げる。近くなった距離を意識したのか九条の言葉が止まった。以前はそんなことを気にしている様子はなかったのに、と日菜は思う。
日菜は誤魔化すように鍵盤に瞳をおとした。


「…弾きますか」

日菜の力ない「ド」がそこに響く。
そんな時、日菜の目の前に何かが差し出された。


「なんですか、これ」

「見りゃ分かる。そういうやつだ」


九条が日菜に渡してきたのはプラネタリウムのチケットであった。
日菜はチケットと九条を交互にみる。何事だ、と。

「…ピタゴラスがていした宇宙ってのがテーマで映像と音楽が一緒に味わえるし、こう、最近色々あったし、落ち着く時間も必要だろうと思って、一種の、音楽療法的な」

少し顔を赤らめた九条がそう言う。初めて九条のそんな様子を見て日菜はふきだすように笑う。
こんな顔もするんだと新しい一面を知れて嬉しくなった。


「…ふふ」

「なんだよ」

「いえ、なんでもないです。ありがとうございます」

とチケットを受け取った日菜。


「いつ行く」

「え、一緒に行くんですか」

「はあ?普通に考えたらそうだろう」

「そっか、一緒に…それって、あの、デート的な」

「うるさい、早く弾け」


荒々しくも始まった『ドレミの歌』。噛み合わないようで、でもどこか楽しそうな、そんな音色がそこに響いた。