彼女が真実を歌う時





九条は走った。こんなに全力で走るのはここ最近だと3回目である。
なぜ自分がこんなことに巻き込まれているのか、そんな思いがよぎらないと言ったら嘘になる。

昔から、トラブルには巻き込まれやすい方であった。

「くそ…」

音楽をやっていなかったら、どんな道があったのだろうか。自分はどう転んでもこういう風になっていただろうな、とそんなことを思った。

だが、守りたいと思ってしまったのだから仕方がない。
九条は病院のカウンターに手をついた。
おそらくまだ、何も起こっていない。そう信じたい。


「すみません、えっと、美結さんって人の病室、どこっすか」

息を切らして凄まじい剣幕になっている九条に若干引き気味の受付の女は「あの苗字は」と九条に問う。

苗字などは知らない。そもそも日菜の親友の顔すら知らない九条にとってその時間ロスすら焦燥が募っていく。

九条は走り出した。後ろで九条を引き止めるような声が聞こえたが足を止めている暇はない。
産婦人科の文字を必死に探す。

その時である、


「池崎さん!大丈夫ですよー!分娩室に移動しますからね!元気な赤ちゃんうみましょう!」


担架に乗せられて唸っている女に複数の看護師が声をかけているのとすれ違う。
そして運ばれていく女の後を追うように夫らしき男が名を呼んだ。

「美結!」

美結。
その言葉を聞いた瞬間すぐに九条は女の元に駆け寄った。
周りの看護師から「なんですかあなた!」と止められる。こういう時になぜいつも着ている白衣を持ってこなかったのだと後悔する。あれは信用されるための戦闘服のようなものだった。


「池崎美結さん!あなたの親友の名前は若月日菜さんで間違いないですよね」

看護師に止められながらも九条は痛さで苦しんでいる美結にそう問いかけた。
美結は苦しそうだが、なんとか目をあけて九条を視界に入れた。


「そっ、うです!」


九条は看護師の腕を振り払い、今から入るであろう分娩室へと足を踏み入れた。
ーーー田所ミチは、赤ちゃんが生まれた瞬間と言っていた。
ライブ会場で仕掛けたのも爆弾だった。

つまり。


「あった」


分娩台の下にあったのは、時限爆弾であった。
九条はそれを手に取り、分娩室を出る。
爆弾からは微かにピ、ピ、という音程の違う音が聞こえている。

「あっ、あなた、それ、なんですか!」

「説明するとこれ止める時間なくなるんで、はやく分娩室入って!」


九条は、荒れる看護師や医師たちにそう言い放ち走り始める。
残り3分を切っていた。

一旦外に出る時間よりも、早く爆弾を止める方法を考えることにした九条は誰もいない部屋に入る。一か八かの賭けであった。

爆発すればどれくらいの威力になるかも分からない。
この病院ごと爆発し、赤ちゃんだけじゃない大勢の死者が出るかもしれない。

そう考えるだけでパニックが起きそうになる。


「落ち着け、落ち着け、大丈夫だ、やれる」


九条は頭の中でモーツァルトを響かせていた。
そして状況を把握するように機械をじっと見つめる。

微かに流れてくる音。何本にも伸びる色とりどりの線。そこには数字が長々と縦に書かれたシールが貼られている。

相手は、ピタゴラスが好きで、ギター、ピアノが好きで、音楽と、若月日菜が好き。

残り2分。

九条は機械に耳を寄せて、音に耳をきく。
一音ずつ流れているその音階を口にだした。

「ド、ミ、ソ」

その音が繰り返し流れていた。
九条は再びそれを視界に入れる。

何本も伸びている線を指で探った。
シールに書かれてある数字はおそらく音の周波数だ。

なぜここまで手の込んだことを、と九条はミチにたいしての怒りが込み上げてくるが、ぐっと堪えた。ここまできたら逃げるわけにはいかない。

「ド、261とかそんなんだったか」

九条は手で数字を見つけていく。

「あった、『261.63』」

九条は近くにあったハサミを手に取ってそれを切ろうとするが、ふと手を止める。

相手は、ピタゴラス好きだ。
今、九条が見つけた周波数は今世に蔓延っている『平均律』で奏でられている周波数であり、

時代によって周波数も異なり、名前もある。
もし、この音が『ピタゴラス音律』の周波数であれば。

微々たる違いのため、九条の耳には聞き分けるほどの能力はない。

261.63という数字に近しいものを探す。2つ見つけて頭を抱える。

「264か、260.74」

分かるはずもなかった。そこまで勉強はしていない。もっと勉強していればよかった。そんな後悔が募ってく。九条の額からぽたりと汗が落ちる。

九条はふと思い出した。

ミチの他にも、ピタゴラス音律に詳しい人がいる、と。

九条は震える手でスマホを取り出して電話をかける。

「頼む、出てくれ」

喉のそこから掠れるような声が出る。
残り1分をきった。


「もしもし、どうしたんですか九条先生」

「相場さん!えっと、宗馬くんと今話せますか!」

「ええ、かわりますか?」

「お願いします」

しばらくして、宗馬の声がした。
九条はハサミを強く握る。これが失敗すれば、自分は確実に死に、この親子を変に巻き込み、若月日菜も救えない。
九条は全てを覚悟した。

「…せんせ?」

「宗馬くん、時間がないからひとまず質問に答えてくれ。宗馬くんが持ってるピタゴラスの本、260付近のドの音、正確な数字はなんて書いてある?」

「ドのおと、ドのおと、先生、何ですか、分かりません」

「宗馬くん落ち着いて。この音を聞いてほしい」

爆弾とスマホをめいっぱい近づける。
近くで母親である美奈子の声がした。


「聞こえたものの数字、言ってごらん、お母さんも聞きたいな」

美奈子の落ち着いた声が聞こえてくる。
宗馬がしばらくして、数字を言い始めた。

「260743303911」

残り30秒。九条は繰り返されるその数字を頭の中で必死に音に変換する。

「ドの音は、260.74」

数字の中からそれを見つけ出し、迷っている暇はなくハサミで線を切る。

「落ち着け、落ち着け、次だ、まだ間に合う。ミは、平均律で329とかだろ、それだとおそらく330か」

その数字は線の中にも存在していた。パチン、とそこに音が響く。


「ソ、ソは、平均律392、ピタゴラス音律は」

「3911」

宗馬の声が聞こえる。
九条の頭の中で変換される『391.1』。
宗馬を、そして自分自身を信じるしかなかった。

その一本の線にハサミを入れる。爆発して宗馬がパニックを起こさないように九条は電話を切った。

残り1秒。

パチンっと音が鳴る。

九条は表示されている「1秒」という数字を見た。そのままそれは止まっている。
走ってもいないし、誰かと殴り合いの喧嘩をしたわけでもないのに汗だくになっており、息も上がっていた九条。

手は痺れていた。

「…止まった」

九条が仰向けに倒れ込んだ瞬間、赤ん坊の泣き声が九条の耳に届いてきた。

瞳から溢れたひと粒の雫が、こめかみから伝っていく。九条は目の上に腕を置いた。


「…よかった」


九条の口から、安堵の息と共にそんな言葉がもれた。