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ほとんど学校には行っていない。
必要ないと思ったからだ。クラスの中にいれば、檻の中に入っているような気がして嫌いだった。
場に馴染むように、自分の存在が浮かないように、そんなことを考えることが面倒になった。

息苦しさを紛らすように、たどり着いたそこは立ち入り禁止とされている場所の奥に潜んでいた。

扉は閉まりが悪く、小さく開かれた隙間に手を入れめいっぱい力を込めればなんとか1人でも開けることができる。

中は埃っぽく、人がしばらく中に入っていないのが明確だった。

小さな秘密基地のような空間にはピアノが一台置いてある。
音楽室に置いてあるような大きなピアノではない。
壁に沿って佇んでいるそれに真中理音は近づいて、人差し指で音を鳴らす。

調律は狂っており、変な音がした。


「なに、ここ」


真中理音はあたりを見渡す。ところどころ色が変わり、壁の表面は剥がれ始めていた。

真中はそっと、壁に手を添える。何か小さな文字で書いてあったからだ。
文字を指でなぞった。


「ピタゴラスの部屋…?」


この部屋の名前だろうか、と真中は思う。そして床に一冊の本が落ちていた。どうやらピタゴラスの音楽についての哲学書のようなものであった。

誰がここを使っていたのだろうと疑問が真中の中で生まれる。

だが、しばらく誰も入っていないことは明確であったため、自分が隠れる場所としてはもってこいの秘密基地である。

こうして真中理音は、1人で『ピタゴラスの部屋』に訪れるようになった。

ここには、たくさんの『音楽』が無造作に散らばっていた。

歌詞と思われる紙や、楽譜、本。

心の中にぽっかりとあいた穴を埋めるように、真中は音楽に没頭した。

ついには、ギターを買った。自分の同じような境遇の人たちとバンドを組み歌うようになった。

ピタゴラスの部屋は真中が掃除をし、ピアノも勝手に調律をした。
ここを使っていた先輩は、きっと誰かに綺麗にしてほしいと願っているはずだと思ったからだ。

そんな時であった。


「…ここが、ピタゴラスの部屋?」


ヒルイと出会ったのは。

いつものように、学校には来るが教室に行くことはなくピタゴラスの部屋で閉じこもり音楽を作っていた真中。
そこに足を踏み入れたのは1人の金髪の怪しげな女であった。


「…誰?」


警戒をするように立ち上がってそう言った真中に、金髪の女がゆっくりとピタゴラスの部屋に入ってきた。
明らかにここの生徒ではない。


「先生、呼びますよ」

「こっ、困りますね、だけど、先生呼ぶとこの場所バレちゃいますけど」

変におどおどしているようにも見えるが、どこか芯のある声であった。
そして金髪の女は真中と同じように、ギターケースを背に背負っていた。

女は、自分をヒルイだと言った。


「…ヒルイって、あの?」


顔出しをしていないアーティストではあったが、たくさんの曲を生み出しブレイクしているヒルイ。
それが今真中の目の前にいる金髪の女だと、にわかに信じがたい。


「本物のヒルイなら歌ってみせてよ」


女は頷いた。そして床に座ると慣れた手つきでギターを取り出す。
すっと息を吸う音が短く響いた後、女が歌い出した。
真中は自身の中に込み上げてくる感情があった。ヒルイが今まで出している音楽とは少し違う。

すべての感情をぶつけるような、そんな歌声だった。
だが、その声は紛れもなくヒルイである。


ヒルイが歌い終わった時には、真中は泣いていた。
自分でもよく分からなかった。
だが、いつか自分もこんな風になりたいと漠然と思った。

真中は正面からヒルイの隣へと移動し、座る。
抑えきれない高揚感をそのままヒルイにぶつけた。


「ヒルイはなんでここに来たの、ここの卒業生?もしかして、ピタゴラスの部屋もヒルイが使ってたの?」


真中の質問にヒルイは首を横に振った。


「この部屋を使っていたのは、田所ミチっていう女の子」


「誰、それ?ヒルイの友達?」


「違う…」


ヒルイの瞳が闇に落ちる。雰囲気が変わった。


「カリンの件で私は色々調べ始めたけど、それまで自分が何も知らずに歌を歌ってたのがもどかしい」


「カリンって、最近自殺した歌手…?」



ヒルイが頷く。カリンという歌姫の自殺は世間に衝撃をあたえた。誹謗中傷に悩まされていたのが原因だというのも真中は知っている。


「…カリンがよく言ってたの、マネージャーの細田朱莉の口からよく『ピタゴラスの部屋』って言葉を聞いてて、耳も塞ぎたくなるようなことを自分の武勇伝みたいに語ってくるんだって。だから、聞きたくなくてカリンはマネージャーとの距離をおいてた。

そして、細田朱莉は何者かに殺されてる」


ヒルイはギターを両手に握りしめながら、小さな声で言葉を放つ。誰にも聞かれてたくない独り言のような誰かに吐き出してしまいたいと願っているような、何とも言えない声だった。


「…ねえ」

ヒルイが顔を上げる。真中は何を言われるのか分からない好奇心のようなものが渦巻いていた。

何も起きない、ただの音楽好きの自分がとんでもない渦中に飛び込む。もっと、いろんな感情を知ってたくさんの音楽が作れるチャンスかもしれないと思ってしまっていた。
ただ、それだけだった。


「私はすでに田所ミチに顔がわれてる。事務所にまで近づいて、細田朱莉に復讐をした。しかもその復讐はおそらくまだ終わってない」

「その、田所ミチって何者なの」

「細田朱莉を殺した犯人だよ。昔、ここで細田朱莉にいじめられた過去をもってる」

「…ここで、いじめが?」

「わっ、わっ、私、救いたいの、全部、何もかも救いたい。私ができることすべてをかけて、全部救う」


ヒルイがギターを強く握りしめた。

救うって、ただの歌手がどうやって救うというのだ。
自分が絡んでもいないことに、ここまで感情を向けられるものなのだろうかと真中はそんなことを思った。

しかし、ヒルイという1人の歌手が言う『救い』が純粋に気になった。だから、真中はヒルイが次に放つであろう言葉を待ったのだ。


「ねえ、協力、してくれない?」



真中は、頷いた。