彼女が真実を歌う時






私は一体どんな母親になったらいいのだろう。

答えのでない自問自答に、相場美奈子は頭を抱えた。
指に絡まる己の髪がひどく傷んでおり、ここ1年ほど美容院には行けていないことに気づいた。

朝食の食べかすが残る食器はそのまま、ポストに押し詰められたものを今日やっと部屋の中に入れ、読むことのないチラシやハガキがテーブルに無造作に広げられている。

やらなければいけないことはたくさんある。そんなことは分かっているが、頭を抱えたまま美奈子はしばらく動くことかできない。

片付け、洗濯、買い物、食事の準備。

それから、


「宗馬」


息子とのコミュニケーション。
美奈子の声に息子の宗馬は反応を示さない。
いつものことだが美奈子にとってそれはストレスの小石が自分の心の奥底でちょっとずつ積み重なっている感覚だった。

小学6年生の息子、宗馬は自閉スペクトラム症である。

こだわりが強く、血のつながっている母親であっても気持ちや本人の伝えたいことを理解することが難しい。

「宗馬」

再度名前を呼んだ。リビングで座り込んだまま5.6歳が好んで遊ぶような車のおもちゃを手のひらの上で乗せて左右に揺れている。
美奈子は苛立ちを声色にのせてテーブルを人差し指の先で叩く。

今、小学校は夏休み期間。周りの子供たちのように友だちとプールに行ったり夏祭りに行ったりすることのない宗馬は部屋の中で1人で遊んでいることが多い。


「100293665493883」


早口で数字を言った宗馬はちらりと美奈子の方に瞳を向けたがまたすぐに手のひらの上に乗せている車に目を向ける。
宗馬が自閉症だと分かった時、夫は隣の県に単身赴任が決まっており1人で宗馬を育てなければならないという覚悟はしていた。

週末は帰ってきてくれる夫にたいして感謝はあるもののなぜ自分だけがという気持ちはどうにも拭えない。
何もかもから逃げて楽になりたいと思うことは母親として絶対に思ってはいけないことだと美奈子は湧き上がってくる責任逃れの自分の感情を軽蔑した。

全てが嫌になって息子に手をあげそうになる時や、物にひどく当たりそうになった時、美奈子は自分の手の甲の皮膚を反対の手で強くつねる。

怒りより自分にぶつける痛さで感情を紛らすのだ。
気づけば癖のように自分の手の甲をまたつねっていた。


「宗馬、買い物行こう」


椅子から立ちあがって美奈子は宗馬にそう言う。
その言葉の意味を理解している宗馬は、おもちゃを古くなったおもちゃ箱に投げ入れて立ち上がった。

お気に入りの黒い帽子を被った宗馬がまた数字を口に出す。基本、宗馬は「うん」や「嫌だ」などの簡単な言葉は話すが、あとは理解できない数字の羅列をただ早口に美奈子に言ってくるだけだ。
美奈子は宗馬が数字を言うたびに責められているような気持ちになる。

『なぜ、息子の言葉を理解できないのだ』と。

腹を痛めて産んだ息子だ。責任をもって育てる覚悟はある。
だが、会話ができないと息子は確かに隣にいるはずなのに1人ぼっちのような感覚になる。


「夏だね、宗馬」


蝉の音が聴こえる。
宗馬の手を握って家の近くのスーパーまで歩く。


「39114933911」

宗馬は周りを指さしながらまた数字を言う。
普通に、「そうだね、お母さん」とそう返してほしいだけなのに。ただ普通の母親として願っていることが叶わない。美奈子にとって虚しさのようなものが押し寄せてくる瞬間である。

しばらくしていつものスーパーが見えてきた。
宗馬が美奈子の手を強く前に引っ張った。

ダメなことは分かっている。
ただ、少しの間この子から離れたい、誰かから『危ないから目を離すなよ』と叱られたらすぐに辞めよう。

きっとこれで宗馬に何かあれば必ず後悔をする。そんなことは分かっているが少しだけ忘れる時間がほしかった。
自分は母親であるが、1人の人間だ。
弱い、弱い、人間だ。

美奈子は走り出した息子の手を引き戻しはしない。



「いってらっしゃい、宗馬」


その手をゆっくりと離した。