日菜の前にコーヒーが置かれた。消えいるような声でお礼を言い日菜が顔を上げると、九条は日菜の視線から逃れるように少し離れたピアノの椅子に座る。そしてコーヒーを一口飲んだ。
「あの、先ほどはすみませんでした。頬、大丈夫ですか」
日菜は九条の顔色を伺うように九条を見る。九条はコーヒーカップから口を離して、日菜の方を見る。
「俺の心配より自分の心配したら」
そう言って立ち上がった九条は白いタオルを手に取り、日菜に差し出す。
「まあ、『悲劇のヒロインぶるな』なんて、泣いてる女にかける言葉ではなかったとは思う。悪かったな」
「いえ、その通りだったので。すみません」
図星だったからこそ、日菜は九条を叩いてしまった。
九条の言うとおり立ち止まっている暇なんてない。
タオルを受け取り、日菜は濡れた髪の毛を拭く。
ーーー『まだ、何も終わってないんだ』
本当に、その通りだ。
目の前のコーヒーカップを手のひらに当てれば冷たくなっていた指先に熱がうつっていく。
日菜の心は少し落ち着きを取り戻していた。
そしてふと、机の端に置いてあるチラシのようなものが日菜の視界に入った。
手を伸ばし、それを自身の方に引き寄せる。
「老人ホームコミナト…?」
「ああ、それ」
九条が机に手をつき、日菜の手に持っているそれを覗き込むようにして言葉を続けた。
「真中理音が俺に渡してきたやつ。今度老人ホームで歌うから観に来てくれって」
真中理音。パン屋の時に話してきた少女だ。
ヒルイとの関わりが必ずあることは確信している。
「一緒に行くか。真中から花田瑠衣歌の情報をききだすチャンスだ」
「でも…」
「この件からは外されるから関係ないって?」
「そういうわけではないのですが、勝手に動くわけには」
九条は小さく笑ったあと、日菜から離れるとピアノの椅子に座り鍵盤に手を置いた。
「若月さんが警察官になった理由って、田所ミチのことがあったからか」
日菜はその質問にすぐに答えることができず、下から順にゆっくりのぼっていく音色とその指先を見つめた。
その様子を見つめているうちに自然とゆっくり口が開いた。
「きっかけは、そうだと思います」
「田所ミチが生きてるとしたら、自分が見つけたいってそう思ったのか」
「最初はそう思ってました。でも、私が彼女を見つけても、彼女は、ミチは、嬉しくないと思います。つらい過去に引きずり戻すことになるわけですから」
九条の奏でている音色が止まった。
日菜は自分の拳を強く握った。
「ただ私は、弱い自分が嫌だったんです。強くなりたかった。だから、警察官になりました」
ミチを探す。その目的はいつしか現実味を帯びなくなっていて、あの時の弱い自分から少しでも変わりたくて日菜は警察官になっていた。
結局は、自身のエゴだったのだと日菜は思い知った。
「田所ミチが生きてるとなれば、細田朱莉の轢き逃げの犯人の可能性があります。それに、花田瑠衣歌を刺したのもミチかもしれない」
言葉にしてしまえばみっともなくまた泣きそうになる。口では強くなりたいと言っても、過去に縛られているのは紛れもなく自分だ、と日菜は唇をかんだ。
「…だったら、早く捕まえないとな」
九条はピアノの椅子に座ったまま、中央から少しずれて1人分の隙間をあけた。
「若月さんが、前に進むためにも」
九条はそう言って、日菜をみる。
日菜はゆっくりと立ち上がって、九条の元へと歩いた。
1人分空いた隙間に座る。
九条が両手を鍵盤に置き、奏ではじめたのは「キラキラ星」であった。
日菜はあのピタゴラスの部屋での情景を思い出す。
ミチから最初に教えてもらった曲。無邪気な笑みを浮かべ、日菜のペースを少し乱しながら日菜の右手に触れてくるミチ。
日菜にとって『ピタゴラスの部屋』という空間だけが、あの小さな世界の中で唯一光をともしてくれていた。
日菜は右手を鍵盤に乗せる。
「あの場所をミチから奪ったのは私なんです」
たどたどしく弾き始めたメロディとともに、日菜の口からもれた言葉。九条は何も言わず、日菜の音色に合わせるように音を紡ぎ出していく。
「自分の弱さで、ミチの居場所を壊した」
「…本当に悪いのは、田所ミチをいじめたやつらだろ」
九条が静かにそう言う。日菜の方に入ってきた九条の右手の小指が日菜の右手の親指に触れた。音が止まる。
「変になぐさめるつもりはないが、自分を責め続けるのも違う。お前の弱さに漬け込んできた細田たちも、差し伸べた手を握らなかった田所ミチも、全員に罪がある」
「っ、でも、ミチがあの時に復讐を誓ったとしたら、細田朱莉を殺したのも、きっと」
九条は鍵盤から手を離して日菜の言葉を遮るように片手で日菜の両頬を掴んだ。
日菜の瞳から溢れた涙が、九条の指に触れて消えていく。
「ははっ、変な顔。タコみてえ」
「なっ…」
「めそめそしてる暇あったら、さっさと真実調べたほうがいい。顔の歌だって、秘密が分かっただけで誰が何の目的で残したものなのかはっきりしてないだろ」
九条は日菜から手を離して、日菜を真っ直ぐ見つめる。今まで以上に近くなっている距離に気づいた日菜はその場所から離れるタイミングを見失っていた。
九条からしたらなんてことない距離なのだろうが、浦井たちがみればまた揶揄われるだろうと日菜は我にかえる。
そんなことを意識してしまうほど、日菜は少しずつ正気を取り戻していた。
誤魔化すように日菜は鍵盤に右手をおいて、『きらきら星』を再度弾き始めた。
「分かりました。花田瑠衣歌のことや細田朱莉の件、私も引き続き調べます」
「きらきら星リズムめちゃくちゃだぞ」
「合わせられるものなら、合わせてみてください」
「どんな喧嘩の売り方だよ」
クスクスと笑いながらそう言った九条は、日菜の奏でるめちゃくちゃなきらきら星でも綺麗な音色で彩った。



