体が解放される。
床にへたり込んだ日菜。
3人が日菜の前を去ったあと、クラスメイトが手を差し伸べてきた。
一部始終をみていたようだった。少しの罪悪感を顔に滲ませて日菜を見下ろしている。
「大丈夫?」
唇を噛み締めた。とたんに自分が最低なことをしてしまったという感情が湧き上がった。
このままでいいわけがないと。
日菜はその手を振り払い、立ち上がる。
涙を手の甲で荒々しく拭った。
「大丈夫なわけ、ない」
おそらく、あの3人は今からピタゴラスの部屋に向かうだろう。
日菜は踵を返して走り出した。
旧校舎へ向かう道は何通りかある。真っ直ぐには辿り着けないだろう。今日菜が走れば彼女たちより先に着くことは明白であった。
日菜は階段を駆け降りて、人通りの少なくなった廊下を全力で走った。
そして、茶色い扉の前で足を止める。
ドアノブに手をかけ、1つ大きな呼吸をしてから扉を開けた。
差し込んだ光に目を細めながら日菜は中に入る。
中にいたのはギターを背に抱えたミチだった。
ちょうどここから出るところだったのか、青いギターはケースに入っている。そこには日菜とお揃いのストラップが揺れていた。
日菜は安心のあまりにそこにしゃがみ込んだ。
「日菜?」
「よかった、ミチ」
「どうしたの」
日菜は息を整えながら言葉を紡ごうとする。
「あのね、ミチ」
「ごめんね、日菜」
ミチは日菜の言葉を遮った。
そして、扉の方にミチは走った。
日菜が追いかける前に外に出たミチは扉を強く閉める。
すぐに扉の方に駆け寄ってあけようとしたが、外からミチが抑えており開かない。しばらくして声が聞こえてきた。
「ここがピタゴラスの部屋ってやつ?なんだ本当にいんじゃん、田所」
細田朱莉の声だ。日菜は扉に手を当て力づくで開けようとするがミチはそれを許さなかった。
この場所を教えてしまったのは自分だ、苦しむのは自分でいいのに、なぜ扉は開かないのだろうか。と日菜の瞳に涙が滲んでくる。
もっと力が、心が強ければ、大切な人を守れるのに、と。
言い争うような声が聞こえて、ミチが扉に強く打ち付けられるような音がする。
日菜は必死に扉に耳をあて、何が起きているのかなんとか理解しようとした。
何度も扉を開けようとするのに、開かない。
ミチが強く抑え込んでいるというわけでもなかった。
強い衝撃で扉が壊れて開かなくなってしまっていた。
「ミチ!」
声が外に届いているのかすら分からない。
ただただ日菜は叫ぶことしかできない。
「どけ田所」
しばらくしてそんな細田の声がする。ミチには抵抗する力も残っていないのか、返事はない。
細田がガチャガチャとドアノブを動かして開けようとするが外からも開かないようであった。
日菜はただ何度も何度もミチの名前を呼んでいた。
「朱莉、ここまでして大丈夫なの?田所動いてないけど」
「大丈夫大丈夫、本当だったらこの部屋荒らしてやりたかったけどすっきりしたしいいや」
どこまでクズなのだろうか、あの女は。日菜はその茶色い扉を睨みつける。いや、本当のクズは自分だ。悪魔のような声に唆されて保身に走った。日菜は自分の太ももを強く数回叩く。ミチはもっと痛い思いをしている。
3人の足音が去って、日菜は泣きながらあたりを見渡した。
ミチとよく一緒に座っていたピアノの椅子が目に入る。
よろめきながらピアノの前に歩いていく。
白と黒の鍵盤を視界に入れた。
もうミチとここで連弾をすることも、隣で歌声をきくこともないのかもしれない、そう思った。
「嫌だよ、そんなの」
日菜は小さくそう呟いてピアノの椅子を両手で持ちあげる。
再び閉じられたドアの前に立って重たい椅子を振り上げ、思いきりドアにぶつけた。
汗か涙が分からない雫が頬をたたっていく。
何度も何度も日菜は扉に椅子をぶつける。
「ミチ!私、ミチの気持ちに答えることはできない」
扉の先にいるであろうミチへ向けて言葉を投げかけた。
どうか届いていてほしいと願う。
固く閉ざされた扉が日菜が与える衝撃で揺れていた。
「でも、ミチは私の大切な人だよ!もっと2人で話し合おうよ!辛いなら辛いって言ってよ!わたし、ミチと一緒にいたい!」
扉が大きな音をたてた。
やっと小さな隙間ができる。日菜はそこに手を入れて扉をこじ開ける。
壊れてしまった部屋の扉。きっとミチと2人でならまた直せると思った。
だが、
こじ開けた扉の先に、ミチはいなかった。
「ミチ…?」
あたりを見渡すがその姿はどこにもない。
床にはミチのと思われる血がついていた。
自分の息が荒くなるのを日菜は感じる。
嫌な予感がした。
もう、ミチはここに戻っては来ないかもしれないと思った。
日菜はかけだす。「まだ間に合う」となんども呟きながら学校の外へ飛び出す。



