取り出してきたのは鍵盤ハーモニカであった。
最後に使ったのは小学生の頃である。
少々懐かしい気持ちになりながらも、日菜は「ええ」と頷いた。
黒と白の鍵盤の周りは水色に囲まれており、自分はピンク色を使っていたことを日菜はふと思い出した。右には吹き口がついており白色の細く短いホースが伸びている。
「では」
九条の口から出た言葉に日菜は首を傾げる。
では?何が?
九条はおもむろにピアノの前に座る。そしてゆっくりと鍵盤に手を添えた。
九条の上半身が少し揺れ、ピアノの音がそこに響く。
日菜はこの状況に困惑しながらも九条が響かせる音色は耳に入ってきていた。聞き馴染みのある曲だったからだ。
曲のタイトルの答えが出る前に、頭の中に駆け巡っていたのはその曲の歌詞だ。
『ドはドーナツのド、レはレモンのレ』
小さい頃、よく歌っていたような気がする。そして中学生の頃この曲がアメリカのミュージカル映画で歌われたものだと知った。
あの頃、この曲が歌われている映画をきっかけにアメリカのミュージカル映画の面白さに気づいてよく観ていたことを思い出す。
九条は少し口角を上げ、日菜の方を見つめてそして日菜の目の前に置かれた鍵盤ハーモニカを顎で軽く示した。
ーーー弾けと?
日菜は白いホースの先にある黒い部分を手で持ち上げた。
九条はタイミングを見計らうように、ピアノの音に助走をつける。
そして日菜が吹き口を口に咥えたことを確認して、入るタイミングを伝えるように息を吸う。
拙い過去の記憶を呼び起こしながら日菜は指を動かした。
『ドはドーナツのド、レはレモンのレ、ミはみんなのミ、ファはファイトのファ、ソは青い空、ラはラッパのラ、シは幸せよ、さあ歌いましょう』
頭の中で歌いながら、日菜は小さな鍵盤を叩く。
音が外れたり、止まった時、九条はそれに合わせて音を変え、日菜に合わせるように速さを変えている。
なぜかそれが心地よかった。
2回同じメロディを弾き、九条は綺麗に終わりの伴奏を弾き完結させたあとゆっくりと手のひらを膝に置く。
日菜は困惑の中で、吹き口を親指の腹で拭きながら「あの」と九条に話しかける。
「一体、これは…」
「若月さんは、音楽療法というものを知らなそうでしたので簡単にどんなことを行うのか体験していただきました」
ピアノの椅子から立ち上がってそう言った九条は日菜の方に歩いてくると、再びテーブルを挟んだ前の椅子に腰をかける。
「孤独を感じている方が、協調性を感じられる方法として比較的簡単で手っ取り早いのが音楽です」
「協調性…」
「1つの曲を誰かと協力して奏でるそしてそれが上手くいけば達成感を得られるでしょう」
確かに。訳の分からない状態ではあったものの九条とセッションをしている時、不思議と心地よさと達成感を得られた。そしてそれは九条が日菜に合わせてピアノを奏でていたからだということも日菜には分かっていた。
再びメモとボールペンを握り、音楽療法=協調性という文字が加えられた。
これを花田瑠衣歌にもやっていたということだろうか。
「音楽療法はもっともっと色んなことに活用できますが、ひとまず『セッション』が1番多く用いる療法です」
「花田さんとはどのような、その、セッションを?」
「即興で歌を歌ったり、ピアノやギターを弾いていました。彼女は、心に余裕がある時私と顔を見合わせながら相手が奏でる音を感じ、『合わせる』ことができます。
ですが、何かある時は音が暴走して、こちらの音を聴こうしません。あえて、私とは音を合わせないようにするんです」
「彼女が所属している事務所のマネージャーと連絡が取れなくなったのが8月20日です。最後に彼女がここに来たのはいつですか。そしてその時のセッションはどのような感じでしたか?」
「8月22日です。最後に来た時私とセッションはしていません」
「では、何を?」
初めて、九条の顔が強張って緊張したのを日菜は見逃さなかった。やはり、九条は何かを知っているのでは。少し身を前に乗り出す。
「彼女と何を話したんですか」
「よく覚えないです。療法を受けに来たわけではなさそうでしたから、カルテは書いていません」
「花田さんはここに来たあと行方をくらましています。あなた何か知っているのでは?」
「私が警察に疑われているんですか」
「知っていることを話さないのは、疑われることに繋がりますよ」
「ほう」
九条は顎に手を添えて小さく息を吐いた。
そして顔を俯かせたあと、ポケットから取り出したのは1台のスマートフォンであった。
「誰にも知られていない、SNSのアカウントを教えてくれました」
九条はそう言って、しばらく画面に指先を滑らせたあと日菜の前にそれを差し出す。
花田瑠衣歌は世間に本名を公開していない。
そして音楽をやっている彼女は「ヒルイ」として表舞台を生きている。
差し出された画面に映っているSNSのアカウント名は、ルイカ。アイコンといわれるプロフィールの写真は初期設定のまま。フォロー、フォロワーと書かれている横には「0」という数字。
つまり、九条の言ったとおりヒルイとして生きていない自分だけのSNSである。
1台の小さな媒体を引き寄せて、日菜は指を滑らせる。
彼女にどんな裏の顔があるのかと思ったが、彼女がSNSにぶつけた言葉を日菜は理解することができなかった。
人差し指で文字を追う。
「ソドシラ、扉が開いたら、愛の歌、また小さな公園で歌おう」
それ以外花田瑠衣歌は何も書いていない。
ただ一つだけの投稿がされているだけで、終わっていた。
日付をみると、投稿をされたのはマネージャーと連絡が取れなくなった8月20日。事務所であるハルカゼスターが彼女の失踪の件で警察に届け出たのが8月22日。警察に届け出た日と九条のもとに花田瑠衣歌が最後に訪れたとされる日は一緒だ。そして失踪する前にヒルイはこの投稿をしていることになる。
日菜は怪訝な顔をして顔を上げた。
「この投稿の意味は?」
「さあ、アカウント名だけ教えられてそれ以外のことは何も」
「この投稿は気にならなかったのですか」
「…気にならなかったと言ったら、私はまた疑われますか」
「ええ。少なくともあなたと花田さんは距離の近い存在であったことは確かなので」
九条の眉間に皺がよる。日菜は目の前の男が少し雰囲気が変わったように感じた。
「言ったろ、俺はただの音楽療法士だ。それ以上でも以下でもない。彼女の心の状態は気になっても、素性を探ろうなんて思っていないし、どうだっていいんだ」
「どうだっていいなんて、そんな」
「人間の心なんて、簡単に救えないんだよ。ただ寄り添って、回復に向けて補助をする、俺はそれを仕事にしている。ただそれだけだ」
九条はこれ以上話をしたくないという意思を全面にだして、日菜の目の前にある鍵盤ハーモニカを持ち上げて箱にしまい込んだ。
日菜は慌てて「待ってください」と立ち上がる。
やってしまったと思った。『疑う』ということはすなわち相手を完全に敵に回すことになる。そんなことは分かっていたはずなのに。
「もう話すことはありません」
冷たい口調で放たれた言葉に日菜はそれ以上九条にたいして何も問うことはできなかった。
「また話を伺うかもしれません」と曖昧な言葉だけを残してその場を後にした。



