どうしたらいいのか分からなかった。
教科書をかかえて、ピタゴラスの部屋の近くまで来たが今日は名前を呼ばれなかった。足を止めかけたが、感情を抑え込む。
「ねえ、3組の田所さんって女の子が好きなんでしょ」
1人になりたくないと嘆く人たち。誰かの噂話や悪口は友情を深めるなどと勘違いも甚だしい常識がここではまかり通る。
いとも簡単に崩れ落ちそうなグループの幾分か後ろを日菜は歩く。
教科書を手に抱えて、日菜は窓の外を見た。
むかつくほどに快晴だった。
「やばいよね、それでクラスでいじめられてるって」
「ああ、3組のクラス通った時一回みたことある。田所さん1人に細田さんたちが直接悪口言ってて、空気険悪だったわ」
「うわあ、細田さんに目つけられたら終わりだね。お父さんいいところの社長でしょ、誰も逆らえないし。私たち違うクラスでよかったよね、若月さん」
不意に名前を呼ばれた日菜は窓から目を離して正面を向く。少し先を歩く3人の女子が日菜の方を振り向いて言葉を待っていた。
「…うん、そうだね」
下手な笑顔を浮かべた。
日菜の反応をみてまたしばらく3組の話を他人事のようにして、すぐに違う話にうつっていく。
彼女たちにとってはその程度の話なのだろう。
他のクラスの誰かが、『普通』の概念から外れていじめにあっていようが自分には関係のないことだと思っている。
日菜は自分を普通だと信じてやまない人たちの背中を見つめた。
ーーー自分はこの人たちと何が違うのだろう、と。
下手な笑顔を浮かべ、ピタゴラスの部屋に逃げて、友達に嘘をつかせている。他人の『普通』を守るだなんて、そんなことミチの口から言わせてしまった。
日菜は足を止める。
そして、くるりと体を反対に向けて走り出す。
今日はピタゴラスの部屋にはいない。
学校には来ているような気がしていた。
授業が始まるぎりぎりの時間帯である。もし、授業にでるつもりならクラスの中にいるはずだと思った日菜はミチのいる3組の教室に走った。
しばらく走ってミチがいるであろう教室がみえてきたとき、ふと、通り過ぎようとしていた女子トイレから声が聞こえて足を止める。
誰かが言い争っているような声だった。
「ーーーち悪いんだよ」
聞こえたその声。
日菜はおそるおそる中へ入っていく。
3人の女子が日菜の視界に入り、そして少し目線を落とすとバケツの水を被ったほど濡れている1人の女子が冷たいタイルに跪いていた。
ミチであった。
3人は後ろにいる日菜の存在にまだ気づいていなかったが、3人の前にいたミチは日菜に気づいた。小さく首を横に振る。『逃げて』とその口が小さく動く。
濡れた髪の毛から雫が地面に落ちていく。
日菜の中で怒りが瞬時に湧き上がり、ミチの方に駆け寄った。
「ミチっ」
日菜は3人を押し退けてミチの状態を確認したあと、ミチを背中にまわし、3人の正面に立った。
「こんなことして、学校に知られたら退学処分じゃないの細田さん」
「はあ?なんなのお前、てか誰」
細田朱莉。親のことや、その強気な性格もあってか誰も逆らえないような状況をつくりあげていた。言わば、ヒエラルキーのトップにいるような人間である。だがそれも、この小さな世界でだけだ。
一歩外に出れば、この人間だってなんてことない。日菜はそう言い聞かせた。
ミチの震えている手が日菜の背中のシャツを強く掴んでいる。
「若月さんじゃん。私と琴音、1年の頃同じクラスだったよ」
細田朱莉の右隣にいる女子がそう言って、もう1人の女子の方に問いかける。
柳田琴音と青谷葉月である。この2人は柳田が言うとおり1年の頃日菜とは同じクラスである。
「へえ」と細田朱莉の口角が上がる。そして一歩日菜に近づいた。
「友達なの、あんたたち」
「そうだけど」
「あんた、こいつが気持ち悪いやつって知ってる?」
「…自分が何を言ってるか分かってるの、細田さん」
細田朱莉は、日菜の胸ぐらを掴み上げて上に引き上げた。後ろでミチの「日菜」と叫ぶような声が聞こえた。
遠くで授業を知らせるチャイムが鳴る。
「質問を質問で返してんじゃねえよ、キモいんだけど」
「あなたがやってることは立派な犯罪よ。これ以上やるんだったら学校に知らせて警察呼んでやる」
「できるもんならやってみな、今日から標的はあんたになるけどいい?」
その言葉は全身に毒がまわるように、日菜の呼吸を苦しめる。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
「のぞむところだ」と言葉をぶつけようとしたが、
「だめ」
と、日菜の後ろからミチが声を出した。
そして細田朱莉に足先にしがみつくミチ。泣きながら地面に顔をうずめている。
「日菜は関係ない、お願い」
なぜ、自分たちは何も悪いことをしていないのにこんなことをしているのだろうか。日菜はからだを解放され、力なく地面にへたり込む。
ミチはそれでも泣きながら、細田朱莉の足元に手を寄せて「お願いします」と何度も何度も言葉を放っている。
おかしいのに、なぜ、声が出せないのだろう。
なぜ、自分はこんなに弱いのだろう。
日菜の視界が涙で歪んでいた。
「まじキモいわ、死ね」
細田朱莉が投げ捨てた言葉のナイフ。あげた足は、ミチの手を強く踏んだ。
痛みでミチが声をもらす。
「朱莉、これ以上はやばいってさっさと教室戻ろう」
そう言ったのは、柳田琴音である。それに同調するように青谷葉月も居心地が悪そうな顔をして頷いている。
所詮、この人たちも1人では何もできない弱い人間だ。日菜は3人を睨みつける。
そんな日菜の様子を見て、細田は日菜につかみかかろうとしたがそれを柳田と青谷の2人がとめ、しばらくミチへの暴言を吐いたあと3人は女子トイレを去っていった。



