人は皆、気づかぬうちに支配されている。
異物は、簡単に特定され、除外される。
それが怖かった。
「私、日菜のこと」
ミチの手が日菜の頬に触れた。
日菜は咄嗟にミチの手を払う。
途端に、ミチはまた泣きそうな顔をした。そして日菜に払われた手をもう一方の手で抑える。
「ごっ、ごめん」
「私の方こそごめん。やっぱり、噂きいてるよね」
ミチは立ち上がってピアノから離れると、近くに置いてあるギターケースに手を伸ばした。
日菜とは目を合わさないまま中にはいっているギターを取り出す。
日菜はかける言葉の正解が分からず、ミチを静かに見つめることしかできなかった。
床にあぐらをかいて座ったミチが足の上にギターを乗せる。
アコースティックギターは毎日ミチが持ってきていた。
日頃よくみる茶色のものではなく、ミチのギターは青色だった。
「ミチ、ごめん」
「何の謝罪?それ」
ピアノ椅子に座っている日菜を見上げたミチ。
何の謝罪。
ミチから向けられる気持ちに答えられないことなのか、この『ピタゴラスの部屋』でしかミチと話せない自分の意気地なさなのか。日菜自身にもそれは分からない。
ミチは静かに歌い出した。
日菜の知らない英語の歌である。
引き寄せられるように日菜は立ち上がり、ミチの隣に座った。
膝を抱えて自分の膝を包んだ。隣で奏でられる音楽に耳を寄せる。
日菜はこの時間が好きだった。
狭い世界で息苦しい毎日からこの時間だけは解き放たれている気がした。
ミチの奏でる音楽は、魔法だと思った。
ミチの歌声が終わりを告げ、ギターの余韻が静かに消えていく。
日菜は顔を上げた。
ミチが「日菜」と名前を呼んだ。
「これ、あげる」
ミチがポケットから取り出したのは小さなギターの形をしており、明るめのピンク色をした木のストラップであった。
日菜が手を出せば、手のひらにそれが乗せられる。
「かわいい」
「でしょ、色違いのおそろいだよ」
ミチはそう言って、ギターケースについているおそろいのストラップを指先で揺らした。それはミチが持っているギターと同じ青色だった。
友達とお揃いのストラップを持つことは密かに憧れであったため日菜の心は弾んだ。
日菜は「ありがとう」とミチに笑いかければ、ミチは照れ臭そうに日菜から視線を外してまたギターを弾きはじめる。
指で弦を弾いて、音を重ねていく。優しく、柔らかい音色だった。
「ミチは将来の夢あるの」
「なによ、急に」
「だってここに来たらミチ、音楽の話しかしないから気になって。やっぱり歌手目指してるの?」
「まだ分かんないよそんなの。音楽で食べていける人なんてほんの一握りだよ」
「そっか…」
「そういう日菜は」
日菜は小さく唸った。何になりたいなどとちゃんと考えたことはなかったからだ。なんとなく高校を卒業して、大学に行って就職して、普通な人生を送っていくのだろうと思っていた。
『普通』の概念なんて分からないのに。
「普通の人生、かな」
日菜の言葉に、ミチは音を止めた。
そして小さく息を吐く。
「私、今、振られたのかな」
ミチのその言葉に日菜は驚いたようにミチの方を見た。ミチは泣きそうな顔をしていた。
そんなつもりで言ったわけじゃなかった。
だが、無責任な言葉で傷つけたのは確かだった。
「あっ、えっと、そういうつもりで言ったわけじゃなくて」
「うん分かってる。大丈夫」
「ミチ」
「友達だもんね、私たち」
ミチはギターをケースに閉まった。
おそろいのストラップが端で揺れた。
「大丈夫だよ、日菜。日菜が『普通』を守れるように私頑張る」



