「なんで俺まで駆り出されてるんすかあ」
「どうせ暇だろ、浦井」
「捜査一課で暇なわけないっすよ、勘弁してください大宮さん」
「すみません、浦井さん。話を聞くなら一気に終わらせた方がいいと思って」
「若月さん、俺はね協力したくないわけじゃないんすけど、データ分析の時だけ頼られるのも解せないっすよ。しかもこれから会う九条さんって人、俺初対面ですし」
「大丈夫だ浦井。俺も九条さんとはほとんど初対面みたいなものだ」
大宮は平気で嘘をつき、浦井の肩に腕をまわした。
大宮はパン屋の件の時、九条から話を聞いている。30分ほどがっつり話しているので「ほとんど初対面」という括りには入らないだろう。
大宮の伝わりづらい気遣いに日菜は苦笑いを浮かべながら、階段を登る。
九条の仕事場はマンションのようなビルの3階にある。コンクリート状の建物が特徴的で、おそらく部屋の中は仕事がしやすいように防音になっているのだろう。
日菜の幾分か後ろから浦井の不満げな声が聞こえて、日菜は浦井の方を見て手を差し伸べる。
「浦井さん、パソコン持ちましょうか」
「いや、大丈夫っす。このくらい」
2台パソコンが入っているという黒い袋を少し肩から上げてそう言った浦井。
日菜は再度「すみません」と巻き込んでしまったことへの謝罪をして階段を登っていく。
「パンの歌の秘密も、その九条さんって人が見つけたんですっけ」
浦井の問いに日菜は「はい」と返事をする。
「そのパンの歌っつーのはどこにあったんですか」
「ある少年のスマホに入ってたんだよ。ヒルイは九条さんにだけ自分のSNSを教えて、上手いこと少年の元に誘導したんだと俺たちは睨んでる」
大宮が答えれば、浦井は不思議そうに首を傾げる。
「ヒルイは、警察が動くところまで予測していたということですか?たかが一曲の歌で」
「若月が話を聞きに九条さんのところに頻繁に行っていたから気づけたことだろ、そこは偶然なんじゃないか」
「だとしても、上手いこといきすぎですよね。まるで九条さんの存在だけじゃなくて若月さんの存在まで知ってるみたい」
日菜は足を止めた。
3階。九条の仕事場の扉。中からは微かにピアノの音が聞こえてきていた。
日菜は朝倉が捕まった時のことを思い出した。
真中というあの女子高生の存在だ。
日菜と九条のことは、ヒルイからきいたと言っていた。
それに、日菜にしか聞こえない声で放ったあの言葉。
ーーー『ピタゴラスの部屋』
あの部屋の存在を知っているのは、日菜と1人の友人と、そして3人の同級生だけである。
そして、その中の1人である細田朱莉は死に、日菜の友人だったその人は、
ーーーーー「ごめんね、日菜」
「さようなら!ありがとう先生!」
目の前の扉が開いた。
出てきたのは、1人の少年。そして愛おしそうに少年の頭を撫でる母親。
それに続いて手を振りながら扉から出てきたのは九条である。
そして、日菜たちの存在に気づきその笑顔がすぐさま引き攣った。
「あ、あの時の警察の方」
日菜をみてそう言ったのは、相場美奈子である。
そして日菜たちをみてすぐさま相場美奈子の足にしがみついたのは息子の相場宗馬。
日菜は驚いたように美奈子に頭を下げて、「これは」と戸惑いながら九条をみる。
「あの後、ここに来てくれるようになったんだ。音楽療法を受けてる」
後ろから大宮が「もしかしてあの時の少年か」と日菜に問い、日菜は小さく頷いた。
「若月さん、あの曲を見つけてくれてありがとうございました。改めてお礼を言いたかったんですが今は忙しいと九条先生から伺っていたもので」
「いっ、いえ!私は何も!」
日菜は両手を出して首を横に振る。
そもそも『愛の歌』の存在を見つけたのも、この親子を救ったのも九条である。
美奈子の装いは以前見た時とは違い、綺麗になっていた。
おそらく、気持ちに余裕も出てきたのだろう。
そして、数字しか言えない、会話ができないと母親は頭を抱えていたが先ほどの宗馬の「さようなら!ありがとう先生!」という言葉は、しばらく宗馬を見ていなかった日菜からしてみれば飛躍的な成長だと思えた。
「相場さん、また来週もお待ちしております」
「ええ、先生。ありがとうございます」
美奈子と宗馬が去っていくその姿を見つめる。
そして日菜は宗馬が手に持っている本に瞳を向けた。
思わず、「あ」と声を出す。
「今、彼が一番好きな本なんだそうだ」
九条が日菜の横に立ち、親子を見送りながらそう言う。
「ピタゴラスの音楽に特化した本ですよね」
九条が驚いたように日菜の方を見る。
「なんだ、知ってるのか」
「ええ。友人が好きだったので。宗馬くんと同じ本を持っていました」
「またマニアックな友達だな。宗馬くんはピタゴラス音律の周波数に最近ハマってるから、時々数字の羅列も何を言ってるのか分からない。
今の時代の平均律の周波数とも少し数字が変わってくるしな」
九条の言葉に、日菜だけでなく後ろの2人の男もポカンとしていた。何を言っているのか全く分からない状態だ。



