ーーー音楽が流れていたら、何かが始まる。
では、こちらも音楽を流れていた時がチャンスということだ。
日菜は賀川のところに行ったその足で『カガワベーカリー』へと向かった。
賀川と浅岡が繋がっているとしたら、警察がきた旨をすぐに伝えているかもしれないと思ったからだ。
すぐに証拠をもって逃げてしまうかもしれない。
捕まえるなら、今である。
大宮には黙っていく。証拠がでてから報告しようと日菜は決めた。
サルタレロードの白いゼラニウムを右に曲がりしばらく真っ直ぐすすむ。
そして人通りの少ない道沿いにある小さなパン屋。
扉の取っ手には『close』の文字が。
今日は、以前と少し違った。パンの匂いもコーヒーの匂いもしない。あの時のようにパンは作っていない時間。もしかしたら、と日菜は厨房側の裏の戸に回った。そして身を屈める。
きこえてくるあらゆる音に集中した。
微かに聞こえたクラシック。
音楽が流れていた。
日菜は身を屈めた状態で、自分より少し上にある戸の取手に手を伸ばした。
そしてゆっくりと手前に引く。
鍵は開いている。想像はついていた。以前ここで怪しい男を見た時、音楽が流れているのを確認して開いていたこの扉から入っていくのを見ていたからだ。
潜ませている拳銃を片手で握りしめて日菜は中に入った。
九条と物陰からみえていた店内とは別に裏の扉にまず繋がっていたのは倉庫のようなところ。
奥にはまた扉があり、そこを抜ければ、厨房へと繋がっている。
取り引きをしているとしたら、厨房かもしくは日菜が現在いる倉庫のような場所である。厨房には浅岡がいる可能性があるため電気をつけないまま日菜はゆっくりと中に進んでいく。
そこには材料というより、パンを作るための機材や樽が乱雑に置かれており、薬物らしきものはすぐには見当たらない。
日菜は再度歌詞を思い出した。
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ソドシラの道 スキップで進んで
白い偽りを右
その向こうに美味しい香り
あなたの大好きなパン
あなたの大好きなコーヒー
音楽がきこえたらそれが合図よ
ここよやなくよ のうなけわたし
ここよやなくよ のうなけわたし
ーーーーーーーーーーーーーー
「…あなたの、大好きなコーヒー」
日菜はあたりを見渡す。ここに食料などはほとんど見当たらないが唯一あったのは大袋に入った業務用のコーヒー豆。
日菜はそれに駆け寄る。
耳に入ってくるモーツァルトのクラシックがやけにうるさく感じる。焦燥を駆り立てているようなそんな感覚になった。
はやく、はやく、見つけないと。
袋を力づくで破ろうとしたその時である。
日菜が入ってきた側の後ろの戸が開いた。
日菜は咄嗟に棚の影に隠れた。
入ってきたのは以前、この場所に来ていた怪しい男であった。
肩にはコーヒー豆が入っているであろう大袋を抱えている。
「朝倉さーん、コーヒー豆届けに来ましたよ」
ーーー朝倉。
やはり、ここで働いていたのは浅岡という男ではなく、朝倉雄大。薬物疑惑の最中消えたハルカゼスターの元アイドルだ。
男の声をきいて、厨房に繋がる戸が開いた。
音楽がより大きな音で響き渡る。
日菜はチャンスだと思った。音楽に紛れてしまえば少々の音には気づかれない。
日菜は白手袋をはめて、あたりを見渡す。棚のフックにかかっていたハサミを手に取り目の前にあるコーヒー豆の袋を破いた。
「蛯名さん、ここで朝倉と呼ばないでください。俺、今浅岡として生きてるんで」
「誰も聞いてないから大丈夫大丈夫。音楽でかき消えてるし、しかも店の中誰もいないんだろ?」
「そうだけど」
男たちの会話をききながら、日菜は地面に溢れでるコーヒー豆をかきわけて手を中に突っ込んだ。
「蛯名さん、俺、いつまでこんなこと続ければいいの」
「はあ?何言ってんの、いいじゃん楽して稼げるんだから、うまいことやろうよお互い。ほい、じゃあこれお願いね」
バサリと朝倉が蛯名という男からコーヒー豆を受け取った。クラシックが章が変わり大きな音から軽やかな優しい音になった。その瞬間に、朝倉の少しだけ泣き出しそうな「重いな」という声がきこえる。
その瞬間、日菜の指先に袋が触れた。
人差し指と中指で挟みそれを引っ張り出した。
取り出したのと同時に袋が地面に倒れる。
コーヒー豆が地面に散らばった。
「あった」
日菜の手におさまったのは、透明の袋に入った白い粉。
「だっ、誰だ!」
音に反応した蛯名が大きな声をだす。
日菜は薬物が入った袋を手に持ったまま、立ち上がった。
「警察です!2人とも動かないでください」
日菜は手帳を2人に見せてゆっくりと近づく。
蛯名は慌てたような表情をしたあと、すぐに怒りにかわり朝倉を睨みつけた。
「朝倉!裏切ったか!」
「ち、違う!知らない!」
朝倉は怯えたように首を横に振る。笑顔の仮面が剥がれていた。蛯名に見せていた顔が本当の朝倉である。
現状で日菜が分かっていることは、朝倉自身今の状況に後悔しているということだ。
闇から抜け出せなくなっている。



