しばらく日菜と九条は店に怪しいところがないか周りを気にしながら男に不審に思われないように適当な雑談をした。
平日のお昼が過ぎた頃というのに加え、人通りの少ない道沿いのパン屋である。客も日菜たち以降は入っていない。
日菜は大きめの雑談から声を落とした。
「…どうやらここ、公式でネットにはのせてないみたいですね。スマホのマップにも出てきません」
「客寄せする気がないのかもな。『パンの歌』の歌詞が本当なら、それも頷ける」
薬物の受け渡しが本当なら。
日菜と九条は自らが選びすでに半分以上がお腹の中におさまったかけらのようなパンと、ほとんど飲み終えているコーヒーを視界に入れた。
と、
店内に、音楽が流れ始めたのだ。
日菜と九条は顔を見合わせる。そしてまた足音が聞こえた。厨房からでてきた男はにこりと微笑んでいる。
「すみません、本日は一旦閉めないといけなくて。ごゆっくりと言ったのに申し訳ございません」
男は深々と頭を下げた。
日菜たちはゆったりとしたクラシックを耳に入れながら立ち上がる。
椅子にかけた鞄を肩にかけながら日菜は男に問いかけた。
「先ほど、音楽はかけないとおっしゃってましたが」
男は日菜のそれに顔を上げる。作り上げられた笑顔は崩していない。
余裕に見えるその笑みに日菜はぞわりと嫌な予感が駆け巡った。
ーーー音楽がきこえたらそれが合図よ
「もしかして、タンパク質の音楽ですか」
九条の言葉に日菜は「え?」と首を傾げた。いきなり何を言っているのだこの人は、と。
「パンを作る時に音楽を流して、発酵を促進させるやり方があるんだ。それをやっているのではないですか」
九条はそう言いながら男の横を抜けて、ガラス越しの厨房の方へと向かう。
日菜は九条のあとを追った。先ほどよりも音が大きくなる。九条の言う通り、パン屋全体で流しているというより厨房のスピーカーからかなりのボリュームで音楽が流れているようであり、客に向けて聴かせているというわけではない。
「モーツァルトですね、発酵にはうってつけですね」
九条がくるりとからだを男の方に向ける。
男の顔が少し引き攣った。
「ええ、パンに音楽を聴かせると美味しくなるときいたもので店を閉めてパンを作っている間はこうやってクラシックを流しているんです」
だから先ほどこの男は「店を開けている時は、音楽をかける必要はない」とそう言ったのか、と納得しながら日菜は次から次へと浮かんでくる疑問の処理が追いつかなくなっていた。
音楽がきこえたら、合図。店が閉まる、パンが作られる。そこから、薬物の受け渡し。花田瑠衣歌はそれを『パンの歌』にひそませている。真実だと信じたいが、現状では何も動けない。
「また、来ます」
九条はそう言った。
男は口角をあげる。
「ええ、お待ちしています」



