「おまたせしました」
テーブルの上に置かれたパンとコーヒー。
日菜の頭の中には「ここ、やく、うけわたし」という言葉がぐるぐると回っている。その言葉が、ここで薬物の受け渡しが行われているという意味だとして、今パンとコーヒーを運んできた男はこの件と関わっている可能性があると日菜は疑っていた。
「ごゆっくり」と笑顔で言い放った男がその場を離れようとする。
「すみません」
九条が男を引き止めた。
男はくるりとからだを九条の方に向けて笑顔で「なんでしょう」と問う。日菜は九条が何を言い出すのか気が気でない。このタイミングで何か事件に関わることを話してもらって困る。何せ今の状況で手掛かりになっているのは花田瑠衣歌が残した『パンの歌』のみであるからだ。
「先ほど、女子高生がいらっしゃいましたがあの子もカフェを利用していたんですか」
「女子高生…ああ、真中さんですね。よくカフェの方も利用してくれてますよ」
「ギターを持ってましたが、ここではそういうことを?」
「そういうこととは?」
男の顔が少し険しくなったのを日菜は見逃さなかった。刹那の嫌悪、それは仮面のような笑顔でいとも簡単に塗り替えられていく。
「生演奏の音楽をここでは流しているのかなって。ここでは音楽、ましてやラジオなども流れていないようですから」
少し試すような口調。どこまで切り込むか、九条はうかがっているようだった。
もしここで薬物の受け渡しが行われているとして、花田瑠衣歌はどうやってそのことを知ったのだろうか、と不意にそんな疑問にぶつかる。
ふと、カリン誹謗中傷の件がよぎった。あの時の発端は所属アイドルの薬物疑惑であった。
「特に深い意味はないですよ、ご覧通りカフェの利用は稀ですから、店を開けている時は、音楽をかける必要はないと思って。
確かに真中さんは時々わたしに許可をとって作曲のためにギターを弾いたりはしていますので結果オーライでしたね」
そう言ってくすりと笑った男は、「では失礼します」とその場を去っていく。
男が厨房に入っていったのをみて、日菜はポケットからスマホを取り出す。
以前、大宮から共有してもらった男性アイドルの薬物疑惑の記事をフォルダから探し出す。
「何調べてんだ」
「花田瑠衣歌が所属している事務所では、前に男性アイドルの薬物疑惑の記事がでました」
「記事?」
「これです」
日菜は九条の方にそれを見せた。白黒のため読みにくいのか九条は画面に顔を近づけてそれを目で追う。
デビュー間近のアイドルグループに危機
Aくんに薬物疑惑
写っている若い男の目元には黒い線が入っているが、ファンなどからすれば分かるようになっているのだろう。当時はそこそこ騒ぎになっていたと大宮から聞いていた。
そしてその火消しのように上書きをしてきたのが、カリンのマネージャーの件である。
だが、日菜の中でカリンの件より先に気になることが1つあった。
「この男性アイドルは、この記事が出たあと行方が分からなくなっているそうです」
日菜の言葉に九条は「え」と戸惑ったように声をもらし、厨房の方に瞳を向ける。壁により隔たれており男が今何をしているのかは見えない。
「まさかあの男がそうだと?」
「花田瑠衣歌との繋がりを考えたらあり得る話だとは思いますが」
九条は日菜のスマホを持ち上げて、親指と人差し指の腹で画面を内側から外側に撫でた。目元が隠されたアイドルの写真が大きくなる。
「そんなに似てない気がするけど雰囲気も違うし」
それはアイドルとパン屋であれば風貌や雰囲気も同じ人間であろうとも変わってはくるだろう、と日菜は疑いを拭い去ることはできない。アイドルの行方が分からなくなっているならなおさらだ。
「行方が分からないってことは、薬物は本当だったってことか?」
「分かりません。事務所もその件については関係ないと口を閉ざしています」
「その事務所も怪しいな」
「ええ」
大宮が調べていっているが、決定的な証拠もないためまだ動き出せていない。
だが、大宮はかならずハルカゼスターの闇の部分を掴むだろうと日菜は確信があった。刑事になって隣で大宮をみていくうちに分かることがあった、大宮が睨んだところは何かが出るのだ。
自分も頑張らないと拳を強く握る。
「ひとまず、花田瑠衣歌が残した『パンの歌』が真実かどうかを調べないとですね」
「そうだな」
日菜と九条はパンにかぶりつく。
きっと美味しいのだろうが、味なんてしなかった。



